倫敦の漱石(承前)

 夫の転勤でもろとも遠州駿河送りになれば、ただ家移りというだけでもたいがいストレスフルな作業であるのに、企画から原料生産、縫製までの全工程が一貫して関西、流通地域も関西限定、主食は王将の半チャンラーメン、エスカレーターでは右側に立ち、「線路はつづくよ」のメロディーを聴くと、ぁ電車来る! と反射的に身構えるというような自分はかの地で早晩英国留学中の夏目漱石ばりにノイローゼになる、といった想像をやめることができなくなってしまった。どやさ。


 はっきり言って、これはほとんど「もう始まっている」状態である。窮地に及んで「もうあかん」と思うのと、何ぞ事が起こる前から「もうあかんに決まってる。死ぬ」と気に病みたおすのとでは、後者の方が圧倒的に不毛かつ異常である。しかし、静岡に住むとなったらこの先の盆暮れ正月、世間に囁かれる「夫と自分どちらの実家に先攻後攻どれだけ帰省滞在するか問題」、とかいう今まで考える必要すらなかった、しょうもなくも無視はできない交渉にも、毎年毎年挑まねばならんようになるだろう。今ならわたしの実家だって近所だから、なにもわざわざ「帰省」などと仰々しい単語で表さずとも、平日の昼間に「つっかけのまんまシュっと行ってしゃっと帰る」ことだって可能だが、静岡てあれやろ。新幹線とか予約するんやろ。関西まで言うたら。いや、そら大学の時いてたよ。四回生になったら単位もほとんど揃て、別に週一で講義出るんやったら下宿するより安いから言うて浜松-京都間を新幹線で通学してくる子が。しかも二人いてたな。真面目! あと福井と金沢からのサンダーバード組もおった。それくらいの距離感と労力やってことはわかる。頭では理解はできる。帰りたければJRの世話になればいい。替えの草鞋を五足も編んで空は晴れたり東海道、なんて時代ではないのだ。ただ、オマエそれ出来る? と言われたら、学校ほどの大義名分でもなし、実家に帰るためだけにそうばんばん新幹線に乗る、というのは時給900円のパート主婦には出来ない相談である。


 わたしは連日、うぉおおいややー、いややよー、ゆやゆよーん、なんて咆哮し、我が家の老猫(神戸出身)を抱いてそこらを転げまわり、いよいよほんとにおかしくなってきた頃、夫が夕飯の席で子どもたちを前に、今度父ちゃんがお仕事する場所はここです、と件のクイズを出題した。再掲しておくと、


①海と山があります

②日本の真ん中よりちょっと右です

③強いスポーツがあります

④有名な漫画家○○○○○○の出身地です

  こたえ  ○○○○(都道府県名)


 というアレである。

 一番上の娘がさらなるヒントを求めた。「日本の真ん中というのは、どこからどう見て、なのですか」

 それはいい質問です、と夫は応え、国内には日本の真ん中として名乗りを上げている都市・地点が数十か所ある、と言った。


 はっ。


 そこでわたしが思い出したのが我が国が誇る天才芸術家横尾忠則、ファンタスティック・ヨコオのことである。横尾さんの出身地は兵庫県西脇市だが、西脇市は「日本のへそ」つって、公園まで作っている。JR加古川線の駅名だって「日本へそ公園」駅だ。何を根拠にかは知らなかったが、とにかく、へそっつーからには真ん中だと言いたいのだろう。


 それは盲点であった。まったくの死角であった。


 兵庫、そのちょっと右ってことは京阪ですよ。奈良と滋賀はちがう、大阪京都はそれぞれ大阪湾、宮津湾があるから海がある。強いスポーツ、といったら、大阪も京都も高校生のラグビーが強い。ただ、京都出身の漫画家、というのはその方面に暗いわたしにはパっと思いつかないし(みうらじゅんのことは考えたが、漫画家という枠に収まりそうにない)、「じ」のつく山も心当たりがない。大文字……? いや、山の名前は二文字らしい。そこへ来ると、大阪には奈良との境目に二上山がある。万葉集には「ふたかみやま」として歌われる山である。余談だが入江泰吉が撮った二上山の写真は大変に美しく素敵だ。そして超超超がつく有名漫画家、手塚治虫は大阪出身である。今、宝塚に記念館があるけれど、手塚治虫の生まれたところは豊中だったはずだ。いずれにせよ、京阪のどっちかやんけ!


 わたしはまんまとだまされたのだった。いや、引っかかったと言うのか。でも、どうにかこうにか、これまでどおりの文化圏で生活できるのである。ていうか交通網の発達したこの関西、今の居住地から引っ越しすらしなくてよさそうだ。よかった。よかったああああ。気分は「神奈川沖波裏」から一転、モネの「睡蓮」になった。


 しかし我が夫ながら、ひとの悪さは天下一品である。わたしがネットに出ている静岡の賃貸物件を死んだ魚の目で見ていたのも知っていながらこの仕打ち。ずいぶん面白かったことだろう。本当に、あの数週間に亘るわたしのゆやゆよーんは一体何だったのか。ものすごストレスやったど。すさんだ。すり減った。消耗した。あまりにも気が重すぎて月経まで止まった。


 とか思ってたら、三日後、普通に子を授かっていることが判明した。

 気分は再び葛飾北斎に、それもあの波がNYCの摩天楼その他に押し寄せてるコラージュ画のヤツや。(作者は不明)(昔美術の教科書で見た)


 そしてつわりが始まったのだった。


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