倫敦の漱石
いま、このメールを受け取られてどう思われたであろうか。マイコー某の歴史的名ミュージックフィルム「スリラー」で、ゾンビが墓穴から這い出してくる場面を想起されたりしなかったろうか。たしかにあの中に一人、わたしと似てるヤツがいるが。
ちょっとご無沙汰したので、あれもついに貝になった、成仏したと寿いで下さった向きもあったかもしれない。なに、いろんなことがあって何も言えなくなっていただけである。
音無しだった間の自分の心象描写をするとすれば、まずはさながら北斎の「神奈川沖浪裏」だった。じゃばああああああん、である。
「勤務地が変わります」
という発表が夫からなされたのが6月初旬の夜中、いつものようにふたりして酒を飲んでいたときのことである。
「次はどこへ」
「ここです」
夫は、一枚の紙切れを差し出してきた。それは夫手書きのクイズ形式になっていた。
①海と山があります
②日本の真ん中よりちょっと右です
③強いスポーツがあります
④有名な漫画家○○○○○○の出身地です
こたえ ○○○○(都道府県名)
「……」
もうこの時点でわたしの心理はだいぶと冨嶽三十六景だった。じゃばあああああん。
わたしが無言で紙片を見つめていると、夫は一旦それを取り返し、赤ペンでヒントを少々書き加えた。
まず①の「山」の下に「“じ”が入る」、③は「○○○ー」、④「前三文字が苗字で二文字目の母音がu、三文字目の母音がa」。
そんなもんもう、「しずおか」しかないやないか。決定や。日本の真ん中つったら岐阜でしょうよ。長良川鵜飼い祭や。そのちょっと右には静岡県。不死の山がある。山梨だったら海がない。静岡はサッカーが強いと聞いている。サッカーを見ない自分でも知っている。そして静岡と言えば『ちびまる子ちゃん』。さくらももこは清水の人である。
まだ内示の内示段階なので親にも子にも言ってはいけない、とりあえずあと二三週間もすれば正式に通知があるのでそれまでは誰にも黙っておくようにと釘を刺された。しかしながらわたしは即翌日、実家の母に、逢坂山どころか関ヶ原よりも向こうに行くことになってもたで!! と電話を掛けた。釘がちゃんと刺さっていなかったということではなく、だらだら流血しながら電話をした、と思われたい。
母も我がことのようにショックがっていたが、今度の異動は言うなれば栄転ということに当たるので、婿殿にはよかっためでたいと母は何か慰めるように言った。いや、わたしもええことやとはわかってるけども。
生まれてこのかた、ずっと関西で暮らしてきた。親戚も友人もほぼ全て関西にいて、関ヶ原より東側に住んでいる知り合いと言ったら、信州に一人と東京で仕事をしている二番目の義妹だけだ。今から畿外に居を移すというのはわたしにとっては外国で暮らすのとそれほど変わらない、大きな試練になる。遠州、駿河ならば美味いものはあるだろう。美味いもんだらけと言っても過言ではなさそうだ。海のものは間違いなかろうし、果物だって蜜柑や桃が名産品だったとすぐに思い浮かぶ。それに素晴らしい茶畑がある。鰻までいるではないか。パラダイスやろ。
しかしながら気候風習も異なる土地で、友達もおらず、言葉の通じようも怪しいとなれば、
「ロンドン時代の夏目漱石みたいになりかねへん」
とわたしは母に漏らした。喩えが大それているのは百も承知だが、しかし、本気で「ノイローゼになる」と思ったのだ。子どもたちも、一番上の子はもう「仕上がっている」ので関西弁とあちらの言葉のバイリンガルとしてわたしの話し相手になってもくれようが、二番目になるとそのあたりの見通しはおぼつかなく、末の子に関しては完全に関西弁を忘れるだろう。反抗期を迎えた我が子から「やかましわオバハン!」と言われるのも嫌だが「ババアうぜえ」とか言われるのはもっと嫌だ。全員がネタをやってる坂田利夫に感じられるだろう。我が子なのに。
その晩からというもの、わたしは転居のことで頭がいっぱいになってしまった。見知らぬ土地で毎日孤独に苛まれるであろう。明け暮れかの山を見上げ、かのこまだらに雪ぞ降る、とか言ってチキンラーメンをもふやかせるくらい泣くかもしれない。塩分ばり高そう。そんでやがて、関西弁を操る小さいおっさんが三人、「麻雀せえへんか」「一人足りひんねや」などと夜な夜な枕元に現れるようになるのだ。わたしはその日の阪神タイガースの試合内容や、井筒VS聖護院八ッ橋屋戦争のその後、観光客が激減した奈良公園における鹿たちの様子などをおっさんたちから聞きつつイーピンスーピンドラドラ裏ドラ、麻雀にいそしむようになるのだが、ある日異変に気付いた夫が、京山幸枝若の『清水の小政』の速記をわたしの体中にトンボの筆ペンで書きつける。さてその晩もやって来た小さいおっさんたちには、静岡が舞台となっている河内音頭の文言で全身彩られたわたしの姿が見えない。しかし、「取ってもらえるかも」というあわよくば心で敢えて書き残してもらってあった右足裏の魚の目部分をおっさんたちはようやく見つけ、
「片っぽの足だけ魚の目がでけるんは姿勢が悪いからじゃ」
「きったない足やのう」
「そんなもん取ったらへんわえ、あんけらそ」
などとわたしのことをさんざ罵倒すると、たこ焼きをのせる発泡スチロールの舟に乗り込み、KYKのCMソングを口ずさみながら駿河湾の彼方に去ってゆくのであった。
(つづく)
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