ものもらい

 瞼とか、目の周りがぶくっと赤く腫れて痛くなるあれのことを、ものもらい、関西ではめばちことかめいぼとか言う。

 で、今日するのはその「ものもらい」のはなしではない。わたしが、よく、ひとからものをもらう、て話。わたしが「ものもらい」なのである。昔から。なぜだかはわからない。わたしの顔面が、ついつい恵んでやりたくなるような、「そそる」作りになっているのだろうか。それとも知らず知らずのうちになにかよほど物欲しそうな視線のレーザービームを放っているのだろうか。 (だとしたらだいぶ恥ずかしいことだと思う。)


 とにかくもう、いろんなひとが、いろんなものをくれる。くださる。畑の真ん中を歩いていただけで、全然知らないおっちゃんからでっかい冬瓜をもらったこともある。また別の場所で、九条葱をしこたまもらったこともある。歩いていただけで。田舎ってそうなのか? でも先だってはパート先の駐車場で、いきなり玉葱をもらった。知らんじいちゃんから。


 わたしにものをくれるのは、おっちゃん・おばちゃん、じいちゃん・ばあちゃんが多い。若い男子はゼロである。おっちゃんはたいがい食べ物をくれる。おばちゃんを含む女性のみなさんは服とかハンカチとか、布モノをくれることが多いように思う。昔ジッタリンジンが、あなたがわたしにくれたもの、とかいう歌を歌ってたけど、思えば高校生のころから、「朝晩大きな声であいさつをする」という理由だけで原付を預けていた駐輪所のおっちゃんたちに気に入られ、ワノブそこのおっちゃんがわたしにくれたものと言ったら回転焼きにチョコレートにコロッケ。しかも箱で。箱ですよ。一個や二個の話ではない。ダース、なのである。持って帰ったらさすがに閣下もびびっていた。一緒に食べたけど。


 身に付けるものの方だって、ほんとうに近頃はほとんどがいただきもので成り立っており、全身見渡して気付けば自力で購入したのは十年前のデニムパンツのみ、などということばかりである。冬はヤマノさん(パート先の大先輩。終活中)からもらった手編みのセーター、夏は大学の後輩のSちゃんからもらったブラウスで過ごしている。もはや服を買いに行きたい、などという欲望は皆無で、ややもすれば時間のムダ、くらいに考えているような有様だ。堕落だろうか。しかし自ら購いに行ったとてもとよりセンスがないのだから、どうせろくなものは選ばないのである。それよか、ひとさまがナイスなセンスをもって選びながらもなんらかの理由で泣く泣く手放しウチに送り込んでくれた高級婦人服を着ていた方が、よっぽど間違いない。


 わたしはとにかく、

 「これ、いらん?」

 と言われたら、まず断らない。断らないから余計に「もらう」が成立するのだとも言える。最初に言った冬瓜も九条葱も玉ねぎ、実はぜんぶウチにだってある。あった。けれどもわたしは断らない。なぜって、相手はくれたがっているのである。くれたがっているひとにはもらってあげるのが思いやりである。本当に本当のところは必要なくても、それならそれでもらったあとに何とかすればいいのだ。本

当に欲しいひとの所に、持って行ってあげればいい。


 先だってラジオを聴いていたら、近くで畑をしている人が次々野菜をくれる、ありがたいけど量が多くて困る、本当は断りたい、という視聴者のメールが読まれた。どのくらいもらうんだろう? よくわからないが、やっぱりわたしはとりあえずもろとけ、と言いたい。もらってのち、さらに隣近所で分けなさいよ。昔住んでたところの町内会は、毎年敬老の日が来るとご老人のいる家にはもちろん、いない家にも紅白の熨斗を掛けたお菓子を配っていた。その熨斗には「敬老の日 福分け」と書いてあった。福分けなんていい言葉だと思う。ものくれるってことは好意のしるしだ。あんたが好かれてるっちうあかしやないの。つまり到来物はよきこと福なのだ。福分けっつって、どしどし分け合ったらいいんじゃない。

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