ニンテンドー等
ひところ、十条の任天堂本社の前にあるファミレスでよく昼御飯を食べた。任天堂の社員証を付けた男のひとたちが近くのテーブルに座ると、いや、窓際のテーブルから社屋をじっと見上げただけでも、わたしはしばしば動揺した。
わたしは多分ゲームがすごく好きなので、やりはじめればまたたく間に廃人になるとたやすく予想され、なるべく近寄らせないようにしている。だのに、こんなにnintendoの傍に来て大丈夫なのか、細胞レベルで、と。
昔うちはどうしてもファミコンを買ってもらえなかった。買ってもらえなかったのは、父が嫌がったからである。教育上よくないとか、そういうことではない。父もまた、自分自身がのめり込むことを恐れたのだった。
小学生だったわたしは、ファミコンを持ってる友達のうちにせっせと行って、ツインビーやなんかをやらせてもらった。だからまあ、完全にゲームから隔絶されていた子とはちょっと事情が違って、「雨が降っても槍が降っても」などという表現に出会うと反射的にスパルタンXのことを考え、焼肉屋の品書きにクッパを見つければ火の球の連なったバーがぐるぐる回る城のことを思い出し、夫が「腹が痛い」などと苦しんでいるときには「ホイミ」と唱えて同情の意を示すこともできる。
ただ、うちでも自由に出来たゲームがあって、それはファミコンではなくパソコンでするゲームだった。パソコンも今みたいなノート型ではなくフリーザ第二変身みたいなアタマが後ろに長いヤツ、そのドライブにCD-ROMでもないぺらぺらのディスク(あれなんていうんですか? フロッピーでいいの?)を差し込んで、宇宙の果てに魔王を倒しにゆくシューティングゲームも、テトリスのようなブロックを重ねちゃ消し、重ねちゃ消しするゲームも、三蔵法師や猪八戒とする麻雀ゲームもあったが、どれも破壊的にマイナーで、誰ともそのゲームの話は出来なかった。まあ、特にしたくもなかったけども。
そうこうしているうちに自分はめでたくガリ勉の中学生になり、高校に受かったら受かったで他のこと、部活やら、映画を見たり音楽を聞いたりで忙しくなったので、家でゲームをする時間はなくなった。
ところが大学生のとき、父が何を思ったのか、まだ出始めで4万円くらいしたプレイステーション2を、突然どこかで手に入れてきたのだった。プレステ伝来である。黒くてデカくて縦置きすると間違いなくモノリスやろ、という外見だったアレ。わたしはアレで、『IQ』をやった。そらもう、一晩中やった。あのモデルはどうやら消費電力がバカにならなかったようで、古い我が家では何度かブレーカーが落ちる、などの騒ぎも引き起こした。
それからもうひとつ、ようよう薄くなってきたパソコンでソリティアとフリーセルを死ぬほどプレーした。どちらも、ひとくちに言うとバラバラに置いてあるトランプのカードを、一定のルール下で順番に並べ直すだけのゲームである。これも、一晩中やったことがある。なんか知らないうちに時計の針がぐるぐる回り、やがて明けの烏の鳴き声が聞こえてきた。
うわあ、猛烈に無駄な時間を過ごしてしまった、二度寝の百倍タチが悪い。
ある日そう思ったわたしはゲームから遠ざかった。とりあえず、一人でやるゲームは駄目だ。友達と一緒にやるストⅡとはわけが違う。
ゲームをしている間は楽しいのである。おもしろいのである。ところが済んでみたら大変な損をした気分にしかならない。不思議なことである。例えば散歩に行って、あるいは本を読んで相当な時間を使っても「損した」なんて思わないのに(時々極端におもんない本というのもあるけれども)、ゲームの場合だとトランプ並べて、だからどうなんだ、と自分を責める気持ちがむくむくとわき上がって押しとどめることが出来ない。
先日出来心で、十年ぶりくらいにフリーセルをやったら、あっという間に二時間経っていて、相変わらずこえーな、と改めて思って、この文章を書いた。でも多分、またあと十年くらいしたら同じことをしそうな気がする。だってゲームは、おもしろいからだ。
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