今年もよろしく

 つわりが引いたら何か書くようになるかと思っていたが、体調がよくなってもまずもってなああああああああんにも書きたいことがない、書く集中力もない、ついでに言うと読む方の力も興味も湧かないという自分史上初の異常事態がおとずれたのだった。

 あまりに何も書かないので、昨年十一月の頭には泉州の生ける伝説、はー太郎・ザ・グレイトから「ウチのメールが壊れたんかと思った」と、後輩のSちゃんからは「身体大丈夫っすか」と立て続けに連絡をもらう始末で、先週にはついに、二年間この一連の駄文をこちらから一方的に配信する以外直接のやりとりのなかった旧友Yからも、「生きてるのか死んでるのか」という電話があった。ありがとう。「あいつが書かない」=「何かがおかしい」と認識されるとは、わたしもえらくなったものだと感慨無量である。

 しかしここ数カ月本当に何もしていない。ひたすら無為のまま、あっという間に正月に。こんなに無為だったのは生まれてこのかた記憶にない。覚えていないだけで二歳の頃の自分の方が脳細胞を分裂・発達させたり身体運動機能の向上をはかったり、比較にならないくらい忙しかったはずだ。いや、今だって子宮で胎児を育成中で、忙しいのかもしれないが、心情心理としてはとにかくヒマである。

 元々がNOパーリー、NOテーマパーク、NOバーベQ、ひきこもり初段の出不精だから一概にコロナのせいでとばかりは言わないが、しょうことなしの限界ぎりぎりまで耐えて行くスーパーへの買出し以外、妊婦は周りからもやたらに心配されるし、本当にどこにも行っていない。その上パートも産休で、家族以外の人とはもはや滅多に喋らない。閉じた世界。外からの刺激がほぼ全くないのである。

 さしもの「自分の心情を吐露したいしたいしたい病」患者であるわたしも、ははは。何にもないわ。このまま死ぬのね。貝になる願い、叶った。と思っていたところだった。が。


 何もしていないと言い条、よく考えたら宿替えをした。借家の、大家さん側の事情で、年内にすぐ近くの同じ大家さん所有の別物件に移ってほしい、という話が持ち上がったのは昨年八月末頃だったかと思う。ハコとしては元よりうんと広くなるが築年数もこれまたうんと古いこと、また、自分たちの都合で無理言うわね、ということで、家賃もそのままでいいと言って頂いたし、こちらはこちらでいま一人子が増えるとなると広くなるのを断る理由もないか、ということと、大家さんがとても良い方なのでこのままご縁を持っておきたい、ということから、我々は二つ返事で頷いたのであった。


 そんで秋の終わりからぼちぼち準備を始めて、暮れになってがぁっと移したのだけれども、もうほんとにすぐそこだからと箪笥など数点の大物の運搬を除いては引越業者を頼まなかったことや、齢のせいか、飼っているおばあ猫が予想以上に新しい環境に慣れずに連日連夜暴れに暴れたことなどもあいまって、ほとほと、ほとほと困憊した。

 しかも、小さいところから大きいところに移るのだから、普通に考えればモノを減らす必要なんてそこまでなさそうなものだが、間取りやら収納ってのは難しいっすね。ハコがデカくなったからといって、思ったように置けるモノばかりではないのである。わたしなんざは一番大きな荷物として本とCDがあり、これらは重量がバカにならんためさんざっぱら「床が抜ける」「床が抜ける」と脅し抜かれて、結局段ボール五箱分以上を古本屋に持って行く羽目になった。まあ、ほんとにどうでもいいのもあったんだけれど、どうしようか迷ったものも多々あって、泣く泣く別れた感は否めない。金額にすると八千円くらいになった。わたしはその銭を握りしめてその後美容院に行き、30cm以上断髪した。断髪自体は出産とその後の育児に備えてのことだったが、無性にユニコーンの「すばらしい日々」を大声で歌いたくなった。

 また、師走というのはわけもなく人間の心を追いたて、追い詰めてくるもので、大量のモノを整理整頓、搬入、設置する引越行為自体がしんどいところにさらに追い打ちの「早ぅせんなん」という重圧がかかり、冗談抜きで発狂するのではないか。わたし妊婦やのに。と思った。


 枝雀師匠の十八番だった「宿替え」という噺の、まくらから本題に入るブリッジのところで師匠は言う。

「御大家の宿替えちゅうもんは、大勢の人間が出て何日も何日もかかりますが、我々庶民の宿替えは今も昔もかわりません。荷物が少のうございますからな。そのかわりに口数が多いのでございます。夫婦の間で意見の相違が、あれは持って行こう、これは捨てていこうこの際に処分しよう、いやいややっぱり持って行こう、ちゅいましてな、男女の意見の相違がございますから、宿替えのたんびに、夫婦喧嘩でございます……」

 ほんとにそうですよ、アナタ、一番しんどかったのは配偶者との意見のすり合わせである。あのように少ない荷物であっても、価値観の相違であるとか、そこに何を置くかという見てくれの問題に対するセンスの違いとか、そんなことだけで、それを云々するのに人間ここまで神経を消耗できるのか、と半ば感心するくらい、わたしは消耗した。結婚してからの十数年間で実家の引越も含め、そういう家移りつーか、ハコの中身処分そして移動、という作業を五回以上やったが、全く以て、毎回「金輪際やりたくない」と切実に願う(そんで破られてきた)。


 今度の引越で噛みしめたことが二つある。なんというか、前から知ってはいたが、今度という今度は腹の底から、細胞のひとつひとつから、這い出し湧き上がるように再認識せざるを得なかった自分の属性として、ひとつは「自分は整理整頓がほんっとーーーーに苦手だ」ということ、そしてもうひとつは「自分は嫉妬深い。日本海溝くらい」ということである。

 ひとつめは引越作業というものから直接導き出されてしかるべき認識かと思うが、ふたつめについてはややトリッキーというか、なんかもう、自分の一番醜い部分がこのような形で露呈するのかと我ながら呆れる性格上の問題である。

 今回の宿替えにあたって、出来ることならばもう二度と、ぶち込んだモノの配置換えなどしなくて済むように、収納・整頓に長けた人たちが一体どのような方策を取って暮らしているのかを学ぼう、と思い立ち、様々な収納とインテリアに関する本を図書館その他で入手して読んだのだが、何を見ても、最終的には、

「ぅおンなことでけるかえー!! ボケナスー!」

 みたいな憤りに脳内を占拠されるという恐ろしいパターンが構築されてしまった。

 細かいことを言い出すと来年の冬までゆうにかかると思うのでやめておくが、かいつまんで言うと、ミニマリスト全盛の昨今、片付いたオシャレハウスで暮らしている人というのは何かというと「ものを捨てろ」である。ところがこちとら、そう簡単に、自分の一存ではものを捨てたりできない。しかも子どもだって三人いるんだよ! とか思ってオシャレハウスの住人の家族構成を見ると、「高校生を筆頭に五人の子どもがいる」などとしれっと書いてあったりする。こ、子どものあるなしは関係ないのか。でも。

 とにもかくにもウチより片付いた家に住んでいるすべての人民が憎い。こうした心理はとりもなおさずただの嫉妬である。妬ましいのである。自分もほんとはそんな風にしたいのである。そんな風に暮らして調子に乗りたい。でも乗れない。その辺りだ。


 そして全然話が変わるようだが、先だって、食料と日用品の買い出しに行ったときのことである。一気に必要な物品が揃う駅前のそのスーパーでは、沢田研二の「勝手にしやがれ」のカバーバージョンが、もはやBGMとは言えないであろうなかなかの音量で流されていた。うおお、ジュリー!! かっちょいい! カバーであってもわたしの脳裏に浮かぶのは元歌を歌う本人の姿だけだ。わたしは激しく興奮した。と、冷凍ショーケースを挟んで向かい側から、明らかに抑えきれていない音量で、響き渡る「勝手にしやがれ」をなぞる鼻歌が聞こえてくるではないか。目を上げると冷凍エビギョーザを手にその場を行きつ戻りつしているわたしの母親世代の奥様がひとり。

「が、我慢せえよ!」

 わたしは手の中の冷凍讃岐うどん(三玉入り)を砕けんばかりに握りしめ、見ず知らずのマダムに内心大声でつっ込んだ。半笑いで、ではなく、多分半怒りで。でもそれだって、よくよく考えてみると、とどのつまりは自分の嫉妬心だったのである。わたしだって歌いたいわ、マダム! でもあなたのように、欲望に素直ではいられないのよ! チキショー、ウラヤマシー!! そんなところだ。自分の出来ないことをやってる人がひたすらに妬ましい。わたしはかくも、嫉妬心に日常を支配されている。


 このように、自分を見つめ直すきっかけとなった年末の宿替え。この気付きは成長なのか? とりあえず繰り返すが、もう二度とやりたくない。


 以上のことを、言いたくなった。貝への道はまだまだ遠い。本年も、よろしくお願い申し上げます。

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