凡愚の一人
和泉慎平。三四歳。ただの社畜。
今日も今日とて朝から課長に怒鳴られた。
八月二日。
今朝見たテレビを思い出してみると、巨乳のお天気キャスターが、日本列島に台風一三号が近づいているとかなんとか言っていたような気がする。
なるほど、確かに、うんざりするほどに蒸し暑く、不安を感じてしまうほどに風が強い。
まあ……台風接近中だからといって、俺の日常が変わるわけじゃないけどさ。
いつも通り死んだような顔で出勤し、いつも通り朝の会議で上司に叱責され、いつも通り女性職員から哀れみを向けられ、いつも通り渉外先の会社で愛想笑いを浮かべるだけだ。
地方都市の信用金庫勤め。
そう言ってしまえばある程度聞こえもいいが、やっていることは飛び込み営業の布団セールスマンとそう大差はない。売り物が金融商品か布団かという違いだけだ。
時には、なじみのお人好し社長に頭を下げて、小遣い程度の融資利息を稼ぐことだってある。
プロパー融資。新規取引先数。住宅ローン。投資信託。保険商品。クレジットカード。定期預金。積立預金。えとせとらえとせとら。
重たいノルマに追われ、日々疲弊していく一兵卒の一人。
代わりなどいくらでもいる一山いくらの人材。
それが、和泉慎平という男だ。どうにも救いようがない。
――にしても今朝の課長は凄まじかった。
「三島工業への融資はどうなってんだ! 社長はうちから借りるって言ったのか!? 話をまとめんのにどんだけ時間をかけるつもりだよ!?」なんて話題から、「すみません。善処します」しか言えない俺を、会議室――通称・叱責部屋――に一時間以上閉じこめたのだ。
主に営業成績について散々罵倒された後、重たい渉外カバンを持って街に出た。
地方都市といえども県庁所在地のビジネス街となればそれなりに背の高いビルばかりだ。
広い歩道をビジネスウェアの男女が絶え間なく行き交っている。
大半が涼しげなクールビズだが、中には、この暑さの中でしっかりとスーツを着込んだバカ真面目たちもそれなりに存在していた。
そして、俺も、そんなバカ真面目の一人。
さすがにネクタイは外しているが、黒スーツが夏の湿気を吸い込んで冗談みたいに重たかった。
一〇時を回り、ずいぶんと派手に照りつけている真夏の太陽。
空が青い。雲が白い。
世の学生たちは、今頃、夏休みを謳歌しているのだろうか。
頭痛がしていた。身体にも、どうにも力が入らない。
ここ何年間かはずっとこんな感じだ。心身ともに霧がかかったかのような不調が続いていた。
それでも、仕事はこなさなければならない。今期のノルマ達成のために全力を尽くさなければならなかった。
要領が悪いとは思っている。だが、働いて働いて、働いて生きていくしかないのだ。
「……行くかぁ」
そう呟いてから、やっとの思いでアポイントメントを取った大口取引先に向けて人混みの中を歩き出した。
とはいえ、あの神経質な経理部長のことを考えると、胃がシクシク痛むのだったが。間違いなく、こちらが提示する追加融資の金利にケチを付けてくるはずだ。
最後に残った仕事への責任感という奴が、疲れ切った俺をギリギリのところで動かしていた。
――――そして――――
『――忘れないで。あなたの熱意が、未来を救う』
ふと耳に届いた美声に力なく振り返る。
六車線の道路を隔てた先のオーロラビジョンに、驚くほど美しい少女が映し出されていた。
墨を流したかのような黒い長髪に、ピジョンブラッドのごとき赤い瞳。
桃色の唇は、ありとあらゆる男の煩悩を刺激するかのごとく、官能的にふくらんでいる。
「…………」
ぼんやりとした頭でも、その美貌が奇跡の賜物であることぐらいは、はっきりとわかった。まるで清涼剤のように、ストレスに火照った思考をハッとさせられた。
凜とした顔立ちに絶妙に残った、アジア人特有の幼さ。
多分、彼女は、全世界どこに行ったとしても、深く深く愛される。その気になれば、アラブの石油王に求婚されたり、ハリウッドスターの恋人になるなんてことは、造作もないはずだ。
なにせ、日本中の男どもから財産を吸い上げる世紀のスーパーアイドルだもの。
妙高院静佳。
一七歳。アイドル事務所“サウスクイーン”所属。
歌って踊れるだけじゃない、大河ドラマのサブヒロインだって務める演技派アイドル。
『救いたいと、守りたいと願うなら、強い意志だけあればいい。あなたが動き出すだけで、世界は少し変わるのだから――』
大型の街頭ビジョンの中で繰り返し流されていたのは、自衛官募集のコマーシャルだった。今年のコマーシャルには、迷彩服姿の妙高院静佳が主演すると話題になっていたのだ。
実際、このコマーシャルが流れ始めてからというもの、防衛省の予想を超える勢いで入隊志願者が増えているらしい。
「……………………」
俺はその場に立ちつくし、しばらくの間街頭ビジョンの映像に見入っていた。
妙高院静佳の美貌に見惚れていたというわけでない。
栄光に満ちあふれたトップアイドルが未来ある若者たちを導こうとしている。
そして、その若者の中に俺は含まれていないという事実――そのことに呆然としていただけだ。
画面の下方に小さく掲載されていた年齢制限。
《応募資格……一八歳以上、二七歳未満》
何一つ特殊技能を持たない三十路越えのサラリーマンに用などないというだろう。当然だ。
『――あなたの決意を待っています。どうか、世界の守り手たらんことを――』
安っぽい腕時計に目を落としてから、慌てて歩き出した。
ふと隣を見れば、くたびれたスーツにくるまった冴えない男がガラスに映っている。
その姿には希望や可能性はなく、果たして子供の頃の俺は、こんな大人に成長してしまうことを想像していただろうか。
こんな――焦燥の日々に追い立てられる無益の人生を――
笑いも出ない。少し、泣けた。
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