何と申し上げていいのやらわかりません



 何やらもやもやと肚にはあるのに、どう言い表わせばいいのかわからない、という事態がしょっちゅうある。

 単に自分の語彙の貧しさ、表現力の無さと言ってしまえばそれまでなのであるが、事実、まさにまさにそれ、という「真芯でとらえた言葉」が存在しない、ということだってあるだろう。あるはずだ。あると言って。

 わたしの大好きなブラックマヨネーズの古いネタで、

「言葉無いから作るけど、オマエほんまチルバスやぞ!!」

 っていうのがある。チルバス。わたしもいわく言い難いこと全てをチルバスで片付けたい。よっさんは天才だ。わたしの中の「日本の三大吉田」は吉田茂と吉田義男、そしてこのブラマヨ吉田敬である。


「およそ語られるものは明瞭に語られ得る。語り得ないものについては、我々は沈黙しなければならない」

 と言った哲学者があるけれども、黙ってたら一切が無かったことになりはしないか、とわたしなんぞは思うのである。「ゴト」無くなってしまう事実。

 また、文章という不完全なもので表すことが出来るのは不完全な気持ちや思いだけだ、という意味のことを、村上春樹は小説の中でも、エッセイの中でも書いていた。そこだけ読むと、少々ネガティブな言語観に見える。S・キングも『スタンド・バイ・ミー』の冒頭、そして後半で、ことばは大切なものを縮小してしまう、と二度も書いた。他方、コラムニストの故・山本夏彦翁は、

「言葉は電光のように通じるもので、説いて委曲を尽くせるものではない。言葉は少し不自由な方がいい、過ぎたるは及ばないのである」

 と言った(『世は締め切り』収録「口語文」)。どれも本当なのだと思う。


 ちょっと話がずれるようだが、寺田寅彦の「自画像」というエッセイの話もしたい。岩波文庫から出ている随筆集の第一巻に入っている。寺田は自画像を何度も描いてみるがうまくいかない。第四号の自画像も、「局部にとらわれて全体の権衡を見失うこともいよいよ多かった」。そのことを、友人のK君に話すと、K君は、

「いったい人間の顔は時々刻々と変化しているのをある瞬間の相だけつかまえることは第一困難でもあるし、仮にそれを捕えて表現したとしても、それはその人の像と言われるだろうか」

 と言うのである。これを聞いて、寺田は、

「ある一人の生きた人間の表現としての肖像は結局出来上がるということはないものだとも思われた。あるいはその点に行くとかえって日本がの似絵とかあるいは漫画のカリカチュアの方が見込みがありそうに思われた」

 というところに到る。解釈の余地を、見る者に残す・与える表現こそ豊に多くを語るものになり得るということか。

 このことを山本翁の文章観「読み手に花を持たす」と合わせて考えてみると、鑑賞ということは、発信者と受信者のダイナミックな共同作業と言えるのではないか。そして蛇足ながら、理解というのは要するに願望だから、受け手はいくらでも「誤解」しうる。

 さあ、では我々は表現とコミュミケーションの限界に絶望するしかないのか。そこにきてわたしが最も有効だと考えるのが、冒頭述べた「チルバス」なのである。

 チルバスではわからん、なめるな、と本気で怒りだす向きもあるかもしれない。でもね、じゃあ、チルバスじゃなくても、わたしたち、とくに関西人が日常しょっちゅう使う「チルバス」とほぼ同じレンジの偉大な言葉がある。

「よう言わんわ」リピートアフターミー、「よーゆわんわ!!」


 昔、身の回りがいろいろ大変だったときに、古い友達がそれを知って、

「何にもよう言わんけどよー、ウチに出来ることがあったら頼りよー」

 と電話を掛けてきてくれたことがあった。忘れられない。

 言えない、ということを言う言葉は、何かを言うよりもより多くのことを言わんとしている。そしてそれを可能にしているのが言葉の不自由さだということは、いかにも面白いことだと思う。

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