第92話 星月夜に花の名を(下)
市内を流れる川に沿う大通りは、広い歩道の脇に店が軒を連ねている。
ブティック、雑貨、書店など店の種類も様々で、営業時間が過ぎた今もショーウィンドウは明るく照らされている。
窓辺の凝ったディスプレイと、石畳にコツコツと鳴る靴音が楽しいと口角を上げて歩くフィオナに合わせて、ゆっくり足を進める。
満席の店内から出てもフィオナはまだ上着を手に持ったままだ。街灯の下、風に靡く髪の間から覗く肌がやけに白く見えてしまう。
「フィオナ、もう暑くないだろう」
「?」
掛けられた声に足を止め、ジャイルズを見上げるフィオナに服を羽織らせる。
今度は嫌がらずされるがままでいたフィオナだが、首筋を掠めた手に肩をすくめた。
「ん、くすぐったい」
「……っ、わ、悪い」
慌てて手を引っ込めたジャイルズの反応に軽く笑って、ワルツのステップを踏むようにくるりと背を向ける。ちょうど玩具店の前で、窓辺には木馬やドールハウスなど、子供が喜びそうな物が並んでいた。
天井から糸で吊るされた、揺れるオブジェにフィオナが目を輝かせる。
「星、月……流れ星」
「好きなのか?」
「これはセシリアも、楽しいの」
まだ幾分言葉足らずな話を聞くに、フィオナの妹であるセシリアが幼い頃は本当に床についてばかりで、玩具で遊ぶことすらままならなかったそうだ。
だから家にあったのは、抱いて眠れるぬいぐるみとこういった飾りだけだった、と。
亡母と妹、二人の医療費で生活に余裕はなかったから、自分だけが使える遊具はもらえなかったのだと、ただ懐かしそうだ。
「欲しいとは思わなかった?」
「わたしは、外で遊べたから」
申し訳なさそうな声音は、病弱な妹に向けたものだろう。本当に仲がいい。
じっと見つめられて、言葉はないが自分のことを聞きたいのだと感じてジャイルズは記憶を探る。
「……部屋の床が埋まるくらい誕生日祝いの品が届いたこともあったが、その中に欲しいものはなかったな」
家同士の付き合いや、社交の一環で贈り合う品だ。
カードにジャイルズの名が書かれていても、実質は伯爵家に宛てたもの。贅を凝らした細工物や年齢に合わない本など、いくらあっても心に響かない。
(……昔のことだ)
頑迷な祖父の元、姉妹育ちの母は男児が好む物が分からず、多忙な父親は子供に構う余裕などなかった。そのうちに、玩具で遊ぶ年齢は過ぎる。
そんなことを話すとフィオナは表情を曇らせた。
「おもちゃ、ない?」
「リックの家に行けば壊してもいい遊び道具が山ほどあったから、そっちで」
そう、と独り言のように呟いて、フィオナはまたガラスの向こうの星を見つめる。と、不意に手を取られた。
「五歳のジル様は、どれが好き?」
「え?」
「六歳は? 七歳のときは、なにが好きだったの?」
「なにって……」
返事は求めていないらしい。ジャイルズの手を引いて歩き始めたフィオナは「こっち」と脇道へ先導する。
だいぶ意識は戻ってきたが、まだ酔いは醒めていないようだ。
覚束ない足どりは気にかかるものの、方向的には帰り道である。拒否する理由もなくついて行くと次第に店舗が減り、民家が増えてくる。
街灯に照らされた前庭や明かりが灯る窓辺を、季節の花が彩っている。
丹精されたそれらをジャイルズに見せたかったらしく、フィオナは「あった」と嬉しそうに咲いている花を指差す。
「ジル様。バラ」
「そうだな、バラだ」
子供に教えるような――いや、見つけた宝物を親に見せる子供のような、得意げな言い方だ。
真面目に頷くとそのまま、繋いだ手を揺らして嬉しそうに次々と別の花の名をあげていく。
「赤いゼラニウム、白のガーデニアとゴテチア、青いスカビオサ」
「よく知っているな」
「オレンジのダリア……ヘイワードのお屋敷のダリアは、赤」
「大叔母の?」
「そう。ガゼボのそば」
「……ああ」
花の庭で過ごした日が蘇る。
ゴードンの件で不自由を強いた結果の滞在だったが、思い出は二年経っても色褪せることなどない。
花の名前をほとんど知らないジャイルズに楽しそうに笑ったフィオナとの、取り留めもない会話がただ心地好かった。
フィオナへの想いをもっと早くに――たとえばあの時に自覚していたら、なにか変わっただろうか。
繰り返した自問には今も答えが出ない。
「あのとき、小さいジル様に花の名前を教えたいと思ったの」
歌うように花の名を告げて歩きながら、顔だけ振り向いて見上げる琥珀色に惹き込まれる。
「今度、エニシダが咲く原っぱに、五歳のジル様を連れて行ってあげるね」
「……君は――」
幼かった自分に、手が差し伸べられた気がした。
物質的には充分に恵まれていても、どこか欠けていた自分に。
続けられなかった言葉の代わりに腕が伸びる。前を行くフィオナを背中から抱き込むと、軽くよろけてそのまま身を預けてくる。
自分の腕の中にフィオナがいる。その安堵感は言葉にできない。
この手をまたすり抜けて飛んでいってしまいそうなフィオナに、余裕など欠片もないジャイルズの心はこうして何度も摑まれる。
雪解けの花が香る髪に顔を埋め、耳の後ろに唇を寄せる。
名を呼ぶと揺れた肩越しに、回したジャイルズの腕に掛かる手が、あの指輪が見えた。
「花は嫌だった? やっぱり、木登りのほうがいい?」
「いや。君が行きたいところなら、どこでも」
「……ジル様も行きたいと思うところがいいの」
「そうか」
――どうして離れていられたのか分からない。フィオナのいない人生など、考えたくなかった。
「その原っぱね、春はスミレが咲いて――」
「ブルーベルは?」
「…… ブルーベル……ううん」
「なら、帰ったら見に行こう。来年」
「来年?」
期限を切らないからこそできる先の約束に、琥珀の瞳がぱちりと瞬く。
腕の中のフィオナの向きを変えると、先程掠めた首筋に手を回して鼻先が触れるほど引き込寄せた。
「来年もその次の年も、毎年。好きだろう」
「すき……? そう……好き」
花のことか、目に映る相手のことか。
言わなくても問わなくてもよかった。
囁くように語らう唇が重なる寸前、近づく足音を耳が拾う。
「あっ、いたー! 見つけた! 帰るまで二人っきりはダメって言っただろー!
「……帰国しましょう、今すぐ」
「本気だしてきたな!? 遅いけどまあいいや、でも予定変更は認めなーい!」
「レジー、大人げないぞ……あれ、お嬢様やっぱり寝ちゃいました?」
邪魔をするなと怒ればいいのか、助かったと胸を撫で下ろせばいいのか。
駆け寄るレジナルドと苦笑するロッシュを、肩口にフィオナを抱き込んだまま、複雑な気持ちで迎えたのだった。
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