わからない不明
わからないということは、どうにもこうにも理解が及ばないということで、つまりなすすべがないということである。わかるか諸君。わたしにはわかる。その状態が。
例えば、わたしは音楽のことが全くわからない。楽譜を見せられても、そのわからなさは宇宙人からの手紙と同じである。岩波文庫の日本の唱歌集を買ったけれども、付けられている楽譜が読めないので、歌詞は知れてもどういう曲なのかはさっぱり見当がつかない。ああ、これがわかったらどんなに楽しいだろうか。それに、もしも人喰い人種に捕まって、譜面通りに一曲歌えたら命を助けてもらえる、というようなチャンスを与えられたとしても、わたしは間違いなく即、昭和のから揚げ粉をまぶされて百八十度の油に放り込まれる。て、前にもこんな話したな。
記憶もおぼろなのだが、たしか中学生の頃に見た『ダンス・ウィズ・ウルヴス』という映画で、アメリカの騎兵隊の下級兵が、手帖の一頁を破って尻を拭く場面があった。手帖の本来の持ち主は、元々はその兵士と同じようにインディアンを討伐する側だった白人(ケヴィン・コスナー)である。やがてインディアンに同化していったケヴィン・コスナーが、その日々を書き綴っていたのがその手帖なのだ。美しい絵も入っていたように思う。だが、文盲らしい下っ端の兵卒は、その手帖の値打ちがわからずに、自分の用足しに使ってしまう。そんなシーンだった。あの男は、わたしだ。
音楽においては自分は文盲であり、このように尻を拭いてしまう側の人間なのだ、と断言できることが悲しい。これが理解できれば、世界はもっともっと素敵に広がるはずだ、ということはわかっているのに。
そういえばこないだ、わたしと同じように音楽に明るくない夫が、夜中酒を飲みながら、BSでやっていたオーケストラの演奏会を観て言った。
「なー、あのひとって、ホンマに必要なん?」
夫が指差したのは指揮者だった。
「わたしもわからん」
しばしふたりでぽかんと画面を眺めた。
「揺れてるな」「うん揺れてる」「めっちゃ揺れてる」「あれ……どういう指示?」「わからん」「揺れがすごい」「すごいな」「あんな髪型にしたい」
阿呆の会話である。そらもう、ショパンやシューマンですぐに尻を拭くだろう。拭かいでか。でもさー、弾いてる人らもプロやん? 正味なんで指揮者が必要なん? 楽譜があったら弾けるんやろ? せーの、でやりはじめたらできるんとちゃうの? あかんの?
などと、低知能・高トンチキな疑問を開陳しあった翌日、思いついて子供用の百科事典で「オーケストラ」の項目を引いてみた。この百科シリーズ、「昭和56年 第7刷」と奥付にあるからもはや古代人の図鑑と言って差支えないと思うが、数年前夫の両親に捨てられそうになっていたのをわたしがもらい受けたものである。今や「わたしのウィキ」と呼んで、元所有者よりもずっと活用している。今回だって、ちゃんと書いてありましたよ。我々の疑問に対する答えが。
「オーケストラには、多くの楽器の奏者を統率し、演奏上の全責任を持つ指揮者がいる。指揮者は、楽譜に指定されたはん囲内で、自分の解釈した音楽を演奏し、各指揮者の個性を表現する。そのため、楽器の増減をし、曲のテンポを変えることもある。したがって、楽曲やオーケストラが同じでも、指揮者が変わると音楽もちがってくる。」(学習研究社『ゴールド版ベスト教科事典図解百科2 お~か』)
アホにもわかる、この噛んで含める具合。二文目の「範囲」という単語だけが「はん囲」と混ぜ書きになっているのが気になるが(それすら何か意味があるのか? とか思ってしまうくらい、元本がわからない案件なので)、すげえ、すげえ、そうやったんか、なんて、人間知らなかったことを知るというのは嬉しいことだ。それで夜、また夫と酒を飲んでいるときに、「あのひとって、どーやら必要らしいで」と、昼間百科事典で得た知識を喜んで披露した。ところが夫は、
「ふーん。ほんまかなあ」
と言ったのだった。ふが。わたしは、夫が自分と同じようにへー! すげえ! となってくれなかったことが大変残念だった(わたしの使う関西弁ではそのような所感を「せえない」と言う)。でも、あとあと考えてみるに、わからないというのはそういうことなのだ。わたしだって、事典によって知識を得はしたが、体感して「わかった」わけではないのである。わからないことに対する姿勢としては、夫の方が正しかったのである。わからないことのわからなさ。今日の文章、音楽のわかる人々からすれば、
「こいつら、何言うとんや」
と、ずいぶんわからないに違いない。そういうものだろう。わからんけど。
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