第9話 カフリンクス
お互いに名乗りを済ますと、ジャイルズはフィオナを中へと案内した。
「話は向こうで伺います。どうぞこちらに」
この場で渡してしまおうとレティキュールに手を掛けたのだが、返事をする前に先に行かれては仕方がない。
まっすぐな背中を追うように数歩ほど歩いたところで、ジャイルズが足を止めて振り返った。
(えっ、なに?)
なにかしただろうか。
慌てて脳内で直近の行動を思い返すフィオナの足元に、ジャイルズの視線は向けられている。
「失礼ですが、怪我を?」
「あ……はい。少し捻ってしまいまして」
驚いた。隠すのも不自然な気がして素直に答えたが、気付かれるとは思っていなかったのだ。
かなり普通に歩けていたはずだし、包帯だって見えていない。そもそもフィオナはジャイルズの
ちら、と窺うと、ハンスも意外そうな顔をしている。
「お見苦しいところを、申し訳ございません」
「いえ、そういう意味では……昨晩の、あの時ですね」
返事にますます驚いた。
自分のことなど覚えているとは思わなかったのだ。
(よく見ているし、記憶力もいいってことね)
些末なことまで目が届くとは、さすが次代の伯爵である。彼の人となりをフィオナは見誤っていたようだ。
ジャイルズの表情は相変わらず硬いが、申し訳なさのようなものが浮かんでいる。責任を感じているのだろう。
たしかに、彼を目当てに押しかけてきた令嬢に押されたせいだが、ジャイルズ自身はなにも悪くない。
むしろ助けてさえくれた。謝る必要はないのだ。
フィオナは困ったように肩を軽くすくめる。
「履き慣れない靴でしたから、そのせいです」
「しかし」
「妹が、お姉さんぶって手当てをしてくれました。かえって楽しかったですよ?」
腫れも引いたし心配ないと笑ってみせる。
それでようやくジャイルズは納得したようだが、階段の手前でフィオナに腕を差し出してきた。
一瞬、意味が分からず目を丸くしていると、後ろからこっそり肘で突かれてしまう。
『フィオナ様、手! エスコートですよ!』
ハンスの小声に見上げれば、ジャイルズは気まずげに視線を外していた。
「せめて杖代わりに」
「あ、ありがとうございます……?」
疑問形になってしまった返事に、ジャイルズがほんの少し表情を緩めたように見えたのは気のせいだったろうか。
手は肘の内側にしっかりと入れられて、フィオナは一段ずつ時間をかけて階段を上ることになった。
通されたのは二階の応接室だった。
「君は向こうで待つように。扉は開けておく」
同席せずに隣室で控えるようジャイルズに言われ、ハンスはちらとフィオナを見る。
失態の事実を、従者といえど部外者に直接見物されるのは嫌だろう。
不満と心配を顔に浮かべるハンスに、フィオナは大丈夫だと笑顔で促す。そもそも身分の上下からいっても、彼の指示には従う必要がある。
「ハンス、そうして」
「……かしこまりました。ご用の際はお呼びください」
そうして扉の外にハンスを残して部屋に入る。ティーテーブルにはすでに茶器が並び、先程応対してくれた執事と、昨晩も一緒にいたリチャードが待っていた。
ジャイルズにエスコートされて入室したフィオナに、二人はわずかに目を見張る。
(こういうことに慣れているようだけど、実は珍しいのかも)
女性が苦手だということと、社交的な行動ができることは相反しない。そのため、階段が終わっても下げられなかった腕に支えられたまま来たのだが。
すぐに昨日と同じ笑顔に戻したリチャードが、こちらに近付いてくる。
「やあ、いらっしゃい。昨夜も会ったね」
そう言ってにこやかに笑うリチャードは声も態度も、明るい午後の日差しと相まって、実に陽のタイプだ。
夜や月をイメージさせる雰囲気のジャイルズとは正反対で、だから気が合うのかもしれないとフィオナは思う。
「俺もいて構わないかな?」
「ええ、一向に。お邪魔してしまい申し訳ありません。すぐ済みますので」
「……へえ」
飛び入りはフィオナのほうだ。ジャイルズがいいのなら異存はない。
だというのに、なにやら面白そうに眺められてしまった。
(気さくだけど、抜け目なさそうな感じ)
フィオナを見る視線には、値踏みをするような色が見え隠れする。
顔と社交性でもって人気なリチャードだが、やはりそれだけの人ではないのだろう。また、そうでなくてはこの社交界を渡っていけないはずだ。
一男爵家の娘であると身元が割れたフィオナに、昨晩とは違った気安い言葉と態度で接してくるところ、割り切りのある人だとも分かる。
分からないのは、ジャイルズだ。
(なんで、まだ離れないの?)
リチャードと挨拶を交わす間も、彼はフィオナをエスコートしたままなのだ。力を込められているわけではないのに、なぜかその肘から手が抜けない。
おかげで片手を固定された、中途半端な姿勢での礼になってしまったではないか。
足先が沈む絨毯をふわふわと踏んで、掛け心地のいいソファーへ誘われる。
フィオナの足に負担がかからないように腰を下ろさせて、そこでようやく、腕が離れたのだった。
サーブを終えた執事も退室すると、フィオナとジャイルズ、そしてリチャードの三人が部屋に残された。
リチャードとも名乗りを交わした後はもう、季節の挨拶やまわりくどい口上でもったいぶる必要はない。
すぐにレティキュールからカフリンクスを取り出し、包んでいたハンカチに載せてティーテーブルの上へ出した。
「こちらをお返しいたします。お間違いありませんか?」
ジャイルズはそれを引き寄せると、指でつまみあげて両面を眺め、安堵したように息を吐く。
そして、ジャケットのポケットから同じ形のカフリンクスを取り出して、二つを並べて置いてみせた。
「この通り、確かに私のものです」
「よかった。万が一違ったらと少し心配で」
執事に渡した手紙に昨晩の詳しい経緯をはっきりと書かなかったのは、もし別人――例えば、似た名前の分家の子息など――だった場合を考えると、おおっぴらにしていいことではないと考えたからだ。
こうして二つが揃って並んでいるのを見て、フィオナもほっと安堵の息を吐く。
他家の紋章付きなど預かるには正直荷が重くて、一刻も早く本人に戻したいと思っていたのだ。
「失くしたと分かってから、ずっと探していたのです」
「そうですよね。すみません、私があの場ですぐに気付けばよかったのですけれど」
故意に手に入れ、持ち帰ったのでないことは、はっきりさせておきたい。
ジャイルズたちも気になるのだろう、説明を促すような視線に促されて、フィオナは経緯を話し始める。
「昨日、帰りの馬車の中で、そのカフリンクスが私の袖に引っかかっていたのに気がついたのです」
普段の簡易な服装であれば、袖口の小さな違和感も見落とすことはなかったはず。
地味とはいえドレスアップして、アクセサリーもそこそこ着けていたため、感覚が鈍っていたのだ。
「紋章からバンクロフト伯爵家のものと分かりました。それにご令嬢方から、たしか『ジャイルズ様』と呼ばれていたと思い出しまして」
「その通りです」
「郵便で送ったり、どなたかにお預けすることも考えたのですが。やはりご本人に直接お渡ししたほうがよろしいだろうと、突然お邪魔した次第です」
「そうしていただいて本当に助かりました。私ではなく他の者が受け取ったら、騒ぎになっていたはずですから」
折り目正しく礼を言った上で、ジャイルズはなにかを想像して眉間にシワを寄せる。
「もし、私よりも先に両親や姉などに知られたら、きっと貴女を誤解したでしょう」
「私、盗んでなど」
「ああ、いえ。言い方が悪かったですね」
なにかの拍子に落ちたに違いないと自分でも考えていたし、フィオナを疑ってはいないと訂正される。
それでも腑に落ちない顔のフィオナに、リチャードが説明を代わった。
「つまりね、君がジルの恋人だと思われただろう、ということだよ」
それを聞いて、パチリと目を瞬く。
フィオナの頭からはすっかり抜けていたが、紋章付きの小物は、恋人への贈り物としても使われる。
詐欺や不正使用よりそっちを心配するほうが、この場合は正しかったらしい。男女の駆け引きや決まりごとに疎くて、想像が及ばなかった。
友人のオルガなら真っ先にその可能性が浮かんだだろう。やはり、勧められた大量の恋愛小説を面倒がらずに読んでおけばよかったかもしれない。
「その点は思い至りませんでした」
「ははっ、そのようだね。ジル、取り越し苦労だったな!」
「……ああ、そうだな」
(あ、笑った)
ぽかんとしたフィオナの顔が面白かったのだろうか。
苦笑とはいえ、リチャードにつられるようにして、ジャイルズが初めて笑みを見せた。
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