せめて差し向かいサイズに

 暖かくなってきた。大掃除の季節である。しますか、大掃除。「大掃除の季節である」とか自分で言うた割に、わたしはしませんがね。掃除は嫌いなんだよ。苦手なんだよ。でも、大掃除をするなら本来、寒い寒い年末よりも、これからの暑さに向かうシーズンにやってしまったほうがよほど効率がいいということ、そしてそもそも掃除っていうのは一年にいっぺんガツンとやるよりも、中小規模のを季ごとに一度やったほうが結局は楽だということだけは知っている。まあ、年末の掃除は神事と結びついているから、効率のことで云々するのは筋違いなのだろうけれども。


 ではなぜ掃除嫌いの自分がそうしたことを知るに至ったかというと、わたしは家事のハウツー本が大好きなのである。とくに苦手分野の掃除にまつわるものが好きで、雑誌でも何でも、「毎日五分間のプチ掃除でいつも快適!」とか「二時間で家中完了! 効率のよい掃除の手順」とかいう記事があればもう間違いなく手に取って熟読し、そして読むだけ読んでははーん、とか言って、まず行動しない。読んだだけで腹いっぱいなのであった。そうして知識だけをため込みため込み、それらが脳内で魚醤のように醗酵してゆくにまかせている。

「蛇口のここんとこ、汚れてるとこ、クエン酸と重曹で落ちるんやろなあ」

 って、わかってんならすぐやればいいと自分でも思う。それを、やらんのだわたしは。ああ、家がゴト入る洗車機みたいなヤツがあればいいのに。そんでもう、中身も裏返しにして丸洗いにしてほしい。などというSFな願望が膨れ上がるのみである。


 ところがそんなわたしが家じゅうでただひとつ、あふれるような情熱を傾けて掃除を敢行する場所がある。


 そう、雪隠だ。


「厠、はばかり、お手水、後架、呼び方は何でもいい、ただけっして御不浄とだけは言わせない、だって不浄じゃないからね、うちのお手洗いはキャンペーン」という長い名前の運動を、年がら年中実施している。相棒はサンポールとボロ切れその他。

 ひところトイレの神様がどうのという歌が流行ったそうだけど、わたしは未だにその曲を一度も聴いたことがなくて、じゃあなんで知っているかというとわたしの兄が、「あの曲を聴いたらオマエと閣下のことかと思う」とわざわざ電話してきて説明してくれたことがあったからなのだが、残念ながらわたしにトイレの掃除の仕方を教えてくれたのは祖母ではなく母だった。

 母は言った。

「最後に頬ずりできるくらい綺麗にするねんで」


 頬ずり?!


 心意気は分かったが最初びっくりしてだいぶ引いたというのも事実である。

 のちに辛酸なめ子さんの『女子校育ち』(ちくまプリマー新書)を読んだとき、カトリック系の女子校は生徒に便所掃除を徹底させており、白百合なんかじゃシスターが「なめられるくらい磨きなさい」と指導している、と書いてあって合点がいったのだけれども、そう言えば母もミッションスクールの卒業生だった。


 厠掃除の何がよいかというと、十五分もあれば必ず完了する、というところであろう。ゆーてもあの狭い空間だし、だいたいはじめから余計なものが散乱しているというような場所ではないのだから、片付けの段取りが必要ない。それに近頃は高性能な洗剤も数多発売されている。そして、そうした時間と手間に対して「やった感」はすごい。わたしはエライ、よく頑張った、という自己肯定感に満たされる。

 わたしは掃除できたてのファースト・トイレを使用することを厠掃除に含まれる喜びの一つとしてきたのだが、ここへきて、なるべく綺麗な期間が長くなった方がいいんじゃないか、たっぷり汚してから掃除するのがいいんじゃないかとケチくさく考え直すようになって、最近では掃除開始前に実際したくてもしたくなくてもとりあえず用を足し、而してのち作業に取り掛かるようになった。でもやっぱり掃除が終わったらその時点で、せっかくこのオレ様が掃除したファースト・トイレを誰かに奪われるのは業腹だ、という気分がむくむくとわき起こり、実際したくてもしたくなくてももう一回座ったりしてしまう。もちろん何も出ない。


 来客を通すに最適な部屋が、家の中で最も管理が行き届ききれいに整えられている場所だというのなら、それは我が家の場合間違いなくお手水ということになってしまう。しかもなぜか今住んでいる家の手水場は家じゅうで一番良い、南側の一隅にある。ただなにぶん狭く、一人以上は入れない、というところが難点か。でかい雪隠が欲しいものである。

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