のけもの姫
我が友、泉州の生ける伝説、はー太郎・ザ・グレイトは、結婚して数年、ご主人の仕事の都合で関東に住んでいた。その間に故郷大阪では阿倍野ハルカスの建造工事が着々と進み、やがて子どもを抱いてこちらに戻ってきたはー太郎は、すっかり変ったそこらの風景にいたくショックを受け、
「ウチに何の断りもなく、なに建てとんねん」
と思ったという。自分がコミットしていたはずのもの・ことから、突然、のけものにされてしまった気分。勝手な疎外感といってしまえばそれまでだが、知っていた風景が変わってしまうというのは、人間の情緒に大きな影響を与えることであると思う。谷崎だって、それが理由で関東大震災の後関西に移ったではないか。
おまけに、帰阪したはー太郎にとって、変ったのは景色だけでなかった。結婚する前までなら、地下鉄の切符を失くしても改札の駅員さんに「すみませーん、不注意で、失くしてしまって~」と眉根を寄せて訴えれば、あ、ええよええよ、ほな次から気を付けてー、とあっさりあのハネ(←あれ、何て言うんですか?)を開けて通してもらえていたのが、子連れになった途端、「どこから乗られました? 安孫子? ほな320円ね」みたいな対応になり、もうお姫様のように扱われる日々は終わったのだと、はー太郎は奥歯を折れんばかりに噛みしめたのである。これも言い換えれば、ちやほやされる対象としての「若いおんな」からの除外、ということになる。のけもの姫(厳密には元・姫)である。
ジョニー・デップが、わたしがゴシップから遠ざかっているうちにヴァネッサ・パラディとできてて子どもまでいると聞いたとき、たいがいびっくりしてグええと言ったきりしばらく声が出なくなったが、思うにそのときのわたしの気持ちを構成するのも、「わたしに何の断りもなく」という疎外感が主な成分だったのだろう。直接の知り合いですらない映画スターに対して、ゴシップの収集すらコミットの一形態としてカウントされているのだ。疎外感というのは自給自足が可能な感情であるといえよう。
まあ、ジョニー・デップの話はどうでもいいとして、わたしが近頃恐れているのは日常使用する言語、ことばの世界におけるのけものになってしまうことである。もう既になりつつある。
この話もさんざっぱらしたが、わたしが使うのは高粘度古式関西弁の流れをくむ、平たく言うとはなはだ婆臭い京阪方言である。一番上の娘をつかまえて、
「ちょう、あんた、宿題済んだんか? 済んだ? さよか、ほなまあここへ座りよし。ほで、これ食べとおみ」
などと晩御飯のおかずの味見をさせることが可能なのも、わたしの謂いを、共同生活者たる娘であればこそ即座に理解できるからであって、仮に娘の同級生に同じように呼びかけたら、その子はスマホの音声自動翻訳アプリを起動させようとするかもしれない。要するに、もう通じないのだ。ちょっと前にやすともの二人が、最近の若い子には「ねき」というのが通じない、という話をしていたけども(「ねき」というのは「近く」「そば」の意)、これからの自分はそういうことの連続になるのだ、とひどい孤独を感じた。同年配としか喋らず、若い者はわしらの話を聞かない、などという人類開闢以来の老いの嘆きを、わたしも嘆くことになるのか。いや、同年配にすら、なんでそんなしゃべりかたやねんと言われるわたしはどうすればいいのか。
先月新しいパソコンをあてがわれ、ほんとに何にもわからなくて、電源を入れてスタート画面を起こすだけでだけで突然現代に連れてこられた寛政元年生まれのひとの気分を味わうことが出来る。「Google Chromeはデフォルトのブラウザとして設定されていません」。何を言っているのか。蘭学事始か。オランダ通詞か。曲がりなりにも同じ日本語でありながらこのわからなさ、疎外感を感じるには十分である。だが、ジョン万次郎に教えを乞うて自分も勉強さえすれば、このわからなさにはいつか切り込める、という希望も同時に感じられる。自分の言葉が通じなくなっていく、という疎外感とは、これは本質的に違う問題なのである。「デフォルトのブラウザ」の方はわたしを拒否しているわけではなく、こちらに積極的にかかわる気があれば、基本的に仲間に入れてくれないわけではないのだ。仲間に入れるも何も、勝手に入っていいのである。しかるに、わたしの使う言葉が死につつあるのは、それらが使われないからで、なぜ使われないかと言うと「古臭いがゆえに」拒否されているからだと思う。
アンソニー・ドーアの小説に、「ネムナス川」というそれはそれは素晴らしい短編があって、その中に、消えゆく言語についての記述が出てくる。ある部族の言葉を、若者はしゃべりたがらず、老人もわざわざ教えない。いつだったか、『なくなりそうな世界の言語』とかいう本の書評を新聞で見たけど、同じようなことが書かれていたように記憶している。古臭いということは、それだけで悪なのだろう。(ただ、古人は「ことばは新しいところから腐る」とも言った。)
言葉は生き物だから、変わっていくのは仕方がない。それはもう止められないとして、わたしは、死にそうなことばを、のけものになりながらでもまだまだ使うだろう。送葬のつもりで。
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