無職の夕べ
先日、大学の受験票と共に発見された高校時代の生徒手帳の方には、諸連絡のページにただ一回だけ書き込みがあった。
「医師の診察を受けるため午後早退します。」(保護者印)。
これを書いたのはわたしの保護者ではなく友人のOである。確認印は二年の時の担任の名前になっている。日付は11月11日。早く帰って何をしたのだろう。ポッキーを全種類買って片っ端から食ったのかな。まったく覚えていないのだった。だいたい、なんでこの日だけわざわざちゃんと「正門から」早退しようとしたのか。そんなことしなくても、わたしも、Oも、あいつもこいつも、いつも自由に、もっと随意に、勝手にヨソへ遊びに行っていたというのに。
とにかく勉強しない高校生だった。中学生の間はちゃんとやったのに、高校に入った途端鉛筆を持つのが嫌になってしまった。マネージャーとして所属していたラグビー部の面々もみんなラグビーしかしてない様子だったし、仲良くなったOも、朝『キャプテン翼』の再放送をきっちり最後まで見てからしか学校に出て来ない、つまり一時間目は絶対に間に合わない人だったし、「まあええか」と思ったのだ。
そして何より一番「まあええか」と思う理由になっていたのは、中島らもの『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街』だった。この本には、高校生そして浪人生のころの中島らもが、いかに勉強をしていなかったかがおおむね楽しげに、綿々と書き綴られている。中学生の時から、ずっとわたしの愛読書だった。「勉強してへんやつの方がオモロイ」。実際当然そういうことではなく、それは他でもない中島らもだからオモロかったのだという根本的な所にあほんだらの一高校生が思い至るのはもっと後のことである。とりあえず、水は低きに流れるものである。
奇跡的に大学に入っても特に何をするでもなく、互いの家を行き来して、わたしはOとだらだらし続けた。我々はらもさんの既刊本を大方全部読んだ。冬、どんなに寒い日でも、Oは三十分おきくらいに窓を開けて、二人で部屋いっぱいにしたタバコの煙を表に追い出した。白いもやもやが、ステレオの音と一緒に、うす暗くなった柵の向こう側にぼわあと流れ出た。そのころのピースにはタール14mgの「ミディアム」というのがあった。まだ一箱が270円だった。
二人揃ってほんとに何にもしないので、見かねたOのお母ちゃんはある日、伊予柑の皮をむきながら言った。
「あんたらな、二十年先とは言わん。せめて二年先のこと考えて暮らし」
わたしはお母ちゃんと一緒に皮をむいて、伊予柑を食べた。Oは、めんどくさ、と見ているだけだった。
大学を出ても、Oとわたしはまだだらだらしていた。そのころ我々は町田康の『へらへらぼっちゃん』やら『夫婦茶碗』を愛読し、たびたびサイン会へも行ったりして、二年先どころか二か月先のことすら考えていなかった節がある。わたしたちは月に二三回、ややもすると週一ペースで何かのライブを見に行き、さんざんビールを飲んでどっちかの家に帰った。
「今度らもさんのライブに町田康が来る」
という情報を先に仕入れてきたのはOの方だったと思う。我々にとっては盆と正月のようなはなしだった。らもさんは前の年に大麻で捕まっていて、このときは執行猶予中だった。
アメリカ村のバナナホールで見た初めての「生らも」はヨレヨレで、うっわあ、若いときから酒と一緒にいかんおクスリをやってたらこういうことになるんやわ、とわたしはいたく衝撃を受けた。それでもらもさんはいい声で歌い、前は茣蓙敷き、真ん中から後ろが立ち見だった客席の方も、途中酔っ払いが一人ヤジを飛ばしてらもさんと怒鳴り合いになったこと以外はわりと落ち着いた感じで、ライブは進行していった。が、それも町田康が出てくるまでの話だった。
らもさんが一曲終わってMCをやっているステージ上に、作業服姿の荷物屋さんが大きな円筒状の段ボール包みを運んできた。「ハンコください」「ええ? 今ワシ、ライブ中やねんけど」というやりとりが荷物屋さんとらもさんの間にあって、荷物屋さんの受け取りにサインをしたらもさんが「なんやろな~」と言いながら段ボールを開けると、中から町田康が出てきた。
ライブハウスその他で圧死者が出る事故、というのは多分ああいう時に起こるのだろう。後ろの観客は座りの席の存在を忘れてステージ前に殺到した。もちろんわたしもOもだった。わたしはうまいこと一番前の、しかも町田康正面の柵に取り付き、後ろから断続的に押し寄せる人波にぐぁんぐぁん揉まれながらも結局最後までそこを死守した。町田康は「無職の夕べ」の中の、「情婦を引き連れて明治通りを爆走したんだ」という一節を「四ツ橋筋」と替えて歌い、大阪の客にサービスした。
アンコールが終わって客席の明かりが点くと、茣蓙席の人たちが自分の靴を探して右往左往していた。ごめん。わたしとOはお互いの姿をみとめ合って表に出、らもさんのヨレヨレぶりと町田康の男前ぶりについてのとりとめもない感想を言い合いながら家路についた。その二か月後にらもさんが階段から落ちて亡くなるなんて、わたしたちはもちろん知らなかった。
乗り込んだ地下鉄の中でふとわたしは自分の右手の甲に異常な臭いが付いていることに気が付いた。そういえば柵を掴んでいたわたしの手の上に、隣の兄ちゃんがワキ乗り上げて来てたな。ワキガうつされた!
次の瞬間わたしはまず逃げられないように左手でOを拘束し、うおらぁ! と自分の右手をOの鼻先へ突き付けた。Oは一秒後、本気の左フックでわたしのことを返り討ちにした。クリティカルヒット。明日もまた遊ぼうね。
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