第29話 ヘイワード侯爵家

 ヘイワード侯爵家の広いエントランスに降り立ったフィオナは、その豪華さと格式の高さに目を丸くした。


(わあ、すごい)


 中に一歩踏み入れば、高い天井、ピカピカに磨かれた大理石の床。

 正面には水晶の彫刻があり、二階へと続く階段の手すりは葡萄の蔓模様。


 過去二回の鑑定で訪れたのは、ブルック伯爵家とファウラー子爵家。侯爵の位にある家を訪れるのは、フィオナは生まれて初めてだ。

 ジャイルズのバンクロフト伯爵家は旧家でもあり、これまでの中では一番だったのだが、ヘイワード侯爵家の屋敷構えはさらに少し上というところだろうか。


(というか、侯爵家に匹敵するバンクロフト伯爵家がすごすぎるのよね)


 フィオナの隣にいるジャイルズは、そういう家の跡取りなのだ。

 なんとしても妻の座を獲得したいと狙う女性や、縁故になりたい者は多いのも納得だと、整った横顔を眺めながら改めて思う。


「どうした?」

「いいえ。素晴らしい邸宅だな、と」


 うっかり見つめすぎていたようだ。にこりと笑ってごまかせば、エスコートの手を持ち直された。


 控えていた使用人に案内されて、屋敷内を行く。

 歩きながらきょろきょろするのは無作法だと分かっているが、廊下の絵画や飾られた品に目がいってしまうのはもう習性のようなもの。

 特に応接室へ向かう道中にあるものは来客の目を引く意図もあるので、つい視線が引き寄せられてしまう。


 必死に抑えながらも興味を隠し切れないフィオナに、ジャイルズはくすりと笑んだ。


「あとでゆっくり見ればいい」

「いえ、そういうわけには」


 これまでの訪問先では最初、訝しげな視線を向けられていても、話したり絵を見たりしているうちにそれが薄れてくるのが常だった。


 最終的には美術談義に花が咲き、コレクションを見せられたり素晴らしい庭を案内されたり。

 社交に出なくなったご隠居から昔話を聞けたりもして、贋作だったことは残念だが、楽しい時間を過ごさせてもらえた。


 とはいえ、毎回そんな魅力的なオプションを望むのはさすがに無遠慮が過ぎる。

 しかも今日は格上の侯爵家だ。本来なら私邸に立ち入ることすら叶わないのだから、こうして眺められるだけでも十分幸運だろう。


 到着した応接室には、既に侯爵夫人と家令が待っていた。

 小柄な老婦人が、ぱっと笑みを浮かべてソファーから立ち上がる。


「ご無沙汰しております、レディ・ヘイワード」

「まあまあ、ジャイルズ! あなたったら本当にご無沙汰なんですから」


 侯爵夫人は、ふわふわとカールした白髪が愛らしい、なんというか、砂糖菓子のような女性だった。

 フィオナの祖母と同じくらいの年齢だと聞いていたが、表情も服装もとても若々しい。

 そのはつらつとした顔が、すぐにフィオナにも向けられる。


「こちらのお嬢さんね?」

「ええ。フィオナ・クレイバーン男爵令嬢です。フィオナ、こちらがオクタヴィア・ヘイワード侯爵夫人だ」

「はじめまして、フィオナさん。今日はよろしくね」


 バンクロフト家とは縁戚に当たる侯爵夫人は、ジャイルズの名付け親でもあるとのこと。

 仕事とはいえ、私的な縁者に紹介されるのはなんとなく気恥ずかしい。


「お初にお目にかかります。フィオナ・クレイバーンと申します」


 ジャイルズの紹介を受けて礼を取ったフィオナだが、侯爵夫人がまず真っ先に左手の指輪に注目しているのが分かった。


(み、見られてる……すっごく見られてる! すみません、です!)


 浮いた噂の一つもなかった名付け子にようやくできた相手だ。それは興味津々だろう。

 本物の恋人でなくてすみません、と心の中で謝りつつしっかりと微笑みを浮かべて体を起こす。

 鑑定結果を信用してもらうためにも、第一印象は重要だ。


 低い背でフィオナを見上げる侯爵夫人の青い瞳は少女のように澄んでいる。

 そこに格下の令嬢を賤むような色は見えないが、代わりに好奇心が前面に出ていた。


「うふふ、そう。このお嬢さんがねえ」

「……大叔母様、なにか」

「いいえぇ、なーんでも。うふふふふ?」


 夫人は、珍しく気まずそうにするジャイルズをお構いなしにからかっている。気さくな人と聞いていたがその通りで、フィオナはほっとした。


 それに――本来であれば、男爵位などではなく釣り合う家格の令嬢のほうがいいだろうに、フィオナとジャイルズの交際には寛容のようだ。


(まあ、お付き合いと結婚は別だから……ね)


 貴族の婚姻は家同士で決まる。

 恋愛はわりと自由だが、結婚は然るべき相手とするのが普通だ。


 気負いなく話している侯爵夫人と伯爵令息の二人はそもそも、フィオナの人生では関わるはずのなかった人たちだ。

 分かっていたしそれが当然のことなのだが、なんとも言いようのない気持ちになる。


(……変なの)


 ジャイルズに気が済んだらしい夫人が、フィオナの全身をくまなく眺めた。


「ねえ、あなた。そのドレスはもしかしてメゾン・ミシェーレ?」

「はい」

「まあ、やっぱり! お若い方はなにを着ても可愛らしいけれど、よく似合っていますよ」

「あ、ありがとうございます」


 ベネット夫人の店では結局、夜会用のドレスだけでなく普段用にも数着仕立てることになってしまった。

 出来上がってきたこのドレスは、すこし上等な街着兼訪問着といったところ。


 ベネット夫人やデザイナーが張り切ってくれただけあって、髪や肌の色もいつもよりきれいに見える気がして、早速お気に入りの一着である。


(そういえば私、せっかくの新しいドレスで、全力疾走したわね? すっごく足さばきも良くて走りやすかった! さすがベネット夫人!)


 でも正直な感想を伝えたら、走るための服ではないとお小言をいただくに違いない。

 汚れたり破れたりしなくて本当に良かったと、今更ながら盛大に安堵する。


「わたくしもミシェーレのドレスが一枚くらい欲しいのだけど、最近はあまり出かけませんからねえ……でもこうして見ると、いいわね。やっぱり頼もうかしら」


 冬用のガウンも素敵よね、とウインクまでする夫人につられて、フィオナもふわりと微笑んだ。

 そのままファッションの話題が続きそうな夫人を、ジャイルズがやんわりと軌道修正する。


「そろそろよろしいでしょうか」

「ああ、そうね。若い方とお話しするのは大好きだから、つい。終わったらここに戻ってお茶にしましょうね。どうぞ、絵は二階なの」


 そうして家令の先導で案内されたのは客室の一つだった。

 メインゲストルームではないそうだが、十分に立派で調度も揃っている。


 フィオナの私室よりずっと広いその部屋の壁に、女性でも持てるほどの大きさの風景画がかかっていた。

 緑ゆたかな湖畔を描いたその絵は、一目で画家の名が浮かぶ。ぱっと見は本物だ。


「ランメルトですね。いつ頃描かれたかはご存じですか?」

「三年前と言っていたわ」

「亡くなる少し前の作品ですね……では、失礼いたします」


 断りを入れて新しい作業用の手袋を着け、ルーペも用意する。


(今回は、空振りであってほしいのだけど)


 投機目的でない限り、絵画の購入者は絵そのものだけでなく、画家の人生や自分の思いと重ねた背景も込みで入手する場合が多い。

 たとえ気に入っていたとしても、本物と信じていたものが偽物だったと知ったときの落胆は大きいのが通常だ。


「残念ですが」と告げるのは、絵が好きで売る側にいるフィオナとして非常に辛いものがある。


(ランメルトが描きそうな絵ね)


 湖畔の風景はこの画家が好んで描いた題材であり、残された枚数も多い。

 目の前にある絵は今までの二枚やフィオナのベニヒワと違い、初見で「違う」とは言い切れなかった。


 本物でありますようにと願いながら、頭と目は冷静にと言い聞かせて絵にもう一歩近づく。


 ランメルトは色のグラデーションが特徴的な画家だ。かつ、その表現として、絵筆の跡が分かるほどの凹凸を出し、立体感を持たせる技法にも長ける。

 ところどころをルーペでも確認していくフィオナを、侯爵夫人はソファーにも座ることなく期待の眼差しで見守った。


「ふふ、絵を見ると表情が変わる子なのね。そんなところが気に入ったのかしら」

「大叔母様」

「あなたってば、わたくしが勧めたお嬢さんもみーんな断っちゃうんだもの。それが急に恋人ができたなんて、ねえ!」


 屈託のない侯爵夫人の声は、絵に集中しているフィオナには届かない。


「それに、買った絵が偽物かもしれないなんて、なんだかドキドキしちゃうでしょう?」

「大叔母様も小説の読みすぎでは」

「楽しいわよ。貸しましょうか?」

「いえ、結構です」


 一通り見終わって小さく息を吐いたフィオナに、待ってましたというように侯爵夫人が問いかける。


「どうだったかしら。本物、偽物?」


 ようやく絵から視線を外せば、期待に目を輝かせた夫人が、浮かない顔のフィオナを一心に見つめていた。


「……申し訳ございません。即答しかねます」

「あら、どういうこと?」

「仕上がりが荒いところや、らしくない部分があるのですが、晩年のランメルトが病床にあったことを考えると、否定できない範囲の乱れなのです」


 フィオナが見た最晩年の作品はもっと乱雑で簡素だった。そうは言っても、その作品には感じられた勢いが、この絵にはない。

 つまり――本物とは言い難い。

 だが、病魔は画家の心も腕も刻々と変える。時期的に「偽物」とは簡単には言いきれなかった。


(もしこれを本当にあの子ルドルフが描いたとしたら、大したものだわ)


「アカデミーに依頼するか?」


 ジャイルズのその質問に、フィオナは頭を巡らせた。


「いえ。ランメルトなら絵を額から外せば贋作かどうか分かりますので、画廊で間に合うかと」

「まあ、そうなの?」


 疑問の声をあげた夫人に、フィオナは説明をする。


「キャンバスの縁や裏といった表から見えない部分に、画家がサインや日付をいれることがあります。ランメルトもそれを好んだ一人なのですが、彼はそこにちょっと変わったものを書くので、それを確かめられれば、と」

「変わったもの?」

「はい。愛の言葉です」

「あら!」


 それを聞いた侯爵夫人はますます目を輝かせる。

 ランメルトは生涯独身だったが、恋をしてばかりの画家だった。

 そのせいかどうか、描いている時に関係のあった人物に向けた告白や賛辞をしたためる癖があったのだ。


 たぶん、一般にはそれほど知られていないと思う。

 フィオナも、画家と直接交流があったアカデミーの調査官から聞いて知ったのだ。


「最後の恋人は、たしか女優のアントニアでしたから、彼女へ向けた言葉が書いてあると思うのです。もしそこも真似られていたとしても、サイン以外の文字があれば自筆との筆跡比較も容易になりますし」

「素敵、見てみたいわ! モーリス、この絵を外して!」

「え? お、お待ちください、侯爵夫人」

「だって画廊に持って行ったら、わたくしが見られないでしょう」


 額装の付け外しは、下手をしたら絵を痛める場合がある。

 大きな作品ではないから扱いはまだ容易だが、不慮の事故を防ぐには本職にまかせるべきであろう。


「あの、でしたら職人を呼びますので」

「待てないわ!」


 侯爵夫人はすっかりやる気のようで「平気、平気」と目をキラキラさせて絵を外すように指示を出し、有能で従順な家令は粛々と実行している。


「ど、どうしましょう」

「仕方ない。こういう人だから」


 おろおろと見上げれば、苦笑したジャイルズから肩に手を置かれた。

 今までもこういった要望を叶えてきたのだろう、迷いのない家令の手は順調に打ち付けた釘を抜いていく。


「フィオナ、率直な所見は」

「……偽物です」

「それでも心配か?」

「誰が描いた絵であっても、傷をつけていい理由にはなりません」


 息がかかるほどの距離でジャイルズに小声で問われても、ハラハラと作業を眺めるフィオナはそれどころではない。


(でも、手際がいいわ。これなら絵は大丈夫そう)


 そして絵は無事に取り出されたのだが――どこにも文字はなかった。

 愛の言葉どころか、サインも日付も何一つ書かれていない。


 それどころか真新しい木枠は、ごく最近の物であることを示している。

 やはり、これも贋作であろうと家令も含めて四人は顔を見合わせた。


「んー、残念ねえ……あら、それはなあに?」


 侯爵夫人の視線を辿ると、片付けようと家令が持ちあげた裏蓋の内側に、封筒がぺたりとくっついていた。


「手紙か。フィオナ?」

「いいえ、そのような事例は存じません」


 もの問いたげなジャイルズの視線と声音は、これも画家に由来するものかと尋ねてくるがフィオナは首を横に振る。


「もしかしてラブレターかしら。ねえ、見てみましょう!」

「大叔母様は、はぁ……まあ、確認はしますが」


 無邪気に声を弾ませる侯爵夫人に、ジャイルズは仕方ないというようにため息をつく。


「あ、では私が」


 出自不明の物な上、裏板にはささくれが出ていたりもする。なんにせよ、素手では触れないほうがいい。

 ジャイルズを止めて手袋をしたフィオナが封筒に指をかけると、力を入れるまでもなく裏蓋から簡単に剥がれた。

 封はされておらず、中に紙が入っていた。

 二つ折りになったそれを、明るい窓際のテーブルの上で開く。


「うふふ、なにが書いているのかしら……あら」


 浮き立っていた侯爵夫人の声が、急に低くなった。

 先に文章に目を走らせたジャイルズも、すっと厳しい表情に変わる。

 遅れて、書かれた内容を読んだフィオナは驚きに目を見開いた。


「……え……?」


 そこに書いてあったのは、現王太子殿下の廃嫡を計画する物騒な内容だった。







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