生活の中の四字熟語
やっぱり百鬼園先生はムチャクチャだな、と思ったのは、中村武志の「掘立小屋の百閒先生」という随筆を読んだからで、そこにはこんなエピソードが書かれていた。
ある日百閒先生に猪肉を贈った人があった。百閒先生はひとを呼んで猪鍋を振る舞う。数日にわたって、客を呼ぶつもりをしている。曰く、忙しくて原稿どころではないと。また、酒を添えて送ってくれないのも困る。
「猪さえ送ればいいと考えるのは甚だ軽率です。まあ、お酒のことはいいとしても、原稿のほうは、猪を下さった布引さんが代わって書いてはくれません。(中略)布引さんは、誠心誠意親切のおつもりで、猪をお送り下さったのですが、親切というものはかくのごとく不親切なものです。」
(宇野信夫編『日本の名随筆74 客』 作品社)
我が家では先だってさる方面から、猪肉ではなくて豚肉を頂戴した。500グラム。分厚くスライスしてあるバラで、網焼きなどにせよ、という。鹿児島県産、飼料にイモを使っているナイスな豚らしい。
わたしは豚肉に目がない。こら、共食いとか言うな。牛よりも断然豚。わけても豚のアブラんとこが猛烈に好きである。阿部譲二が著書の中で、豚はアブラだ、アブラが命だ、健康志向のやつらはヘレカツを喜ぶのか知らんが、脂身のないカツなんどには夢も希望もない、という趣旨のことを言っていたけれどもまことに共感する。
だからこのバラ肉を貰って非常に嬉しかった。駄洒落に思われると心外なので出来れば避けたい表現だが、実際目の前がバラ色になったのである。うおお、今晩はジュージュー焼きだ!
「ジュージュー焼き」というのは母方の祖母・伏見のママが言いだした言葉で、わたしの実家ではいわゆる「鉄板焼き」のような食事を指す正式名称だった。肉やらイカやら野菜やらをごついホットプレートで焼いて、すだポンとか醤油とかウスターソースとかめいめいが好きな調味料をかけて食べる。わたしはたいがい塩と胡椒だけで食べるけど、からし醤油も捨てがたい。
問題は肉の量だ。500もあれば野菜も入れて足りそうなものだが、夫はもとよりわたしもよく食べる方だし子どもは三人もいる。それに、わたしは豚肉さえあればオールOKかつジュージュー焼きというのは完全なフリースタイル、柔軟で何の制約もない「焼き」なんだけれども、世間一般にわかりやすく鉄板焼きっつったら牛肉も外せないということになるだろう。絶対言われるね。「鉄板焼きやのにウシはないんけ!」「鉄板焼きとちゃうし! ジュージュー焼きやし!」「なんやねんそのワケのわからん『焼き』は!?」「ワケのわからん?! そおゆう台詞が言いたかったらウチの実家で、いや伏見の墓の前で言うてもらおか」「おかーさん、ケンカ?!(小3)」「ジイジんちに帰るの?!(小5)」「うわーん(年長さん)」
楽しかるべき夕飯にそのようなミソをつけられるのはいやなので、さっそくわたしは近所のスーパーへ足を運んだ。精肉コーナーに行ってみた。したら牛肉、やっぱり高いやん。当たり前のようにグラム498とか598とかするやん。切り落としの薄切りでは許されへんやろうなー。「鉄板焼きやのに薄切りしかないんけ!」「鉄板焼きとちゃうし! ジュージュー焼きやし!」(以下略)
肉売り場特有の匂いと冷気の中、百閒先生の親切不親切の話が胸に迫ってきて仕方がなかった。百閒先生も言ってた。「十分に感謝しています」。そう、わたしだって十分に感謝しています。
が、
ということである。「が」。
そうして発泡スチロールのトレーをためつすがめつしていたら、娘と同級生の、テツ君のママが偶然買い物にやってきた。
「焼き肉用の豚肉もろてんけど牛も足すことになってな、ほしたら完全に出費超過やねん、もうな、軽めの破産や」
わたしが今この瞬間精神的にも経済的にも窮状に立たされていることをしかめっ面で陳述すると、テツ君のママは大変あたたかなあー、あー、という相槌をくれて、
「あるよねー、本末転倒やろ、っていうとき」
と言った。
日々の生活の中で、こんなに鮮やかな四字熟語の使い方に浴するのは本当に久しぶりでわたしは心底感激したのである。
「いまの一言、ウチ今日の日記に書くわ」
厚切りの肉が数枚入っただけで千円を超す値札のついたパックをヤケクソでかごにぶち込んでわたしがそう言うと、テツ君のママは、んじゃあとでタッパに白ご飯詰めてテツと一緒に行くから、六時? 七時? 箸も用意するけど皿だけは貸してなー、と手を振って、お菓子の棚の向こうに去って行った。えー。どうせやったらカシワも持ってきてー。
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