第16話 密談は公園で

 翌日の午前中。先触れに記してあった時間を違えず訪れた客に、クレイバーン男爵は息も止まらぬばかりに驚いた。


「ロ、ローウェル卿?! ほ、ほほほ、本物っ?!」

「早くから失礼する。フィオナ嬢と約束を……クレイバーン男爵?」

「い、いえいえいえっ、た、大変、失礼を! や、約束? フィ、フィオナとですかっ?」


 訪問の知らせは来たものの全く心当たりがなく、なにかの間違いに違いないと心の底から確信していた父男爵である。

 ハンスにはそれとなく注進されたが、バンクロフト伯爵家の嫡男が実際に現れるとは露ほども信じていなかった。

 主人のあまりの混乱ぶりに、ハンスは遠くを見てしまう。


「ハ、ハンス! フィオナはっ」

「お父様、私はここよ」

「ああ、フィオナ……って、どうした?!」


 既に出かける装いで階段を降りてきた愛娘を見て、男爵は更にうろたえた。

 普段とは打って変わって、フィオナの目の下にはクマが浮き、顔色も青白くやつれていたのだ。

 騒ぎに気付いて顔を覗かせたセシリアも、明らかに具合の悪そうな姉に慌てて駆け寄る。


「お姉様、熱でもあるの? もしかして風邪? お腹痛い?」

「どどどどうしたっていうんだ、元気が取り柄のお前がっ」

「二人とも落ち着いて。私は平気。ただちょっとお父様、大きな声は響くの……」

「す、すまん」


 クレイバーンの父と妹は、ジャイルズそっちのけでフィオナを囲み、決して広くない玄関ホールはなにやら混沌としてしまった。

 社交の礼儀を守り先に家長に挨拶を、と予定していたジャイルズだが、こめかみを押さえたままのフィオナに視線で訴えられて、一連の手順を省略することに決める。


「取り込み中すまないが。ご令嬢をお誘いしてもいいだろうか」

「えっ、あ、ああ、ええ……って、はいぃ?」

「少し出かけてまいります。ハンス、お父様とセシリアをよろしくね」


 その後は口を開け閉めするだけになってしまった父と、あっけにとられたままのセシリアをハンスに任せて、ジャイルズを押し出すように玄関の外へ出た。

 背後で扉が閉まりエントランスの階段を降りると、フィオナはふうっと息を吐く。


「……申し訳ありません。普段はこんなふうではないのですが」


(あんなお父様、初めて。よっぽど次期バンクロフト伯爵の来訪はインパクトがあるのね)


 詫びるフィオナは、父が取り乱した原因の半分以上は、自分を迎えに男性が来たからだ、ということをわかっていない。


「いや、それはいいが……具合が悪そうだが、本当に大丈夫なのか?」

「夜更かしをしてしまって、寝不足なだけです」

「寝不足? なんでまた」

「読書です」

「本?」


 真摯に体調を心配するジャイルズの眼差しは、芝居と思えないほど真っすぐだ。青空から降り注ぐ光もやけに明るくて、フィオナは指先で軽く瞼を押さえる。

 睡眠不足の目には、どちらも眩しすぎる。


「実は、恋人のふりって具体的にどうすればいいか分からなくて。参考になるかと思って小説を読んでいました」

「ああ、なるほど」


 友人のオルガから譲られて未読のまま積んでいた恋愛小説を、片っ端から読んでいたら明け方だったのである。

 しまったと思ったが、ページをめくる手が止まらなかったのだから仕方がない。


 さら、と吹いた風とともに、フィオナの頬になにかが触れる。

 いたわるような手の感触に半分閉じていた目を開くと、すぐ近くに苦笑して覗き込むジャイルズの顔があった。


「……っ?」

「外に出たら少しは顔色がよくなったかな。もし途中で体調が悪くなるようなら、遠慮せずに言ってくれ」

「は、はい」


 フィオナの頬に指の背を滑らせながらの不意打ちに、目も頭も一気に覚めた。

 驚いている間にまたスマートにエスコートされて、停めてあった馬車に乗せられる。


 幌のたたまれた小型の二輪馬車は磨きこまれて輝いており、繋いである鹿毛の馬も利口そうに大人しく待っている。

 座席は上質の革張りだ。馬車にあるまじき極上の座り心地に、伯爵家の威光を実感する。


 御者はジャイルズ自身だから、正真正銘この馬上はジャイルズとフィオナの二人きり。

 無難で堅実な装いのフィオナとは違い、ジャイルズは外出用の軽装も品良く洒落ている。

 クラバットをとめているピンは、瞳の色に合わせたサファイアだろうか。整った尊顔もあわせて、麗しいことこの上ない。


(今更だけど……私、よくこんな人に「恋人のフリをしてください」なんて申し込めたわね!?)


 いくらリチャードの提案に乗った勢いとはいえ、一介の地味男爵令嬢として無謀すぎる。

 だが、一晩が過ぎてみても、あれ以上の選択肢はなかったとも思うのも事実だ。

 ジャイルズにしても、こうして迎えに来るくらいだから、反故にする気はないのだろう。


(せめて、それっぽく見られるように頑張らないと)


 カラカラと車輪の音も軽く走り出せば、馬の操り方も見事で同乗になんの不安もない。どこまでも完璧だ。

 行き先を尋ねると、城下中央にある公園だという。


「植物園があるところですか?」

「そう。このまま走りながら相談しよう。盗み聞きの心配もないし、私たちが一緒にいるところを大勢に見せることもできる」


 二人の交際は広く認知される必要がある。だが、芝居という事実はリチャードを含む三人のほかにバレてはいけない。

 家では家族や使用人の目があるし、外の店では誰に聞かれるとも限らない。

 この馬車なら大声で話さなければ周囲には聞こえないし、二人でいるところを見せて交際を匂わすことができる。

 なるほど、一挙両得である。


「『週末の夜会の前に、せいぜい周知徹底を』だそうだ」

「たしかにそうですね」


 いきなりパーティーに二人で行くよりも、噂が広まっている状況で仲睦まじ気に現れたほうが、はるかに効果的だと断言されたそうだ。

 さすが社交の達人リチャードの助言である。しかし、ジャイルズは半信半疑のようだ。


「君もそう思うのか?」

「ええ。だってほら、今だって」


 まだ午前中だというのに、通りは人の出が多い。そのほとんど全てがフィオナたちを――有名人であるジャイルズを、振り返って見ていた。


「……まあ、真価は夜会で判明するだろうな」


 まだ少し疑いながら、ジャイルズは小さく首を振った。

 噂話の影響力を知ってはいるが、上手く使う方法に関しては、あまり精通していないらしい。


(噂を避けることに注力していたんだろうなあ……なんというか、やっぱり気の毒)


 モテるのもラクではない。

 華やかに見える人にも苦労があることを、フィオナはしみじみ実感する。


「実は私も、昨晩は遅くまでリックに付き合わされていたんだ」

「そうなのですか?」

「ああ。恋人との交際に対するあれこれを、こまごまとレクチャーされたな」


(それは逆に不安かもっ?)


 昨日の「リチャードの真似」は心臓に悪かった。

 しかし、昨夜読んだ小説も基本的には似たような感じだったから、間違ってはいないのだろう――とはいえ、限度はある。


「あの、ジャイルズ様。さすがにラッセル卿のやり方を全部真似するのは、難しくないですか?」


 控えめにそう尋ねれば、ジャイルズは微かに眉を寄せた。


「だが、知り合いの中ではリックが一番女性の対応に慣れているし、私も彼の行動ならすぐに思い浮かべられる」


 今から違うやり方を学ぶには時間がない、と言うジャイルズは真剣そのものだ。

 この点に関しては、きっと彼自身何度も考えたのだろう。


「あいつを手本にするのが、一番効率がいい」

「でも、イメージがだいぶ……」

「君が私にどういうイメージを持っているのかは知らないが、リックには、普段とは別人くらいで丁度いいと言われた」


 小説の中の人物達も、恋をしたことで隠れた性格が表に出たり、思いもよらない行動を取ったりするようなことがあった。

 そういうものかもしれないと納得する反面、気になることもある。


「無理はしていませんか?」

「無理?」

「ジャイルズ様は女性が苦手と仰いました。私に触れるのは負担でしょう?」


 一連のエスコートも、頬へのキスも、それにさっきも。

 ごく自然に触れてくるからうっかり忘れそうになるが、本来、女性が苦手な彼が結婚を避けるための「恋人のふり」であるのだ。

 自分から望んでフィオナに触れているわけではないに決まっている。


「生理的に嫌なことを我慢する必要はないです。実際にはしなくても、それっぽく見える仕草とか角度とかもありますし」

「……」


 エスコートも接触も、最低限にしたいはず。

 本末転倒にならないように、という当然な申し出のはずだったのに、ジャイルズは一瞬真顔に戻り、ふいと顔を前に向ける。


(……あれ?)

 

 硬くなった雰囲気にフィオナは戸惑う。

 正面を見たまま、ジャイルズはむっすりと呟くように聞いてきた。


「私に触れられるのは嫌なのか?」

「嫌、では……ありませんけど」


 エスコートも頬へのキスも、驚いたけれど嫌ではなかった。なかったが、嬉々として受けるのは違う気がする。

 小説のヒロインたちは恋人に触れられて喜びはすれど、困ったりはしていなかった。

 だから、この感覚をどう言い表せばいいかフィオナには分からない。


「あ! それでは、ジャイルズ様が私に触れるのは構いませんが、私のほうからはくっつかないようにしますので、安心してくださいね」

「……それはどうも」


 いくら「恋人役」といえど、ベタベタされては気分が悪いだろう。

 そう思ったのに、ますますジャイルズの機嫌は悪くなったようだ。


(もしかして、プライドが傷ついた? いやでも、女性は苦手だって本人も認めていたし……ええ、わかんない)


 さっきまで和やかだったはずの、空気の急変についていけない。

 だが、そのままにしてはおけなくて、フィオナは食い下がった。


「私、もしかして余計なことを言いました?」

「……そういうわけでは」

「でもあの、なにかあるなら言っていただきたいです。私も男性とお付き合いしたことがないですから、分からないことばかりで……だからといって知らないうちに不愉快にさせたり、傷つけたりしていたら、嫌です」


 よく考えれば、そもそも出会ってまだ三日目。

 年齢も性別も育ち方も違う同士、分からないことのほうが多くて当然だろう。


 それならたくさん話して、どう思っているかを伝え合って、齟齬と距離を埋めていきたいと思う。


 たどたどしくそんなことを伝える間、ジャイルズは黙って聞いていた。


「これから私達って、いろんな人にいっぱい嘘をつきますよね」

「……まあ、そうなるな」

「だから私、ジャイルズ様にだけは嘘をつきたくないです」


 そう訴えるフィオナに、ジャイルズはようやく顔を向けた。

 自分たちの身勝手を通すための強引な芝居だ。

 良心をごまかすための偽善かもしれないが、それが最低限の誠意に思えた。


「ジャイルズ様も、嫌なことは嫌だって教えてほしいです。どうしたらいいか分からないことは、一緒に考えさせてください」


 フィオナの言葉を最後まで聞いたジャイルズは、ふっと表情を緩め、僅かに唇の端を上げてまた前を向く。

 手綱を軽く揺らしてリズムよく馬を歩かせながら、フィオナの名を呼んだ。


「フィオナ」

「はい」

「嘘と無理は無しで、お互いを尊重する。その上で恋人のように振る舞う、ということでいいか」

「はい、そうです」

「確認するが、君は私に触れられて嫌ではないんだな?」


 再度訊かれて、フィオナは肯定の言葉と共に頷いた。

 ロッシュの店での接客の際や、夜会でダンスをするときに不躾に触れてくる相手に感じるような嫌悪感は少しもなかった。

 それは確かだ。


「ならば問題ない。だから、君も私に対して過剰に構えずに『普通の恋人同士』のようにするといい」

「……嫌なことは、ちゃんと言ってくださいます?」

「約束する」


 満足そうに微笑んだジャイルズに、フィオナもつられて笑顔になった。









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