感知能力
先般久しぶりに風邪を引いた。パートの分際でまずまずの社畜ぶりだとは思うが休むと正味同僚さんに迷惑をかけるし、しんどくなるのも単純に嫌だし、昔知り合いの猟師さんからもらった干しマムシがあったのを思い出してオーブンで炙って空きっ腹にぶち込み、そのあと白ご飯とおぼろ昆布のおつゆを摂取し、布団をかぶってぐうぐう眠って、一日で完治させ、翌日は常と変らず出勤した。力技である。
そういえば最近風邪引いてへんな、と思ったときにはもう遅い。それを思い出すこと自体がすでに、風邪の予兆を無意識のレベルで感じ取っているということなのだ。今回もそうだった。あ、なんやかんやで正月からこっちまだいっぺんも風邪引いてへんわ、と気が付いた数日後に、猛烈な咽喉の痛みがやって来た。
同じく、最近夫婦喧嘩してねえな、ほほ、仲良きことは美しき哉、などとと思う日があったとしたら、それは近々勃発する大戦のイントロである。夫婦の間で知らず知らずのうちにやり取りされている電磁波の乱れを、それとなく感知しているのだ。あるいは、部屋の片隅に潜んでいる夫婦喧嘩の神様の影を。
そういうのを全部ひっくるめて「気配」という。
ひとの噂話をしたり、実際しなくても例えば心の中で「あー、Dちゃんてどうしてんのかなあ」と考えただけで、間をおかずそのDちゃんの消息が知れたり、極まった場合には本人がふらっと現れたりするのも、こちらがその気配を感じ、先回りするような恰好で話題に、意識に上らせているからではないのか。そのつもりはなくても。
鈍感なわたしが通常感知できるのはいま述べた風邪の神様と夫婦喧嘩の神様のお二方くらいで、どちらも感知したからと言って何か予防策を講じられる性格のものではなく、まあせいぜい前者には風邪薬、後者であれば市役所へ行って緑色の書類を備えるくらいのことしか出来ないのであるが、どうせならもっと勝ち馬の神様とか、株価の神様とかの気配をキャッチできるようになりたいものである。まことに、感知できないものだらけである。
感知できないといえば、昔、まだ大学生だった頃に、エスカレーターに乗っていて、後ろからケータイのカメラでスカートの中を撮られたことがある。いや、あったんだと思う。これ、全部「多分」の話なのだけれども、多分、多分そうだったんだと。
夜九時ごろ、ぼんやりしながらひとかげもまばらな某私鉄路線某駅の上りエスカレーターに乗っていたのだ。で、もうすぐてっぺん、というときに、ふと後ろを振り向いたら、すぐ後ろに自分とあんまり年のかわらない兄ちゃんがいて、急にぱっと手を引っ込めて「すみません」と言ったのだ。なんで自分が振り向く気になったのかはわからない。まがりになりにも、何かを感知したのであろうか。それでも、どうしてこんなに詰めた距離に知らん兄ちゃんが立ってるのか、「すみません」がどういう意味なのか、わからないまま数秒後一番上に着いて、そこから二三歩歩いて、
「あ、」
ともういっぺん振り返ったときには、もう兄ちゃんはいなくなっていた。多分、すぐ右手にあった駅ビルとの連絡通路出口に逃げたのだろう。感知能力の低さのゆえである。撮られていたにせよ未遂だったにせよ、もうちょっと早く勘付いて相手を押さえることができたのなら上段から蹴落として、「蒲田行進曲」を歌ってやったのだが、と慙愧に堪えない。ちょうどカメラ付きの携帯電話が普及して、連日、盗撮被害が報道されていた。盗撮ではなかったが、某大学教授が、エスカレーターで女子高生のスカートの中を手鏡で覗こうとしてお縄に、なんていう事件があったのもこの頃である。
それにしても、当時から今に至るまで、パンツを盗撮された(かもしれない)こと自体に関しては「はずかしい」とか「悔しい」とかいった所感を抱いたことは全くないのだった。わたしは自分の下着を覚えているのだけれども(なにしろ方々で散々ネタにしてしゃべったので)、どういうわけかその日は所持品の中でも最もいぶし銀な、喩えて言うなら三畳紀くらい古代のパンツを心ならずも着用しており、撮られたんやろなー、と思いながらも「おい、コレでええんけ」と困惑半分、ザマぁという気半分だったのだ。女子のはしくれとしてはせめて人類が出現してからの、もっと欲を言えば元禄年間くらいの新しいパンツであったなら、と願わなくもない。そういう意味では「はずかしい」、「不甲斐ない」と思っている、ということである。ていうか、もしそうだったらもっと真面目に怒ってたような気がする。
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