脳内の解説者
だいぶ前、詩人の最果タヒさんが、新聞のコラムにこんなことを書いていた。
「言葉を読むときどれくらいの割合でそれは『声』になっていますか。私は私にとっての言葉の姿しか知らないから、他の人にとってはそうでないのかもしれないけれど、目で文字列を追えばやっぱり頭の中で、誰かの声で読み上げられているように聞こえる気がしてしまう。」(平成28年9月16日産経新聞「さいはて日本語観測所」)
なっていますか、と聞かれているので考えてみたが、わたしの場合は文章を読んでいても、とくに具体的な声として脳内に響いてくるような感覚はないのだった。まあ最果さんも、自分が感じるその声のことを、通常のものとは違う、「輪郭があいまいで、なにより現実と階層が違うところの声のように思う」と言っている。その後さらに詳しくそれがどういうものかを説明していかれるのだが、さすがさすがに巧い、有志は是非原本にあたられたい。
とにかくわたしとしては、普段文を読みながら具体的な声を聞くことはない。
しかしながら、そうした、「“読み”に伴う声」というのとはまた少々性質を異にする、「ある条件下において文章を読んでいると脳内に現れる声」というのが、わたしにはある。
古文、英文、専門用語満載の論文などを読んでいるときに、突如それを翻訳・解説してくれる声があるのだ。関西弁で。
込み入った言い回しや、日常使わない文語文なんかを、え? なに? なんて? と考えていると、不意にそれは聞こえてくる。
「『固よりこれに優ることあるべからず』ちゅうたら、『そらそれにこしたことあらへんがな』ゆう意味やね」
世界の盗塁王・元阪急ブレーブス福本豊のシャベリほとんどそのものであると思っていただいてよい。もう、仮にユタカとする。ユタカが出てくると、俄然読むスピードも上がり、なおかつ理解の度合いも深まる。一度出ると、しばらくわたしに寄り添って、文の難易に関わらず解説を続けてくれる。助かる。
わたしは相変わらず外国語の歌をよく聴いていて、大幅な聴き間違いを繰り広げている(「聴く」https://kakuyomu.jp/works/1177354054887731454/episodes/1177354054887744730参照)。
最近ではプリンスの曲で、
"that's fine
'cause I'm blind
but the blind can see in the dark"
だと思っていた箇所が実は全然違っていたことが発覚した(恥ずかしいので曲名は特に伏せる)。同じ暗闇の中なら盲人の方が「見える」という何とも座頭市的な世界観でカッコイイ、さすが殿下、とか都合十年間思っていたのに違った。イヤもはや、ラジオで日本人DJの紹介する「Killing Me」すら「きりん組」に聞こえ、なんでこの人急にウチの子の保育園のハナシすんのかしら、と本気でびっくりしたりしている始末である。
そんなわたしであっても歌詞カードを手にユタカが出てくればもう安心。例えばある日ユタカが訳してくれたダイナソーJr.の「アイ・ドント・シンク・ソー」のサビの部分、わたしは大変気に入っている。
「僕のために泣いてくれたと思いたいけど、まあわからんよなー。思い出まみれやね。朝にはあの子のこと考えてまうし、あれって僕のために泣いてくれたん? いっやー。ちゃうやろなー」
グチグチ思い悩む男子の呟きは、関西人のわたしにとって、やはり関西弁で受け止めるのが一番いいのだった。そうしたうえで、ポップで明るいメロディーに、しっかりせえよと言いたくなるような堂々巡りのぐだぐだを乗せる(しかもマシアスは致命的に声が張れてない)というバランス感覚に魅せられる。
しかし一体誰なのだろう。ユタカ。気になって仕方がない。みなさんには、そんな声、ありませんか。
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