光あれ

 追いつめられている。


 かなり追いつめられている。


 正直、絶体絶命だ。

 手札は尽きそうだし、守りのカードも来てくれない。


 妙高院静佳が杖を振り上げる。俺は反射的に「ひぃっ」と短い悲鳴を上げた。


 天空から長さ二メートルぐらいの光の槍が山ほど降ってきたので、「しっ、死ぬ! マジで死ぬって!」頭を抱えて適当に走り回った。

 凄い。運良く一つも当たらなかった。


 だがしかし、「おぶっ!?」ホッとした俺の脇腹を貫いた衝撃。

 妙高院静佳が続いて召喚した水球の一つに打たれたのである。


「げほっ――えほっ――」


 ライフポイントは減らなかったが、咳と共に血を吐き出した。吐血なんて初体験だったからギョッとした。大丈夫なのか、これ? 内臓が逝ったのか?


 水球は彼女を囲むように宙に浮かんでおり、とても即座に数えきれる数ではなかった。一発では死ななくても、あんな量をぶつけられれば全身打撲でお陀仏だ。


 “光亡の剣 冴月晶”があれば……と思った。

 グッと下唇を噛む。諦めろ、もう彼女はフィールドにいないのだ。妙高院静佳に倒され、一枚のモンスターカードとして捨て山に眠っているのだ。


 俺は苦しまぎれに“蠅の悪魔騎士ザザン”を召喚。


 続いて『箱』から排出されたカードをドローして、さっそくそれを地面に叩き付けた。

 発動は成功。マジックカード“不意の火花”だ。

 俺が悪魔騎士の影に身を隠した瞬間に大爆発が到来。妙高院静佳を中心にして炎が膨張し、空気が弾け、とてつもない衝撃が広がった。

 高層ビルを三棟まとめて消滅させるような超大爆発を、悪魔騎士の張ってくれたバリアで生き延びる。


 確信があった。

 この程度のマジックカード……妙高院静佳なら間違いなく乗り切るだろうと。


 飛んできた水球を悪魔騎士の大剣が両断する。ほら来た。やっぱり生きてた。


 ……たなびく煙の中に現れる人影……。


 ギョッとした。無傷の妙高院静佳の周囲に浮かぶ水球が、その数を明らかに増やしていたからだ。あれが全部こっちに飛んでくるかと思うとゾッとした。


「やってくれるじゃん。ちょっとだけ、ビックリした」

 絶世の美少女が、悪い顔で笑う。


 水魔法を応用した高速移動で一気に距離を詰められた。水で形作られたサーフボードが岩肌を滑りながら、大量の水飛沫を撒き散らす。

 まるで鮫だ。俺と悪魔騎士の周りをグルグル回りながら、赤銅色の杖を振るってきた。背中に引き連れた大量の水球を飛ばしてきた。


 黒い鎧で弾けた飛沫を顔に受けながらカードをドロー。

 手元に来たのは“二冊の魔導書”だった。ドローマジックを引けたことにガッツポーズしそうになる。


 マジックカード“二冊の魔導書”を発動――成功。『箱』が時間を無視して二枚のカードを吐き出した。


 こめかみを水球がかすめる。“蠅の悪魔騎士ザザン”がさばききれなかった奴だ。

 グラッと来た。脳みそが揺れて、思わず片膝をついた。


 痛い。疲れた。気持ち悪い。なんで俺がこんなことに!? そう叫びたかった。

 それでも俺はカードを使う。“収穫と犠牲”――失敗。


 うなだれてひたいに手を当てた。頭痛が酷くて目を開けていられない。

 納得できなかった。ソロモン騎士は自由自在に魔法を使ってくるのに、なんで俺だけカードゲーム、こんな妙ちきりんな能力なんだよ、と。


 ……こんなことになるなら、カードゲームなんてさっさとやめりゃあよかった。


 やめるタイミングは何度もあったのだ。何度もやめようと思って、それでも続けてきてしまったのだ。

 オタクを卒業して大学デビューしたら、もっと友人も多かっただろう。ゼミで仲良くなった女の子、カードなんかに金を使わず、デートに誘ったら恋仲になれたかもな。ワイズマンズクラフトの全国大会出場を諦めて真面目に就職活動していれば、今の職場より条件のいい会社に採用されたかもしれない。社会人一年目、自己啓発に励んで立派な営業マンになっていれば、上司や会社からの評価も今よりはマシだろうか。同期の結婚ラッシュが始まった時、俺も婚活とかしていれば、今ごろは父親だったりするのかな。

 こんな歳までカードゲームをやっていなければ、きっと、魔王にも目を付けられなかっただろうに――普通に生きれただろうに。


 頭が痛い。様々な思いが去来して、次々と消えていった。


 カードを一枚ドローする。


 ――もう遅い。もう手遅れだ。

 ――今の境遇をどれだけ嘆こうとも、俺は、今、これで戦うしかないのだ。


「ふはっ! もう動けません!? もう終わりですか!?」


 妙高院静佳……こんなバケモノ女と真正面から戦うしかないのだ。


 死んだ。


 思いがけず顔面に水球が直撃して、俺は死んでしまった。首の骨が折れる音を聞いた。ライフポイントが一つ減った。

 残りライフはたったの一つ。次死ねば本当のゲームオーバー。


 最後のチャンスが始まったのだ。


 死ぬ直前に引いたカードを確認し、俺は“蠅の悪魔騎士ザザン”の巨体を手がかりに立ち上がる。カードは二枚目の“収穫と犠牲”だった。


 どうか、どうか――と祈りながら“収穫と犠牲”を使用したら、今度こそ成功してくれた。

 優秀なドローマジックだ。デッキからカード三枚をドローして、その後、手札二枚を捨てた。


 ――切り札のモンスターカードが来た――


 大量の捨て山枚数を求める召喚条件はまだクリアできていないけれど、手札に来てくれないよりはずっといい。


「…………あとは…………耐えるか……」

 小さく呟き、俺は歯を食い縛った。


 手札は三枚。一枚は切り札で、残りは“イナゴ頭の悪魔”とマジックカード“氾濫する焔”。

 次のドローまではあと二〇秒ちょっとある。


「早く次の手を見せてくださいよ! ほらっ、和泉さん! 死んじゃうんですよ!? ほらぁっ!!」


 悪魔騎士はもうもちそうにない。頭をペシャンコにされても動いているのはさすがの生命力だが、明らかに動きがおかしかった。

「ありがとう、助かった」

 それで俺はその場を駆け出したのだが、「――どわっ!?」すぐさまずっ転ける。


 妙高院静佳の水球に足下を払われたのだ。

「こんな美少女様から逃げるなんて、とんだ草食――やっぱり童貞ですねぇっ!!」


 四つん這いのまま顔を上げると、上空で水球の群れが急転回したのが見えた。真っ直ぐに上昇してから、俺めがけて一気に降下するつもりだ。


 やべぇ死ぬ――そう思った刹那、影に覆われた。

 鈍い音が鳴り響く。悪魔騎士の巨体が、俺に覆い被さっていた。


 ――モンスターが生きている限りは、戦闘能力の範囲内で、自動的に守ってもらえる――


 弾けた水球だか、“蠅の悪魔騎士ザザン”の体液だかでびしょ濡れになりながら、俺は目頭に熱を感じていた。頑なにデモンズクラフトのルールを守る悪魔に敬意さえ覚えた。


「……くそ……っ」


 雫を滴らせながら『箱』へと手を伸ばす。ドローだ。引き抜いたカードは待望の“生き残りの障壁”だった。無敵の防御用マジックカード。


 だが俺は、今さら手に入ったこのカードに強い期待は抱かなかった。

 使ってみる――ほら失敗した

 ままならないんだ、本当に。カードゲームって奴は、本当に上手くいかないんだ。


「……うう……ううぅ……」

 まぶたを固く閉じて、〝蠅の悪魔騎士ザザン〟が水球の雨あられに耐えてくれるのを祈った。


「……くそ、がぁ……っ」

 こんなに追い詰められてもなお、俺は、まだ諦めていない。

 悪魔騎士の巨体の下で縮こまっていながら、まだ歯を食い縛っていた。


 ――カードゲームは人生に似ている。運が大半のクソゲーだ――

 そんなことを言っていたのは誰だったろう……大学時代の友人かもしれない。今ごろは東京で働いているはずの。

 閃きや経験、知恵の入る隙間なんてたいしてない。俺たちカードゲーマーは、手足も伸ばせない独房に突っ込まれた囚人と同じだ。どんなに懸命につくったデッキでもできることは限られているし、どんな対戦相手にも有利なデッキは存在しない。ままならないんだ、本当に。

 ままならないから……だから俺はここまでカードゲームを続けてきた。

 これが将棋やチェスみたく最初からすべての可能性が開かれていたら、俺は自分の実力に絶望してとっくにやめていただろう。

 運任せの不完全なゲームだからこそ、いつか来る勝利を信じることができた。


 サレンダー……敗北宣言はしない。手札を見る。次のドローを待つ。考え続ける。


「ははっ……すげぇな、俺……」

 思わず笑ってしまった。俺は驚いていたのだ。こんなギリギリの状況で、いつ訪れるかもしれない逆転の機会を待ち続けられるほど、俺は楽天的だったのか――と。


 妙高院静佳の笑い声が聞こえた。

「手詰まりなら言ってくださいねぇ。あたしも暇じゃないんでぇ」


 社会に出て、苦しいことしかなくて、人生と精神を犠牲にしながら仕事して、魔王にはからかわれて、女の子たちにも命を狙われて――それでもまだ、俺はどうにかなると思っている。

 死ななければ、諦めなければ、と。


 ――カードゲームは人生とよく似ている。

 ――まだ詰んでいない。俺には、まだ次のドローがある。


 とうとう“蠅の悪魔騎士ザザン”がやられた。黒い霧と化して霧散してしまった。俺の頬をかすめた水球が地面で弾けた。鼻に水が入った。


 俺は即座に“イナゴ頭の悪魔”のカードを切る。不気味なイナゴ頭も俺に被さってくれた。俺をかばうために命を捧げてくれた。


 覚悟を決めてもう一枚。マジックカード〝氾濫する焔〟――成功。

 対象は妙高院静佳ではない。ただの業火では、あのバケモノ女は倒せない。

 炎は俺に飛んでくる水球を薙ぎ払うために使った。


 対象を水球の一群に定めた途端、濃密な炎が蛇のごとく飛び回る。俺とイナゴ頭を熱気に巻き込みながら、轟々と燃え盛る。

 イナゴ頭の影に隠れていなければ全身大火傷だ。熱気を吸い込まないように必死で息を止めていた。


 やがて水球を喰らい尽くして炎が消える。

 イナゴ頭の硬い表皮がブスブスと音を立てていた。髪が焦げたぐらいで俺は無事だった。


 おそるおそる上半身を起こす。


 あれだけの炎が暴れ回った後だというのに、地面には幾つもの水溜まりがあった。水球の弾けた跡と〝蠅の悪魔騎士ザザン〟の体液の跡だ。


「自殺かと思いました。結構、度胸あるんですねぇ」

 妙高院静佳の声。白のハイレグレオタードがいつの間にか俺の前に立っており、指差しただけで〝イナゴ頭の悪魔〟の頭部を吹き飛ばした。


 俺は慌ててカードをドロー。一瞥でモンスターカードと判断し即座に召喚する。


「無駄」


 出てきた黒い筋肉ダルマは、次の瞬間、空中に現れた光の双剣に八つ裂きにされてしまった。


 ほとばしった血潮に俺が愕然とする中、光の双剣が俺の両手に落ちる。

「――っ!?」

 息が止まった。妙高院静佳の魔法が、俺の両手を突き刺したまま地面に突き立ったのだ。

 たった一枚手元に残っていた切り札が、裏向きに水溜まりに落ちた。


「まあ、この辺りが限界かしらね……もういいですよ。大体わかったので」


 俺は両手を地面に付けたまま、呆然と妙高院静佳を見上げる。冷たい顔で見下ろしてくる彼女を、俺はどんな顔で見上げているのだろう。俺の目にはまだ火が灯っているか。


「最後に何か言いたいことあります?」

「…………疲れました……」

「でしょうね。このあたし相手によくがんばりました。最期までよく戦ったと思います」

「……ここで、終わりなんでしょうか……?」

「だって和泉さん、もう手がないじゃないですか。あのでっかい悪魔と晶、それと幾つかの魔法は脅威でしたけど、それ以外はあんまりって感じ……魔王もあなたに強い力を渡したわけじゃなかったみたいだし。結局、古代悪魔ぐらいの危険度でしたね」


 手の甲から血が溢れている。掌から血が流れている。

 出血量は多くないが、俺の両手から剣が伸びる驚愕の光景に気が遠くなる気分だった。心が冷える気がした。


 震える声で少女に懇願した。

「死にたくないです」


 妙高院静佳は大きなまばたきを一つしてから、まるで諭すように言った。

「人はいつか死にます。あたしだって死にます」


 地面に貼り付けられた俺の頬を撫でながら――我慢できなかったのだろう。くすりと笑った。

「それに和泉さんの人生なんて、辛いことばかりだったでしょ? きっとこれからもそうよ。早めに楽になれると思えばいいじゃん」


 それで俺は――ありがたい――と思う。


 妙高院静佳が鼻で笑ってくれたおかげで、萎えかけた心に再び火が付いた。

 怒りだ。強烈な怒り。

 クソガキが俺の生き様を勝手に語るな――と、最後に残った意地が脳を沸騰させる。リミッター無しで肉体を駆動させる。


「――!!」

 右手を思い切り引いた。全力で、痛みなど少しも構わずに。

 ビリリッと身も凍る音がした。地面に突き立った光剣に肉を裂かれ、皮膚が千切れた音だ。

 中指と薬指の間を両断して――光剣が抜けた。右手を潰してドローする自由を得た。


「ガぁ――ッ!!」


 鮮血を振りまきながら『箱』からカードを掴む。

 中身も見ずに発動した。


 ……………………。


 何も起きない。本当に何も起きなかった。俺が今引いたカードはマジックカードで、発動に失敗したのだ。ダイスの目は俺の怒りに味方してくれなかった。


 突如として――強烈な衝撃。


 顔面に回し蹴りを喰らったらしい。目から火花が飛んで、首が跳ね上がり、意識が千切れそうになる。上半身が崩れ落ちて、顔から地面の水溜まりに突っ込んだ。


「ははっ。無駄なあがきをするじゃないですか。死に損ないのくせに」


 妙高院静佳が笑う。だが俺には、その笑い声がただの強がりにしか聞こえなかった。ビビったなと思った。最強のソロモン騎士が、ただのカードゲーマーに。


「さようなら和泉慎平。塵に返る時間です」

「――――」

「ん? 何か言いました?」

「……トラッシュ――」

「とら?」

「……今ので、トラッシュに三五枚だ……」


 顔面を水溜まりに浸けながらも、俺は笑っていた。


 視界はこれでもかと歪み、右手は激痛で使い物にならず、左手も光剣が刺さったまま。

 それでも俺は、水溜まりの泥水をすすりながら、心底から笑っていた。


 ――成った、と。

 ――ようやく成就した、と。


 俺の口にはカードが一枚。さっき水溜まりに落とした『切り札』を噛み締めていた。


「なっ――っ!?」

 妙高院静佳が息を呑んだ音。


 俺は構わず天空へと首を伸ばした。

 最後の一滴まで全身全霊を振りしぼって叫んだ。


「べるぜぶぅぅううううううううううううううううううううううううううう――――!!」


 口にくわえたカードが空へと吸い込まれ――それが奇跡が始まった合図。


 まず光があった。光り輝く青空に、それ以上に眩しい白い光が現れる。


 それが『聖域』の空に入った亀裂だとわかるのにたいして時間はかからなかった。白光はまるで蜘蛛の巣のように大空すべてを覆い尽くし、やがて中心から一気に天球を粉砕した。


 青色が崩れ落ち、その向こうに夕焼けが戻ってくる。


 それは――まぎれもなく、俺が妙高院静佳と戦う前に見上げていた夕空。

 泣きたくなるほどに懐かしい空だった。

 あかね色に色付いたちぎれ雲が穏やかに流れ、その向こうでは藤色の虚空が静かにたたずみ、幾千もの天使が翼を広げる。


 優しい空に、天の遣い。


 俺の知る現実には天使なんかいなかったはずだが、不思議と違和感はなかった。こういう空があってもいいなと思う。俺は落ち着いていた。


 しかし、俺と同じく空を見上げた妙高院静佳は、なぜだか表情を失っている。唖然としているように見えた。

 こんな綺麗な空だというのに……彼女の目にはどのように映っているのだろう。


 音はない。すべてが無音だ。


 天使たちがうやうやしく両手を掲げる。彼らの敬意の先にいたのは、金色の巨人だった。


 俺は初め、それを『顔を塗りつぶされた肖像画』かと見間違う。

 何の変哲もない人型のシルエットだ。頭も、腕も、脚もあった。


 しかし巨人の身体を形作っているのは生物としての肉ではなく、冷たく硬い無機物でもなく、『色彩の奔流』だった。

 異形ではなく異質。ムンクの叫びを思わせる力強い色遣い。

 油絵の具を乱暴に塗りたくっていくかのように色が流れ――現れては消える原色の大群を、俺の目が『金色』と誤認しているのだろう。


 そんな巨人が纏うのはたっぷりとした腰巻き一枚だけだ。たくましくもどこかエロティックな身体が大きく腕を広げていた。


 奇妙ではあるが、実に美しいと思った。世界の最後に現れる神のようだと思った。


 天使たちに祝福された魔王の出陣…………それは神話の出来事のようで、金色の巨人が大地に降り立つまで俺も妙高院静佳も身じろぎ一つできなかった。


「こんにちは、おにーさん。間に合わないかと思ったけど、さすがだったね」


 “冥府喰らいのネビュロス”を遙かに超える体躯の巨人が、俺に話しかけてくる。巨人の声は大気を震わせ、天空まで朗々と響いたが、不思議とうるさいとは思わなかった。


「本当にがんばった。ほめてあげよう」


 その言葉で地面から金色の触手が大量に湧き出して、俺を撫で回した。花の香りがした。


 触手の正体はわからない。魔王の身体の一部かもしれないし、別の何かかもしれない。ただ、嫌な感触ではなかった。少しだけ冷たい、人間の指先のような……。


 俺はぱっくり割れた右手を腹に抱えながら、鴻大たる巨人を見上げた。


「……やっぱり……あのカードは、魔王様だったんだな……」

「正直ドキドキだったよ。僕の出番がないまま、おしまいかと思ってさ」

「……これが、本当の姿か……?」

「さあ、どうだろうね。ご想像にお任せするよ」


 俺を撫でていた触手の一本が、俺の左手に突き立っていた光剣に触れる。すると光剣は光の粒子に分解されていった。


 俺は、解放された左手で血まみれの右手を押さえ……いつの間にか俺の前からいなくなっていた妙高院静佳を探す。

 少し離れた位置に彼女を見つけた。そして、幾重にも響き渡る呪文を聞いた。


「死神の否定 狂気の鋼 石の獣を打ち破り かつての軍勢はエルヴィオンに眠る 終わりなき炎を胸に 雄叫び消えず 世界天秤はその意味をなさぬだろう 猛きオーリリス やがて絶崖なる虚空を越え 終焉の始まりを駆け出した」


 馬鹿なと思った。

 妙高院静佳は戦う気だ。魔法だけを頼りに、こんな神様みたいな存在と。


 掲げた赤銅色の杖に光が灯る。呪文が進むにつれて光はその輝きを増していき、やがて太陽のごとくと化す――しかし、ある瞬間、魔力の光輝はフッと消えてしまった。


 それは多分、俺が、痛みの少ない左手を持ち上げたせいだろう。


 妙高院静佳の顔に絶望が走る。それでも彼女は止まらない。深い前傾姿勢で走り出した。


「めぐりめぐった崩壊の残響 崩れ落ちる王都に紛れたるは 黙示録の一ページ」


 重厚な呪文の響きが始まり、魔王の周囲を駆け回る妙高院静佳から極太の光線が飛んでくる。


 しかし光線は一切の破壊をもたらすことができなかった。

 巨人の上半身に直撃するも、その身体は揺らぎもしない。防御しようかと思わせることすらできない、その程度の威力だったらしい。


「獣の姿はいまだ無く 遠吠えさえも聞こえない 爪跡在りしが 過ぎ去った刻よりの物よ」


 全方位から間髪なく撃ち込まれる魔法の数々。

 炎槍、雷撃、光線、氷塊、巨岩、大激流、空気弾、黒球、黄金斧、火鳥、稲光――

 あらゆる暴力的奇跡が飛来してきて、そのすべてが一切の意味を成さない。


 俺は花火でも見る気分で、巨人に当たってはむなしく消えていく魔法を眺めていた。

 わざわざ俺たちの周りを走り回ったりして、妙高院静佳も熱心だなぁ……なんて思うばかりだ。


 無論、たかだか余波が当たっただけでも俺は消し飛ぶが、そのあたりは魔王が上手くやってくれているのだろう。

 炎や氷塊が頭上から降ってきても、俺を取り囲む金色の触手が守ってくれた。

 少しも恐ろしいとは思わなかった。


「未来の背後に訪れしは 竜皇を名乗る三五億の果て そして無頼なる退廃者 戦慄迫る日々に花は枯れ 大地の序曲は流れない」


 知っている。

 妙高院静佳がこの程度の魔法で俺たちを仕留めようとしていないことは百も承知だ。


 次々と使われる魔法は、ただの陽動。

 彼女の唇から流れ続ける呪文は、広大なる荒野に広がり始めた極大魔法陣のためにあるのだろう。


「這いずるもの 古き岩肌にその身を打ち アイオークは真理の外へと辿り着かん」


 俺や魔王も、橙色の光を放つ魔法陣のまっただ中にいた。

 魔法陣は俺たちの足下から始まり、三次元的に広がりながら、複雑に紋様を重ねていく。

 あっという間に魔王の背丈を越え、浮遊大地も飲み込み、夕雲にだって届きそうだ。


「王都を求めた愚か者 黙示録への道は遠く 地平の槍衾を怖れずば やがて雷原へと至るだろう」


 手を伸ばせば魔方陣に触れることだってできる。

 しかし空中に浮かぶ橙色は熱くもなく、冷たくもなく、何の感触も、変化もなかった。

 不思議な感じがした。妙高院静佳が呪文を唱え終えたらとてつもない力を生み出すというのに、今は無害そのものだというのが、どうにも腑に落ちない。


「海原に沈みし最後の軍団 天空を目指した原初の大隊 狭間を吹き抜けたるは鉄の風」


 ふと、妙高院静佳の姿を探せば――空中を駆け回りながら俺たちに『矢』を向けているのが見えた。


 それで俺は少しだけギョッとする。

 俺と“冥府喰らいのネビュロス”を消し飛ばした奴だとすぐに気付いた。


 どこからか取り出された長大な鉄弓に赤銅色の杖がつがえられ、およそ目一杯まで引き絞られている。

 あの見目麗しい姿のどこにそんな力があるのか……金属製の弦がキリキリと泣くのが聞こえた。


「真王は黙示録を求め 最果ての火花を視る 頂上たる者共のるつぼ 届いたエリュシオンは狂気に触れた」


 とんでもない一撃が来る――そう警戒した瞬間に解き放たれた赤銅杖。

 それは、まっすぐ俺たちに襲い来る赤い流星だ。


 俺は咄嗟に身を固め。

「僕を信じなよ。大丈夫」

 しかし魔王は腕を上げることすらしなかった。


 見れば、魔王の胸元あたりの空中で、赤銅の杖が静止している。


 理解が追い付かない。いったい魔王は何をやった?

 念動力かなにかであの一撃を止めたというのだろうか。“冥府喰らいのネビュロス”ですら為す術もなかったあの一撃を……。


 俺が唾を飲んだ瞬間、いきなり赤銅杖がひしゃげた。

 いかにも硬そうな金属棒が飴細工のように折れ曲がり、ねじ曲がり、ギチギチと丸くなっていく。

 あっという間に歪な球体と成り果てて、俺の前に落っこちてきた。

 地面に激突した瞬間、かなり重そうな音がして、ゴロンゴロンと俺の足下まで転がってくる。


 あっけなく武器を奪われた妙高院静佳は、無用となった鉄弓を捨て、それでも呪文を唱うことをやめなかった。


「鎖鳴る音 ハギオンの教え 賢者が剣を取った理由 巨狼の吐息が響き 熱砂逝く人々が待ち望むは アニシエタ回旋塔――」


 俺は、魔王の念動力によってことごとく変形させられた魔法の杖から一歩離れ、改めて荒野を見回した。


「……すげぇな……」

 地平線まで埋め尽くさんとする魔法陣に思わず声が出た。


 すると、魔王が薄く笑う。

「そうだね。たかが人間風情がよくぞこの領域まで届いたものだよ。天地開闢の炎まであと一歩ってところかな」


 『天地開闢』という大仰な言葉に、「それは凄い……全然笑えねぇ」金色の巨人をゆっくり見上げた俺。


「……この魔法は、お前にも効くのか? やばいか?」

 巨人の顔が遠すぎるから声を張ってやろうと思うのだが、どうにも身体に力が入らない。ついボソボソとした声になってしまう。


 一方。

「僕らは問題ないね。ただし、おにーさんの世界にはあまりよろしくない。僕が召喚された時点で『聖域』とやらは死んでるも同然だし。炎が飛び散れば、そりゃあ届くでしょ」

 俺の声を余さず拾ってくれる魔王は、一言一言が天空まで届くのだった。


 俺と魔王の会話――魔王の声だけが妙高院静佳に聞こえているはずだ。


「…………現実世界が、燃えるってことかよ……」

「なに、おにーさんの国の人間が半分になるぐらいさ」

「そうか……それは通しちゃあ駄目な奴だな」

「消す?」

「……ああ、お前の能力を使うよ」


 能力を使う――俺がそう宣言した瞬間、魔王の巨体が動いた。

 

 どんな魔法にも不動を貫き通した金色が、なんでもないことのように右腕を掲げたのである。もったいぶる様子もなく、開いていた指をギュッと握った。


 すると――目を疑うばかりの大異変。

 丁寧に積み上げられてきた極大魔法陣が……地平線にまで届いた大いなる橙色が、あちらこちらで崩れ始めたのだ。


 崩壊はすぐさま魔法陣の成長速度を超え、奇跡の御業を台無しにしていく。


 粉雪のように舞い落ちては、やがて跡形もなく消えていく魔法陣の欠片。

 俺はそれを心の底から美しいと思った。


「……少しだけ、申し訳ない気がするな……」

「魔法を消したこと? 希望を潰される時ってのは大体こんなものさ」

「……つっても諦めないんだろうな」

「ソロモン騎士だからね。死ぬまではやるでしょ。そこは晶も同じだったよ」


 橙色の大崩壊をぼーっと眺めていた俺の視界、そこにいきなり白い影が走った。

 妙高院静佳だ。

 いよいよどうしようもなくて、俺に狙いを変えてきたと見える。俺なんか攻撃しても、もう遅いのに。


 俺の反応速度を超えて飛びかかってきた怪物美少女。その瞳はいまだ闘志に燃え――しかし俺の周りに集まっていた金色の触手が彼女のもくろみを阻むのだ。

 跳び蹴りをかましてきた足首に絡み付くと、ひどく乱暴に地面に叩き付けたのである。


「やり過ぎじゃないか? 俺、攻撃宣言してないぞ」

「大丈夫大丈夫。これぐらいノーダメージだって。ソロモン騎士だよ?」


 すると妙高院静佳が起き上がるよりも早く、触手が一本飛んだ。

 妙高院静佳の首筋にそのまま巻き付くと、俺の前まで力任せに引きずってくる。


「おにーさん。この女に僕のカード効果を教えてやってよ」


 両膝を付いて満身創痍の俺。

 そんな男の前で「ぐっ、ぅ……」人形のように転がった妙高院静佳。


「……“瓦解の果て ベルゼブブ”。攻撃力三〇、防御力三〇。種族、到達者」

 右手が痛くてしょうがない俺は、いい気味だと苦笑してから。


「捨て山に三五枚以上のカードがなければ召喚できない。この召喚条件は無視できず、この召喚を妨げる効果はすべて無効化される」

 彼女のこれからについて少し考え。


「……能力名、森羅万象の行き着く先。捨て山のカードを一枚ゲームから除外することで、効果一つを無効化する」

 この子も冴月晶みたいにひどいことされるんだろうかと哀れに思った。


「つまりソロモン騎士がどれだけ強力な魔法を使おうと、一切合切、僕には通用しないんだよ。僕の召喚を許した時点で、おにーさんの勝ちってわけさ。わかるだろう?」


 不意に、巨大な影が落ちてきたので視線を上げる。巨人が握った拳を俺に突き付けていた。


「さあ、おにーさん。攻撃宣言だ。こいつを倒して、日常に戻るとしよう」


 俺はいよいよ終局が来たかと唾を呑み込んで……意を決して、こう切り出した。

「待ってくれ。その前に一つ、消してもらいたい効果があるんだ」


「へ? 別にいいけど、今発動してる効果って何かあったっけ?」

「……お前が現在進行形で冴月さんにかけてる呪いだよ。あの人を元に戻して欲しい」

「………………えー」

「えーじゃない。こんなガバガバなチート能力なんだ。できるんだろう? 頼むよ」

「ん~~~…………」

「俺は、お前が冴月さんにかけた呪いを常時発動型の効果だと解釈してる。だったら“瓦解の果て ベルゼブブ”で無効化できない道理はないだろう? なにせお前は、対象の指定も制限もなく、『効果一つを無効化する』んだから。凄まじいよ。すべてを無かったことにする、魔王にふさわしい能力じゃないか」

「………………」

「やってくれよ。なんでもする。命以外であがなえるなら、なんだってするから」

「………………」

「……頼むよ……」

「…………しょうがないなぁ……僕もおにーさんには甘いよねぇ。別に何もいらないよ」


 無茶な要求がすんなり通ったことは驚きだった。もっと色々言われるかと覚悟していたのだ。命を差し出せとか。最低でも腕の一本は取られるものかと……。


「……僕が晶に施した改造が、常時発動型の効果、ねぇ。テキスト解釈はカードゲームの宿命だけど……仕方がない。今回は僕の能力設定が迂闊だったってことにしてあげよう」


 心底ホッとした。もう言葉が出ない。俺は顔を左手で覆い、深く長いため息を吐いた。

 その状態でしばらくフリーズして脳みそを休める。


 顔を上げたら、二人の男の子が目の前に立っていたので、本気で驚いた。


「お初にお目にかかる」


 反射的に飛び退く余裕もなく、俺はビクリと身体を縮こめただけ。


 銀色の双子だった。おそろしく瓜二つだ。短い銀髪も、不気味な銀色の瞳も、真っ白すぎて透ける肌も。まるで恋人みたくピッタリくっついて手を繋いでいる。


 俺が何かを言う前に、双子がハモりながら名乗った。

「シルバージャックス。ソロモン騎士団の使者だ」


 疲れ切った俺は、「ああ。そうですか。初めまして」という塩対応しかできない。

 次はなんだよ、もういっぱいいっぱいだぞ――そう思うばかりだった。警戒する気力すら残っていない。


 とはいえ、双子がこれから切り出す話には、疲れを忘れてキョトンとするのだけれど。


「我々の負けだ。妙高院静佳を助けてはもらえないだろうか。話し合いがしたい」


「…………………へ……?」


「負けを認めると言った。わかるだろう? 降伏交渉というものだよ」


 すると地べたから「まだ終わってないわよ!! 双子はさっさと帰りなさい!」と妙高院静佳の怒号が飛ぶ。

 見れば、絶世の美貌が頬を地面に擦り付けながら牙を剥いていた。


 眉をひそめた俺。


 双子がまったく同時にきびすを返し、「…………」無言で彼女に近づいていく。

 何の前触れも警告もなく、いきなり彼女の腹を蹴り上げた。これまた二人同時だ。


「う゛」


 何ともいえないくぐもった声が漏れ、妙高院静佳の身体が高く浮き上がる。

 あっ――と思った。

 彼女の首には金色の触手が巻き付いたままだ。蹴り飛ばされれば自然と首を締められる形になる。


 俺は、大丈夫かな、と地面に転がった妙高院静佳をうかがうが……多分あれは人間の女の子なんかじゃないのだろう。ライオンとか虎とか、なんかそういう猛獣の類だ。

 もう動いている。魔王の触手を外そうと力一杯もがいている。


「いいか和泉慎平!! 一歩も動くなよ!! お前は、お前と魔王はっ、あたしがここで殺してやる!」

 敗北を認めずに叫ぶ妙高院静佳。


 一方。

「いいや、終わりだよ、“聖痕の獣”。我々は負けたんだ。今日、この時はな」

 銀色の双子の声には何の感情も込められていなかった。


 ギャーギャーわめく妙高院静佳を無視して俺の方に向き直ると、まったく無表情のまま、いきなり片膝を付いた。座り込んだ俺と目線を合わせたのかもしれない。


「ご覧の通りだ。いくら妙高院静佳が強情だろうと、彼女を失うわけにはいかない。どうか君から魔王に攻撃しないよう伝えてはもらえないだろうか。それ以外のことは後ほど整理しよう。まずは、君の手当てをしなければな」


「………………………………はあ、そうですか……」


 何が起きたのかいまいち理解できず、俺は金色の巨人を見上げた。

 夕日を浴びる彼は美しく、遙か高みから俺たち人間のやり取りを見ていた。


「……これで終わりか……? ……もう、いいのか……?」


「もういいよ。ギブアップするってさ」


「……………………そうか……そりゃあ、よかった……」


 ひざまずきたくなるほどに神々しい魔王の姿。

 しかし俺は、その巨体を忌々しいとさえ思うのだった。

 命のやり取りに巻き込むのはこれっきりにしてくれ。その代わり、ただのカードゲームなら、いつだって相手してやるから――と。


「…………本当……よかった……」


 これにて、さえない中年男の人生を賭した事件は終わり。

「……まだ……生きてる……」

 荒野に一つ、冷たい風が吹いた。

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