大人は我慢している

 どの本だったか忘れたけれども、みうらじゅんが、電車のシートに腰掛けるとき、自分はつい「よっこいしょういち」(横井庄一)と言いそうになるのだけど我慢する。大人だから。という趣旨のイラストを描いていた。

 昭和の終盤に生まれたわたしでもギリのギリで分かるくらいの駄洒落だったから、今の大学生とかに言ってもよほど博識な子でない限りまず何のことか意味不明だと思うが、このように「ついうっかり言いたくなるけどぐっとこらえるスカタンなひとこと」というのは誰の心の中にもあるのではないかとわたしは推察するものである。少なくともわたしの中には「おつかれポアンカレ」というのと「いただき増田明美」(類として「いってき増田明美」「よろしくお願いし増田明美」などもある)というのががその双璧としてあり、もう絶対に絶対に絶対に言わない、小学生ではないのだからと何度誓っても一年にいっぺんくらい、ずるずるに気の緩んでいるときに、禁を破ってしまうのだった。

 かたやわたしの友人のTは、ちゃんとしたおうちの立派な奥さんになっているにもかかわらず、いまだに「おはヨーグルト!」から始まる絵文字まみれのハイテンションなメールを臆面もなくくれたりする。だが、それはもうTのあるべき姿として親しい人々の間では仕方がないというか、Tが愛される理由そのものとなっているわけだし、逆にTが今さら茶魔語ひとつない真面目メールを送ってこようものなら、その方が悪いものでも食ったんじゃないかと心配である。そう、ひとには言っていいことといけないこと、言うべきことと黙っておくべきことがある。そのキャラクターによって。


 先日、パート先の駐車場にデカいトラックが頭から半身入って来ると、すぐに車体を切り返し始めた。バックライトが点き、ブザーが鳴りだす。

 ぴぴー、ぴぴー、ぴぴー

「ガッツ石松」(「バックします」)


 折からラグビーの録画を消化するのに連日夜更かしを重ねていたわたしは言ってしまったのである。馳も舌に及ばず、覆水盆に返らず。不覚であった。二十一世紀のこの日本で、いまだにそんなことを言っているのは自分だけだという確信、困惑、悔悟、羞恥、自暴自棄の土石流がわたしの脳を駆け巡った。

 それはすぐ隣にいた仕事場のチーフ、わたしよりもひと回りと少し年長の久恵さんの耳にもばっちり届いた。自分の「ガッツ石松」発言から0.02秒のうちに、わたしはあらゆる恥辱――罵詈罵倒、侮蔑に満ちた一瞥、最悪の場合は無視、ひょっとして減給――に備えて身構えた。

 ところがあにはからんや、久恵さんはお腹を抱えて笑いだしたのだった。久恵さんの哄笑はしばらく止むところをしらず、しまいにはその場に座り込み、あー、あー、あー、とようやく立ち上がったころには目尻に涙が溜まっていた。


 はあ、びっくりした。おもろかった。おも、おもろかったですか?! おもろかったよー、そんなこと言うかあ。いや、めっさ恥ずかしかったですよ、しまった、言うてもた、社会人として終わりや思て。そうなん? 何あれホンマ笑う。何って、言いませんでしたか? 子供のとき。なんか、嘉門達夫か誰かのネタやって。いっやー、言わへんかったなあ。今聞くまで思ったこともなかった、似てるとか。 


 久恵さんは涙を拭き拭き、白い作業帽を被り直した。「わたしの車のワイパーは、“もうええ、もうええ”て言うで」

 久恵さんは両腕を左右に振りながら、自分の自動車のワイパーがフロントガラスを撫でるときに立てるむぉ~~ええ、むぉ~~ええ、という機械的関西弁摩擦音を自らの咽頭一つで江戸川猫八ばりに絶妙に克明に再現し、こんどはわたしがその場にくずおれた。


 大人は、多くの言辞を押し籠めている。

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