世男博
ある有名な美青年好きの映画評論家は、美青年を中心にしてしか作品を見ていないので、同じフィルムを見ても他の鑑賞者たちとは全く別な解釈をするに至る、という話を何かで読んだことがある。それはつまり、独自の切り口を持っているということだから、評論という仕事のためには大変な武器なのだろうと思う。
自分の話をすると、わたしは男前を中心にしてしかラグビーを見ていないので、同じゲームを見ていても、他の観戦者たちとは全く別な感想を抱きがちである。翌日にはもう勝ち負けのことなんて覚えていなかったりするのに、例えばトンマーゾ・アラン(イタリア代表)の鼻筋の通り方あれはなんや、眉間と目頭の落差は何センチあるのか、あんなに高かったらやっぱりぶつけやすいんとちゃうかな、打ったら痛そうやな、だいたい何もせんでも自分の鼻が常に視界に入るやろうね、ゴールキックのときもこう、ゴールポストに対する自分の鼻先の角度で狙いが定まるとかいう、ベンツで言うたら運転席から見えるあのエンブレムと道路端との角度で、あとどれくらい左に幅寄せ出来るか分かる、みたいな指針になったりせえへんのかな。
なんてことがいつまでも気になって仕方がなく、そんなわたし独自の切り口はどのような仕事の何の助けにもならないのであった。
しかしもう、自分のラグビー観戦については、よほど思い入れのあるチームだったり、応援する理由のあるときは別にして、ほとんどの場合前後半80分間、慢然と、猛烈なタックルとキック&チェイス、そして好きな男を眺めている。海外ラグビーなどというのはわたしにとって、世界男前大博覧会だ。筋肉と胆力と肩幅の祭典。
そもそもわたしの父親がガタイのいい人であったので、男というのはああしたものだ、あああるべきものだ、と思うようになったのだろう。昔から子犬かさもなくばプリッツかのような男性アイドルなどには興味がなく、むしろ男のくせに自分より確実にかわいい野郎どもの何がいいのか、全く理解できなかった。
わたしの年下の友人は言った。
「それはねえ、お父さんとの関係がよかったからでしょうね」
曰く、ごつい男の大きな手が、拳骨に固められて、自分を守るために振るわれることはあっても、けっしてこちらに向かっては来ない、という信頼があってこそですよ。わたしは吹けば飛ぶような肺病やみのごときひょろひょろの男が好きです。
「それなら、こっちが本気でやり返せば勝てるでしょう」
年若の友は、別に日常的にボコボコにされてたとか、耐え難い暴力にさらされてたとかでは全くないんですけど、まあ威圧的な父親だったんでね、デカい男を見たら反射的にコワ、と思いますね、と困ったように笑った。
そうか。わたしは知らなかったことをいっぺんに二つも教えられて、ただただ頷いた。
たしかに、彼女の言う通り、わたしは父のことはとても好きだった。母の持って行き方も上手かったのだが、おとうさんはえらいおとこだ、と心底思っていた。父と食べ物の好みが似ているということだけで、何か嬉しい気持ちになった。
ところがわたしが結婚する少し前から子供を産むまでの数年間に亘って、父との間に諍い、というか父に対するわたしの感情が劇的に悪化し地に落ちるという期間があって、わたしはその数年間、父には必要なこと以外は一言も口をきかず、外で父の話をするときには必ず「あのおっさん」という呼称を使った。
そうした感情の問題が解決を見たのは、ひとえにわたし自身が親になったからである。子の親になるのがどういうことか、わたしには初めて分かったのだった。
去年父は病気になって、仕事も引退し、今では不自由になった体を毎週来て下さるリハビリの先生と動かしている。ガタイのいい父がもし寝たきりになったら、母がどんなに苦労するかしれない。リハビリの先生には足を向けて寝られない。
以前と同じようには諸事進まないことに腹を立てて、父はよく怒鳴るようになった。ひとにも怒鳴るが、自分自身に怒鳴っていることの方が多い。どちらにせよ、急に大きな声を上げるひとがそばにいるというのは不愉快きわまりないものである。そういうところに、いくら血縁とはいえ子を連れて帰るのは気重なものである。出来ればじいちゃんのああいう姿は見せたくない。でもわたしには帰るところといって他にないので、いたしかたない。
先だっても、実家から戻る車の中で、長女が、
「今日もジイジさあ、おかあさんがスーパー行ってる間になんかわああああ、って怒っててん」
と言ったので、ごめんなあ、びっくりしたやろー? とわたしは謝った。
しかし続けて、
「でもさー、あの人、わたしのお父さんなんよね」
と弁明したら、娘は、
「そやなー!」
と笑ってくれた。
古希を迎えぬうちに杖をついて歩くようになった父は、坂道がつらいそうだ。上りもしんどいけれども、下りの方が転んでしまいそうで怖いのだと言う。
先月甥っ子のお宮参りに行ったときは、わたしが父の手を引いて参道を歩いた。父と手をつなぐのはほんとうにほんとうに久しぶりだったが、父の手はわたしの記憶にあったものと変わらず、大きかった。父はすまんな、と言い、わたしはかまへん、と言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます