聴く


 八二で洋楽を聴いているため、わたしの棚に並んでいるのは圧倒的に洋物のCDが多い。そしてその洋物CDの九割が、英語で歌われている楽曲である。もう二十年以上、そのような状況下に身を置いてきたが、英語が聞き取れるようになったかと言われたら答えはノーなのだ。短くて簡単なフレーズならわかることもある。声質や歌い方にもよる。汚い言葉もわかるがしかし。(余談だが、親の海外赴任とかで一緒に連れられて行った子どもだって、現地ではアカン言葉から先に覚えるという話を聞いたことがある。罵詈罵倒猥褻語句。なんでなんだろう? まことに興味深い。)

 だから、歌詞を読まなければ歌の細かい意味までがわかることはまずなく、輸入盤を買うと対訳は当然のこと、ジャケ写とクレジットだけで歌詞はないということがわりとあるので、何百回と聴いていながら未だに何のことについて歌っているのかちいとも知らないままの曲、というのもある。

 自分のわからない言語・文字で綴られた文章が単なる模様にしか見えないように、わからない言葉で歌われる歌というのは、詞の意味が頭に入ってこない分、純粋に音だけを聴いて楽しむことになる。

 そして、何か機会があって歌の全容を知るところとなり、これってそんなこと言うてたんか! とびっくりしたり、意外にしょうむない内容の歌やってんな…… という所感を抱いたりすることもある。けれど、そう思ったところでいかんせん外国語なので、どんなに俗っぽく陳腐で、手垢にまみれたダサダサな表現であっても、耳に響いてくるのはわたしにとっては実際ただの「そういう音」なのだ。「そういう詞」では、ないのである。だから、「うわ、だっさ」とか言って嫌いになったりはしないわけ。

 ところがこれが日本語の楽曲だとそうはいかない。

 イントロがどれだけカッコよくても、Aメロが始まった途端に「くだらん! 黙れ!」とコンポにリモコンを投げつけたくなるような曲。中盤までずっと良かったのに「何故そのブリッジを入れてしまったのか」とがっくりうなだれてそのまま脱臼してしまうくらい残念な曲。とにかくわたしは歌われる文言をなまじよく聴いてしまうため、Jポップ、Jロックは非常にしんどいというか、疲れやすいジャンルなのだった。いつか夫に話したら完全にクレイジー扱いされたのだが、わたしは自分の気に入らない音楽を聴かされるということが本当に本当にイヤで、学生のころバイトしていた散髪屋を結局一年足らずで辞めてしまったのは、店でずっとFM85.1(主にJポップや、アイドル・タレントがDJをやる番組なんかを流す局)がかかっていて、それを聴くのが苦痛だったからだ。まじで。夫から「じぶん、おかしいんちゃう?」と言われるまでそれが普通の人間の反応だと思っていたため逆にびっくりしたのだが、みんな、イヤじゃないのか、そういうの。気にならないのか。わたしはまるで聞き流せなくて駄目だった。そのあと始めた単発の試食配りのバイトでも、ある日派遣されたスーパーの肉売り場で、設置されたラジカセからとっとこハム太郎のテーマが永遠に流れて来て泣いたことがある。未だに全然耐性が付いておらず、今のパート先の惣菜屋はラジオもテレビもなく、心底ありがたい。

 ただ、邦楽を聴いていてひとつだけ面白いことは、歌詞の聴き間違いが出来る、ということである。聴き間違いが「起こる」ではなく、「出来る」、とわたしは是非言いたい。その面白さは、外国語の歌を聴いていて時々ある、タモリ倶楽部の空耳アワー的な「聞こえ違い」という、絶対にそんなことは言ってないはずなのにそう聞こえる、という落差前提のオモロさとは別種のものだ。

 英語の歌だって単語単語の聴き違いはするが、全篇通して何が言いたいのかあんまりよくわからんという中で、ことばを一つ二つ聴き間違おうがまったく大した問題ではない。それに対して母語で歌われている歌における聞き間違いは、かなりの程度は正しく意味を把握しながら、その上で聴き取りを誤っていっているのだ。もう、部分的に自分が作詞しているような感覚すらある。事実頭の中で、この音で聴こえるならこの単語か(おお、同音異義語の多い我が国語よ!)、この文脈ならこのことばか、という当てはめ作業をずっとしているわけだから、答え合わせをするかしないかは自由の穴埋め問題を解いているようなものだ。そして真実を知ったときの「あれっ? ちゃうかったやん!」という驚き(そして「できれば知りたくなかった! わたしの作り上げた歌詞の方がナイスやった!」という嘆き)。こうした一連のことが、実に愉しい。


 わたしは去年ラジオで聴いたある物悲しい曲を、授かった子を堕胎しなくてはならなくなった恋人たちの歌だとずっと思っていて、その後手に入れた音源もそのつもりで繰り返し聴いて毎度厳粛な気持ちになっていたのだけれど、最近になって、ネットで本当の歌詞を調べてしまった。出来心で。そしたら全然違うでやんの。

 それはそれで素敵だったので、わたしのヤツの方がナイス、というような不遜な感想は持たなかったのだが、わたしがそれまで聴いていたのは実は、厳密な意味では「存在しない歌」なのだ、ということがとても不思議だった。本当のことを知ってしまってからは、だんだんそちらの歌詞の聴こえ方のほうが強くなってきて、自分が最初どんなふうに聞き間違えていたのかもはや思い出せない部分まである。それで今わたしはなんだか、損したような気分になっている。誤聴は、新しい歌を生む。わたしは真の歌詞を知ったことで、結局新しい歌を失ってしまったのだ。間違ったものを間違ったまま、という状態は、すごく魅力的なものだと思う。余人は持ち得ないであろう自分だけの別バージョンがある、というお得感が、わたしのアタマの端っこをくすぐる。でもそれも、自分が「聴き間違ってた」とわかって初めて気付くことなのだけども。

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