神様は男の顔をしていない
毎晩九時ぐらいになったらもうくたくたで、右手で恥骨を守り、左は掌を額に当てつつ肘までの前腕で顔から首、鎖骨にかけての地域をカバーする、阿呆のマイケル・ジャクソンのようなポージングで寝てしまう。なぜそんな姿にならざるを得ないかというと、いわゆる「電池切れ」になるまで暗闇でも動き回る一歳児が、母親であるわたしに容赦なくキメてくるトペ・スイシーダが恐ろしいからである。
すべてのやる気・元気(・いわき)を久々にぽんと生まれた末の子に吸い取られ、この一年あまり、本を読む、駄文を書くなど、今まで親しんできた生活の営みからは遠い遠いところに流されていた。生物としては多分それで正しいのであるが、人間なんかもうちょっとスキに出来んのか、と思ったりもしていた。今回の子は半年を過ぎるまで「日のある間は地面で寝ない人」だったので、寝てる間に家事その他をする、ということが満足に出来なかったのだった。つねにニコイチ。自分の行動をほぼ100%、相手の出方次第で決めなければいけない自由の無さ。他人に拘束されている事実。紐で背中に負ぶっているにせよ、ハラに抱いてくっ付けているにせよ、厠へ立つのすら一大事で。でも、世の中には夜も地面で寝ない赤ちゃんに立ち向かっているツワモノたちも一定数いるらしく、「夜も抱いたまま椅子で寝た」などということを見聞きすると、わたしはまだ甘いのだ、と思い知らされたりもした。
だいたい上の子たちのややこしかった時代は山奥に夫の両親や妹と住んでいて、彼ら彼女らを育ててくれたのははっきり言って義母である。わたしはその様子を横で見ていた。見てるだけ。そんな状態だった。
だから言うなれば今回が、自分にとっては初めての(ほぼ)ワンオペ育児である。かねてから核家族のお母さんたちはさぞキツいであろうと思っていたが、それを頭でわかっているのと実際やってわかるのとは全然違うのだった。わたしは上の子たちに関して、独力で風呂に入れたことすらなかったのである。前に、「神はこの期に及んで一体わたしに何を教えようとしているのか」と書いたが、あれ以降も上の子たちの乳幼児期には経験しなかったことがガンガン出来し、なんかもう、年齢的にも経済的にも最後になるであろうこの末の子育てに際して、神はわたしに相当いろんなことを教えたがっているのだなと感じていた。生活上の手順・手続き的な面で、いままで通りにはいかない、ということがあるのはもちろん、肉体面においてもまずもって高齢出産だったり死求堕Ⅱ疑いだったり、いろいろあった。ボクシング小説を読んでいると腕利きのカットマンが出てきて、試合中、顔面から出血した選手の傷口に、アドレナリン入りのワセリンを塗って血を止める、などというシーンがあるが、いいな!! カットマン! 俺の乳首にもアドレナリンワセリン塗ってくれよ! などと毎日思うくらい、授乳によって乳首にひどい亀裂が出来た、などというのも今度が初めてだったし、ミレービスケットを、手が止まらなくなって一袋一気に食って乳腺炎になったのも初であった。
そんなこんなを全部ひっくるめて、ちょっと前まで、勘弁してほしい、ていうか、あの、もう少しなんとかなりませんか。神よ。手加減とか。と、思っていたのである。
でも、そのことを、長男の保育所時代のママ友さんに「今までラクしてただけに、めっさしんどいわ」と話したら、
「でもさあ、将来お姉ちゃんとかお嫁さんとかが子ども生まれて大変、ってなった時に共感してあげられるやん! 身をもって、あー、お母さんもいろいろ大変やったからわかるわー、って」
と言われ、ハッとなった。そうか、そういうふうに考えればいいのね!
そのときわたしが思い出したのがお蝶夫人のことである。誰って、そう、『エースをねらえ!』のお蝶夫人ですよ。お蝶様といったらあの方しかおるまい。
お蝶夫人は、高校卒業前の(と書いていてホントに高校生のくせに夫人て何なんだと思う)全日本ジュニア・チーム選抜で、主人公である岡ひろみと直接対決をするにあたり、自らの思いを口にする。
「1球1球すべてのショットがあの子への置き土産です/どの球をどうさばき/どんなペースでどう走り/どんな種類のショットがあるか/力のかぎり見せるつもりです」
「神様」というのは一般に、漠然と男の姿かたちで想像されたり描かれたりしがちなものではなかろうか。女の神だったらわざわざ「女神」ということばで言い表されるように、基本は男性的なものであると。だがわたしは今そのことについて、ジェンダーがどうのとか、そういう話がしたいのではない。とりあえず、わたしに育児と人生についてのいろんなことを教えようとしてくるのは男の神ではない、ということがわかったのだ。その神様は多分、お蝶夫人の顔をしている。いくわよ乙子!! ゆうて。
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