その言葉のうしろにある話
京終。富雄。近鉄電車。ナイキのクキニ。変電所。プジョーの折りたたみ自転車。笑い飯。モスコミュール。タワレコの袋。ジャングルブラザーズ。ビースティボーイズ。手羽先を醤油とみりんで炊いたのん。使い捨て剃刀(水色)。ラッキーストライク。
今陳べたことはすべて、昔わたしが好きだったひとの記憶と強く結び付いていることで、このようにただ単語を並べるだけで、自分にとっては呼吸が一拍おかしくなるくらいに複雑深長な言葉の連続なのである。よしんば並んでいなかったとしても、ただ単にひとこと、「京終」あるいは「タワレコの袋」と言われただけだったとしても、あー、くらいのことは思う。
だが当然、自分以外のひとからすればおよそ意味のない文言ばかり、いや意味はあるにしてもわたしの感ずるそれとはまず全く違ったものだろう、ていうか同じであるわけがない、一つの単語を取って見ても、個人がその一語から汲み出すものは、それぞれに別なのだ。
ひとは誰しも自分の頭に各々が編纂した辞書を搭載していて、随時改訂していっているのだと思う。ナポレオンのには「不可能」という言葉はなかったとかいうが、「不可能」という言葉を知っている以上本人がナンボ否定しても載っていたはずで、ただ、
①できないこと
のあとに、
②オレは言いたくない言葉
と書いてあったのだと思う。
わたしの辞書の「京終」の項には、
きょう‐ばて①都の端②奈良市内の地名③JR桜井線にある駅名
というごく一般的な語釈のあとに、
④荒尾君の家があったところ
と続いている。辞書と言うより百科事典と言った方がいいのだろうか。
こういうことを考えるにつけ、ひとひとりひとりの内に無限の宇宙があるのだなあと気が遠くなるが、わたしはそうした無限の宇宙に散らばる、「そのひとにしか語りえないちょっとした事実」を聞かせてもらうのが非常に好きである。そのひとの辞典にある、特別な説明の部分を見せてほしいのだ。むかしから小説よりもエッセイの方をよく読んだのは、自分の好きな、物語ではない、物語にはなり切らない「ちょっとした事実」と地続きだという感触があったからだろう。
最近、三人のひとから立て続けにそれぞれの「習い事」の項について聞かせてもらった。うち二人が、自分のしていた習い事はそろばんだったと言い、しかも二人ともが、
「そろばん教室の帰りにはピンポンダッシュをよくやった」
と言うのである。二人は年も違うし知り合いでもない。だのにやることはいっしょ。以来わたしの辞典の「そろばん」の説明には、
①計算機の一種②勘算、思惑
の次に、
「習った後にはピンポンダッシュがしたくなる」
という一文が加えられ、さらに「→ピンポンダッシュ」の注が付いて、「ピンポンダッシュ」に行くと、
無用であるにもかかわらず他家の呼び鈴・インターホン等を鳴らし、その住民をして困惑・憤慨せしめる悪質ないたずら。そろばんを習う子供がよくやる?
ということになるのだ。
いま一人、これはわたしの長年の友人多田の話なのだが、多田の習い事はピアノだったらしい。そんなに身を入れてピアノを習っていたのではなかったという多田は、教室までの道中でサワガニを捕まえて持って行ったりして先生を困らせていたそうである。これまたいい話を聞いてしまった。だからわたしの辞典の「ピアノ」の欄には「サワガニ」についての言及があり、かたや「サワガニ」の方には「多田がピアノ行く途中に獲ってた」と書いてある。
こうして、わたしの辞典は分厚くなっていく。
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