昔のひと今のひと
してはいけないと言われていることを、数々、している。
例えば以前、米ソムリエみたいな人が、炊飯の極意を事細かに指南する中で、「最近はお米を研ぐのに、手を使わず泡立て器でぐるぐるかき回すような人もいるようですが、お米の粒が割れたりするので絶対やってはいけません」と言っていたのを、すげえ、名案や、と逆にびっくりして、むっさ寒い冬の日の夜、朝ごはん用の米を研がねばならないときに、やり始めた。全っ然大丈夫やん! 翌朝普通にふっくら炊けた白いご飯に故障を言う者はひとりもなく、わたし自身もおいしくいただき、以来我が家では、寒冷期、朝ごはん用の米はもっぱら泡立て器でかき回されている。別にやってみいとは言わないが、個人的なジャッジでは重ね重ね、全然大丈夫である。
他にも、一時話題になったけど美容のプロフェッショナルに言わせれば言語道断な行為らしい「めがねクロス洗顔」も、わたしには調子がいいのでやってるし、本体に貼られた禁止事項シール筆頭にある「入るな」という警告を無視して、布団乾燥機がまだごおごおやってる最中の布団に入ってする冬の昼寝は最高だわ。
でも、べつにそれはわたしがあまのじゃくだからとか、そういうことではない。本当にしてはいけないことは、多分、しないししていない。と思う。台風や大雨の日は川に近付かないし、下剤ダイエットもしないし、虫眼鏡で太陽を見たりもしない。今回の外出自粛要請云々が出てからは可能な限り家にいる。
なにしろわたしは引きこもり初段、出不精は八段だから在宅だけは得意である。子どももみんな家にいるし、三度のご飯をこしらえて、一緒に宿題をして、なんだかんだしているとあっという間に一日が終わる。
わたしは、三月の下旬から『大鏡』を読んでいた。辞書と首っ引きで、千年近く過去のひとの話を聞く。別に、巣ごもりが奨励されているこの際、とか思ってのことではなく、ずっとずっと読もう読みたいと思っていて読み始めたのが、たまたまこの時期になったというだけである。ずっとずっと、というのは高校生の頃、古文の授業でほんの一部を読んでからだから、おおかた二十年来の「積読」だった、ということになる。ついに機というか、やる気が熟したわけだ。
ところが、一日に数ページしか進まなかった。手元にあるのはわずかに脚注の付いているだけの岩波文庫版で、自分の訳があっているのかどうか、読み終わった今でも実は自信がない。早く小学館の全訳か新潮古典集成版を入手して答え合わせをしたいのだが、このご時世に余計なことで佐川やクロネコの皆さんを走らせるのは申し訳ない気がして、紀伊国屋のオンラインショップのページを開いては閉じ開いては閉じ、まだ注文していない。
とにかく読むのに時間がかかり、逆にいつもより忙しくなった。それで、この駄文も書けなかった。毎日毎晩旺文社の古語辞典、捨てずにおいた高校時代の国語資料集、文法テキスト、日本史の参考書などにまみれて、ややこしい登場人物の人間関係を把握するために家系図まで手書きし、あーあ、当時からこの情熱をもって勉強にいそしんでいればなあ、と返す返すも口惜しかりけり。(しかもこんなに古文にまみれた後でもこれが正しい文法かどうかはやはり未だわからず。)
あまりに進まないのでトホホと思った。右大臣とか少将とか、役職名でひとを呼ぶな。「あはた殿」とか「九條殿」とか、屋号(?)で呼ぶのもやめろ。謙徳公とか貞信公とか、諡号もややこしいわ。主語がなさすぎ。敬語くどすぎ。親戚多すぎ。同じところを二三べん読んでやっと、あ、こういうことか? と推測する我がテンポの悪さ。それでも投げ出さなかったのはひとえに、おもろかったからである。
高校生だったわたしに刺さったのは、藤原兼通と兼家が関白職をめぐり、兼通が死ぬまで争う兄弟ゲンカ譚だったのだが、こんど、松村博司博士による巻末の解説を読んで、兼通伝のこの挿話は、現存する最も古い写本である東松本には無く、後に内容が増補されたらしい岩瀬本に記載されているものだということを知った。つまり、後世の誰かの、「盛り」エピソードだった、ということである。それでも、なんかもう、人間て仲悪なり出したらホンマしゃーないよなあ、というのを、大昔のひとの口からじかに聞くような心地がした。初めて読んだとき、昔も今も人間そんなに大きく違わないのだ、とつくづく感じ入ったのを覚えている。この話がなければ自分はきっと、こんなに『大鏡』に関心を持っていなかっただろう。興味の播種役として、国語の教科書は大きな存在だと思う。二十年もかかったけれど、わたしの場合はこうして芽が出て一冊ちゃんと読み終わった。
登場する誰それの、みめかたちがめでたい、などという記述も面白い。数百年もの間、男前だったと記録に残るのはどんな気分か。あべこべに、元服前は輝くようにうつくしかった宮様が、髪を結ったら「御元服おとり」して全然大したことなくならはって、とか、かなり口さがないことも書いてある。藤原道隆は大酒呑みで、賀茂詣に行っても、かわらけで三回御神酒を飲むのが正式な作法であるところを、神官たちの方でも心得ているからデカいかわらけを準備しててそれで七杯も八杯もきこしめして、そのあと上賀茂の方に移動する車の中で、道長に袴の裾を外からぐいぐい引っ張られて起こされるまで眠りこけ、でも車から降りるときにはもんそいクイックリカバリーやったで、髪の毛もばっちりセットし直して、酔っ払いどころか「きよらか」やったわ、なんて、知り合いのオッサンあるあるか。『大鏡』は素晴らしい歴史エンターテイメントだ。
『大鏡』は、天然痘の流行も描いている。それで要職の貴族たちが次々命を落とした。現代のわれわれは、昨今猖獗をきわめている新しい「えやみ」が、特定の、コロナウイルスなるものによって引き起こされている、というようなことを、知識として心得ているけれども、いまのところ確たる治療法も予防法もなく、いつ、誰が罹るかわからなくて怖い、という心裏は当時の人々と同じだ。
一日も早い収束を願う。
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