いとよう化粧じて


 化粧めんどくせえ、とまあ毎日思う。

 惰性で何となくこなしているが、顔に粉はたいて両目のキワに線引いて、下まつげに毛虫のようなブラシを当てているあたりでその気分は最高潮に達し、ちきしょー、やめてやる、と鏡の前を立つのだが、やめてやるも何もその時にはもうどうにか出来上がっているわけで、ありていに言うとわたしには化粧をせずに表に出るような勇気はない、ということである。アリシア・キーズのようにすっぴんで堂々と世間を渡ってゆきたければアルバムを三千万枚以上売って、グラミーを十五(プラス司会)、AMABETMTVソウルトレインその他諸々の賞を少なくとも二十三十は獲らなくてはならない。第一十九歳で衝撃的にデビューしておく必要があるのだから、四十目前のオバハンには今から到底無理な相談である。大体自分には楽譜も読めない。


 いつから化粧をし始めたのか、確かには覚えていない。高校生の頃にはマスカラでものすごいひじきまつげにしていたのだけども(本当は言いたくないが、青のマスカラを使ってたときもあった)、面倒な日は全然素のまんま学校に行っていたし、こんなに毎日土台からちゃんと化粧をするようになったのは大学を出てからだと思う。

 うちは母親がやたらに顔の濃い人で、だからこそわたしも「ママがスペイン人やねん」とか益体もない法螺を吹いていたのだけども、とにかく普段基本的に化粧をしないひとだった。したがって家では見て学ぶ機会もなく、誰にやり方を習ったわけでもない。だのに、なんか、するようになった。我流、というやつだ。でも、基礎となる情報は絶対どっかで仕入れているはずで、それがどこだかわからないところが、不思議なのである。


 しかし結局は我流なため、いつも心の片隅にはこれでいいのか? という不安があり、一度、本当に大人になってから、高校時代の友達で美容師になったアキちゃんに尋ねてみたことがある。

「なーアキちゃん、化粧ってどうやんの?」

「えっ、どういうこと? 化粧って何? 何の化粧?」

「いや、こう、普通の、毎日の……」

「って、もうしてるやん! え、まさかしてない? わけないなあ!」

「や、してるけど、我流やしこれが正解かわからんくて、ずっとわからんままやってる」

「えー、それでいいんちゃうん? もしアレやったらさあ、ほら、雑誌とかに手順載ってるやん」

 アキちゃんは流石に客商売である。雑誌の手順どおりやっとけばいいって、と繰り返し、なにか慰めるように、みんなそうやろー、あとは我流やん、と言ってくれた。ふうん。そうか。

 アキちゃんにお礼を述べつつそのときわたしが思い出していたのは大学生の頃に知り合った凛花さんのことだった。


 朝晩電車を乗り換える駅でよく見かけていたその人は、偶然にもわたしの先輩の同級生だった。ショートカットで化粧っ気もなく、ほぼ毎日柄パンを履いていた。わたしは柄物ハンターなので、凛花さんのことがいつも目に立ったのである。

 先輩の仲立ちがあって凛花さんとしゃべれるようになったとき、

「いつもナイスな柄パンをお召しですね」

 と話題を振ると、凛花さんは、

「そちらこそ」

 と応えてくれた。くどい柄シャツを着ていたわたしのことを認識してくださっていたのである。こうしてわたしは凛花さんとお近づきになれたのだった。


 凛花さんは物静かな人だった。凛花さんは煙草を吸わなかった。凛花さんは酒も飲まなかった。わたしは凛花さんのことを勝手にロケンローな人だと思い込んでいたため、え、そうなんや、と意外だった。「ほんまは飲めるんでしょ?」と折に触れてわたしはしつこくつついてみたが、凛花さんはいつも「いえ、全く駄目なんですよ」と控えめに笑った。凛花さんはわたしの知り合いの中で、数少ない標準語話者だった。ご両親が揃って関東の出身だと言っていた。


 ある日凛花さんはわたしに聞いた。

「遠藤さん、化粧っていうのは、どうやるんでしょうか」

 わたしはうろたえた。非常にうろたえた。

 凛花さんが昔、毒舌で有名な舞台俳優にサインを書いてもらったとき、自分の名前を伝えたら、

「まっこと似合わんなあ!」

 と言われた、という話を、わたしはこれより前に聞いていた。失礼な野郎ですね、いつか会うことがあったらシバきます、とわたしは請け負ったが、思えばそれはただの茶飲み話以上の意味をもつ告白だったのだ。

 凛花さんはロケンローなわけではなく、悩んでいたのだ。

 ただ、当時のわたしには、まだそこまでよく分かっていなかった。

 わたしだって化粧なんか我流で、他人様に指南出来るような知識も自信もないのである。いくら年長者の凛花さんのほうからご下問があったからといって、「それはですなあ」みたいなふうには答えられない、僭越以外の何物でもない、と思った。

「いや、なんつーか、適当ですよ、ホンマ、ウチもそんなにしないです。めんどいし、せんといかんことでもないですって」

 わたしの回答は、不誠実極まりないものであった。


 今更言っても仕方のないことだが、今のわたしならば、わたしもようわからんので、ここはひとつ一緒に詳しい人に教わりましょう! と、凛花さんに寄り添うことも出来ただろう。凛花さんは恐らく、恐らくは「恥辱を忍んで」尋ねられたのである。わたしのようなサンピンに、だ。わたしは心底恭謙のつもりだったが、「聞かれたことに答えない」というのは結局のところ傲岸な態度である。今なら分かる。質問にはしかと答えるのが本当のつつしみである。


 卒業してから、何度かメールのやり取りはあったが、わたしが凛花さんに直接お目にかかることはなかった。

 そうして何年かが過ぎて、凛花さんが化粧品と美容サプリメントのねずみ講にひっかかって、お化粧するようになったらしい、という話を風の噂で聞いた。あくまでも噂だから、本当かどうかはわからない。

 ねずみ講という商売のあり方についての是非は、今は問わない。もしその噂が本当だったとして、凛花さんがそれを信じてコミットし、なりたかった自分になれたのであれば、一概にそれが悪いとか怪しいとか嘘臭いとか、断じることはわたしにはできない。ただ、凛花さんにとって、世界が少しでも向き合いやすいものになっているようにと願う。凛花さん、ちゃんとノルマさばけてんのかな、と思う。凛花さん、ウチにも勧誘の電話くれへんかな、と思う。そしたらわたしは、凛花さん、サプリもアレやけど一緒にウチんちでウィスキー入りの甘酒飲みまひょ、と言うだろう。けれど凛花さんからのコンタクトは全然なくて、多分わたしはあのとき凛花さんの質問に答えなかったことによって、永遠にその資格を失ったのだし、そもそもあのときわたしが凛花さんの質問にちゃんと向き合えていれば、このような形で凛花さんからの連絡を待つこともなかったのではないか、と思う。

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