たとえひとりぼっちでも


 何度も何度でも繰り返して申し上げる話題で恐縮であるが(たとえばhttps://kakuyomu.jp/works/1177354054887731454/episodes/1177354054887744767など)、果たして何を着ていれば人並みに無難でいい感じになれるのか、そらもうあなた、わからないまま幾星霜なのである。制服があった学校時代はよかった、と思わんでもないが、やっぱあれはあれで、女子はスカートと決まっていて寒さがしのぎがたかったという難点もともに思い出される。ならばいっそ人民服に。人民服の制定を希望する。


 だが、それでも同じ人民服をなぜかスタイリッシュに着こなしてしまう一群の出現も容易に想像され、「馬子にも衣装」という古いことわざはあれども、実際、馬子<衣装の力関係となるよりも、馬子>衣装の形になる方が自然なのではなかろうか、着衣の見栄えは着る者の力量次第ではないかと、わたしは思うのである。馬子にエエ服を着せてみても、絶妙に情けなく裾をはみ出させてしまうなどの「間違い」が、きっと出来するはずなのだ。

 その残念の対極に位置するのが、スタイリッシュ人民服のみなさんである。念のため言うがこの語順であってもスタイリッシュなのは人民服ではなく、当人である。同じ服であっても同じ服には見えないので、ついうっかりあれは別注のスタイリッシュ人民服と思ってしまうかもしれないが、真相は逆だ。そういえば去年だったか、深夜放送のテレビ番組で、尼神インターの誠子が着ているのとまったく同じ、ピンクのTシャツに白いパンツという上下を、日本人とフィリピーナのハーフの若いモデルさん(すみません名前は忘れました。もうオバハンだ)に着てもらってみる、という企画をやってたんだけれども、驚異的なレベルで同じ服とは思われず、人間ってなんなのかしら、と考えさせられた。

 オシャレというのは、美醜というのともまた別である。剝き身の人間の個体差、素材としての違いという越えられない壁がある上にまだ、センスの優劣があるのだから奥が深い。掛け算のようなものと言えるかもしれない。ある人物が個体として美であっても、センスが零な場合、その存在は

「惜しい」

 ということになってしまうのだ。


 チキショー、メンドクセー、服もアレだけど化粧だってシタクネー、洞窟でひとりで裸でクラシテー、などと毎朝ほとんど決まり切った服に着替え、同じ手順で首から上をヒトの雌の一味であると知れるように加工しつつぼやくのが日課なのであるが、洞窟の中に一人でいたって、どうにもこうにもスタイリッシュになってしまう人種がいることを、いまやわたしは知っている。そういう人々は、そのうち単なるすっぽんぽんに飽きてきて、

①ナイスな毛皮の腰巻をつくる

②かっちょいい刺青を入れる

③素敵な編み込みの髪型を考案する

 などのオシャレに走り出す。そして他の洞窟に住まうもっさい人々と同じ、冴えないズダ袋のような貫頭衣を着ているときにも、絶好の位置に腰ひもを締めて胴まわりをすっきりさせ、脚長感を演出してしまう。川で拾ってきた石を磨いて勾玉にして身に着けてしまう。そのうち頭からかぶるだけのごわごわした着物ではなく、柔らかい新素材をからだに巻き付けるようになり、領布やら帯やら袂やら、やたらにひらひらさせてしまう。髷にこだわる。やがて黒船が来て維新ではいからさんで大震災と白木屋の火事でパンツ穿くようになってパーマネントで戦争になってモンペで命からがらで経済成長で太陽族でミニスカートで聖子ちゃんカットでバブルでルーズソックスで多様化の現代になって、その多様化のせいで非・スタイリッシュな人々はどうしていいかわからんわけよ。な。


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