欲木



 町田町蔵の『どてらいヤツら』に「みな木が欲しい」という楽曲が入っているけれども、今、わたしも木が欲しい。


 元々、狭い庭に木がわんさか植えられている家で育った。松、槇、百日紅、山茶花、金木犀、でかい棕櫚もあったし、木瓜も、柘植も、沈丁花もあった。同じ通りに建っていた他の家は、ブロックやら金属製のフェンスやらで敷地の囲いをしていたけれども、うちだけは柊の生垣で、年に一度、決まった植木屋さんが仕事をしに来た。

 幼いわたしにはかなりの老齢に見えたが、今思えば軽々と梯子に上っていた大将は、存外若かったのかもしれない。だいたい、自分の父親より年上だったらみんなおじいさんだと思ったものだ。三時になると、母はにゅう麺をこしらえて出した。大将は、物干しのコンクリートに座ってそれを食べた。手伝うつもりで、伐られた松を拾ってビニールに詰めたが、尖った松の葉や枝の切り口は簡単に袋を穴だらけにし、邪魔したらあきません、入りよし、と母に声を掛けられて、わたしの作業ははかばかしい成果もなく終了した。今もあの植木屋さんのことを考えただけで、鼻の奥に松脂の香りがよみがえってくる。


 ふだんの世話は閣下がしていた。先に挙げた木や花の名前は閣下から直接教わったものがほとんどだが、柘植や棕櫚なんかは、あの庭の様子を思い出してみて今、わたしが名前を当てられるようになったものである。ガーデニングとかいうのが流行り出して久しいが、閣下のやっていたのは「園芸」であろう。家のおもてに作り込んだ鉢を並べまくる、というようなことは閣下はしなかった。娘時分は生け花が好きで長いこと習っていたというから、植物にはそこそこの関心があったかしれないが、庭に情熱を注ぐ、というのではなしに、普通の生活の中の、たしなみという感じだった。だから、園芸と称するのすら、「園」の「芸」ってなあ、という気がして閣下にはちょっと違うんじゃないかと思う。だって、閣下は発泡スチロールの箱で葱やパセリなんかも育てていた。わたしはそれを時々ちぎって食べていた。ポテトチップスとチョコレートと蕎麦ぼうろ以外の菓子類に一切興味のない子どもだったが、そおゆう好き嫌いがアダになって飢えていたのだろうか? いやー、なんとなく食えるからただ食ってた、ってだけやと思うんやけど。そういえば、葉牡丹もむしって食ってたな。前もこの話したけど、あれは白菜だと思っていた。やっぱ飢えてたのか、わたし。ほぼヤギやん。


 何年か前に、大学のときの友達と街を歩いていて、

「うわー、これ金糸梅やんなあ。めっちゃ綺麗」

 と、道路脇の植え込みを褒めたら、

「なんかさあ、世間のおばちゃんが“マ~、○○ガ綺麗!”とかって花見て言うの、自分らも年いったらそうなるんかなあ? でも年いったらって、一体いつ? ていうか花の名前て何があって覚えていくん? とかずーっと疑問やってんけど、アンタもう始まってるやん!」

 と何かの症状のように驚かれたり笑われたりしたのだけれども、たしかに物の名前というのは、無意識のうちに吹き込まれるか、自分でやる気をおこして覚えるかしないと知らずに過ぎていくものだ。

 愛車が三輪車だった時代には葉牡丹むしってむしゃむしゃしているだけだったが、折りに触れて閣下はわたしに草木の名前を囁き、知らず知らずのうちにわたしはそれを覚え、葉牡丹と白菜は別物だとわかるようになり、閣下が亡くなってからは自分から方々でひとに尋ね、草の名前は少しばかりわかるようになった。

 ところが、木についてはなかなかに指導者が得られず、昔の家にあった木以外はほとんど分らないままで、お寒いかぎりなのである。


 だから今、欲しい木があるのだけれども、それが何の木なのかわからない。しかも二種類ある。車で走っていたとき、偶然見かけた。ひとつは山に生えていて、もうひとつは街中の、公民館みたいな建物の敷地に生えていた。どちらも、玉のような実が付いていたが、葉はほとんど落ちていた。家に帰ってやみくもに図鑑をめくってみても、冬枯れの姿と春夏の様子は全然違うわけで、青葉の茂った写真やイラストを見てもそれとわからないから困る。

 ていうか、自分でもまさか木が欲しくなるとは思わなかった。ついに、という感すらある。葉牡丹むしゃむしゃからずいぶん遠くへ来たものだ。


 今までしてきた幾度もの引越で、いろんなものを失ってきたけれども、一番惜しかったと思い出されるのは庭の木と草花である。聞くところによると、そういう転居だとか建物の取り壊しなんかに伴って手放さざるを得なくなった庭木を、差して盆栽にしてくれるというサービスを専門でやっている園芸店もあるらしい。それはええ考えやなあ、と目の付けどころに感心する。みな木が欲しい。

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