年越しの深淵

「それじゃあお先に。来年もよろしくお願いします」

「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」

「和泉くん。右手、お大事にね」


 一二月三一日――大晦日の朝は抜けるような青空が広がっていた。

 いつもはすし詰めになる通勤電車も今朝ばかりはゆったり座ることができて、毎朝こうだったらどれだけ楽だろうかと思ってしまう。


 あまり広くはない部屋いっぱいにシンプルな事務机が整然と並んだ、アイドル事務所サウスクイーンの庶務課執務室。


「――ふう。こんなもんかな」


 中腰になってデスク下の掃除機がけに躍起になっていた俺は、掃除の最後に庶務課長のデスクの足元を入念に綺麗にしてから、ようやく腰を伸ばす。そのまま腰を反らしたら、凝り固まった背骨がボキボキと音を立てた。


「……さすがに、まだ気だるいな……」


 銀行法の関係で一二月三一日は休みだった金融機関勤めの頃と違い、今の会社では大晦日も午前中は仕事がある。といっても、やることと言えば職場の大掃除ぐらいで、各々割り当てられた担当箇所を片付け次第、順次退社してもいいらしい。


 執務室内を見渡してみても、残っているのは俺と水無瀬りんぐらいなものだ。


 すらりと長い脚を存分に披露するパンツスーツ姿の彼女は、濡れぞうきんを手に庶務課全員の机を拭いていた。


 俺が掃除機を倉庫に納めてくると、彼女の方も掃除を終えたらしく。

「よし。こんなもんで終わりにしましょう。上等でしょ」

 腰に手を当ててそう笑った。


 そして執務室の入り口に突っ立つ俺の元にやって来て、右手のギプスに視線を落とすのだ。


「右手、大丈夫ですか?」

「ええ。重たい書類は島崎さんが運んでくれましたし、正直、机上整理と掃除機ぐらいしかやってませんから」

「昨日メールしたとおり、和泉さんは今日出てこなくても良かったんですよ?」

「それは、まあ――その分誰かが働くことになるのは申し訳ないですし。それにしても皆さん、結構慌ただしく帰っちゃうんですね」

「家族持ちが多いですからね。今から帰省しなくちゃいけない人もいるでしょうし」

「ああ、なるほど」

「わたしももう帰ります」

「水無瀬さんは帰省です? それともどこかで一杯?」

「……いじわるな人。今日は本当に一杯だけです。また和泉さんに迎えを頼んだら、晶になんて罵倒されるか知れませんから」

「こんな右手です。呼び出されても肩を貸すぐらいしかできませんけどね」

「和泉さんはどうするんですか?」

「はい?」

「年末年始のご予定です」

「ああ。今日は『紅白』を見て、あとは寝正月ですかね」

「ご実家には帰らないんです?」

「そうですね……帰っても父親しかいませんし、新年の挨拶は電話でもいいかなと」


 俺の微妙な笑い顔を見て、触れてはいけない話題だと感じ取ったのだろう。水無瀬りんが帰省話をそれ以上広げることはなく、「今夜は、晶だけじゃなくて、悠里とカナタたちも見てあげてくださいね。気合い入ってましたから」と紅白歌合戦の話題を振ってくるのだ。


 今年の紅白歌合戦には、サウスクイーンから冴月晶、悠木悠里、そして矢神カナタ、レオノール・ミリエマ、アレクサンドラ・ロフスカヤの三人娘が出演する。


「それはもちろん。年末ライブ見れなかった分、目に焼き付けます」


 曲目は、“ブレイブライン”、“ナイトダンサー”、“Aurora Steps”だ。きっと日本中のお茶の間が、彼女らの歌とダンスに酔いしれることだろう。


「……静佳とマリアも出られたら良かったんですけどね……」

「オファーを断ったっていうのは聞きました。……やはりソロモン騎士団の方で?」

「ええ。あの二人がいれば、だいたいの事態には対処できますから」

「クリスマスみたく、今日も事件が多発するんですか?」

「悪魔や怪異の顕現はそう多くありません。ただ、とち狂った悪魔崇拝者たちって年末、それも大晦日に動くのが好きみたいで……」

「ああ。年の瀬って変な人増えますもんねえ」


 その時、不意に壁掛け時計に視線を移せば、正午になろうかというところだった。

 それで俺はそろそろ帰ろうかと思う。


 しかし――――唐突に鳴り響いた携帯電話の着信音。俺のものではない。


「はい、もしもし。今岡さん? どうされました?」


 水無瀬りんのスマートフォンだ。今岡というのは、秘書室の今岡智代という役員秘書だろう。俺は直接面識はないが、彼女が担当している役員が俺たち庶務課の上役である取締役総務部長なせいか、時折名前を聞くことはあった。


「え? それどういう――――ええ……ええ…………いえ、庶務課長は今日来ていないわ。先週インフルエンザにかかったのよ。それで金曜の午後から休み」


 水無瀬りんが声のトーンを落として話すものだから、何らかの問題が起きたのが丸わかりだ。


「ちょっと詳しく教えてもらえます? 今そっち行きますから」


 そして、水無瀬りんはスマートフォンを耳に当てたまま執務室を出て行ってしまう。


 …………どうにも、深刻な問題が発生したらしいな……。

 そう思った俺は帰るに帰られず、自分のデスクで水無瀬りんの帰還を待つことになった。一度は綺麗にした机の中をもう一度整理し始める。


 それから二〇分近くの時間が経って。

「あの、和泉さん。ちょっとお話が――」

 難しい顔で執務室に戻ってきた水無瀬りん。


 可能な限り声のトーンを明るく保って、「良い知らせと悪い知らせがあるんですが、どちらから聞きたいです?」などと俺に言うのだ。


 どっちも聞きたくない――とは言えない。


 問題が発生していることを承知している俺は、一縷の望みをかけて、「……それじゃあ、良い方から……」と苦笑いを浮かべる。


「庶務課長さんが回らないお寿司おごってくれるそうです」

「……悪い方は……?」

「第四四半期の予算計画ができていません」


 驚愕のあまり吹き出しそうになった。


「いやっ、予算計画できてないって。あれの提出期限は先週の頭、月曜じゃありませんでした? 課長さんが作ってたんじゃ――」

「間に合わなくて総務部長に締め切り伸ばしてもらってたみたいです。今日の午前中まで」

「――しかし、課長は……」

「ええ。先週の金曜日にインフルエンザに罹患。和泉さんがシルバージャックスに啖呵切ってる最中に早退してますね」

「……課長さんに電話してみました……?」

「埒が明きません。本人は、土日に出てきて片付けるつもりだったと弁明してましたけど――」

「誰にも指示出してないんですよね? 自分の代わりに計画つくっておくよう……」

「ほんと、せめてわたしに言っておいてくれれば差配したのに。高熱でその判断すらできなくなっていたのかもしれませんが」

「総務部長はお怒りですか?」

「カンカンです。絶対今日中に提出しろと。まあ、気持ちはわかります。うちのミスのせいで、元旦出勤して予算計画をチェックしないといけないんですから」

「…………そうですか……」

「…………ええ…………あの、それでですね、和泉さん……」


 俺と水無瀬りんは顔を見合わせ、やがてまったく同時に深い深いため息を吐いた。

 これからどうすべきか――そんなことを考える余地などあるわけがない。


 俺は左手で頭を掻いてからパソコンの電源を入れた。


「わかりました。やりましょう。帰省中の他の人を呼び戻すわけにはいかんですし」

「わたしと和泉さんで手分けすれば、今日中にはなんとか」

「他部署からの提出資料って全部揃ってるんです?」

「共有フォルダに置いてあると。半分は整理が済んでるらしいですが」


 降って湧いた緊急案件――それからの俺と水無瀬は、休憩する暇もなく猛然と働き続けた。昼食だって、残業に備えて俺が備蓄していた『ブロックタイプのバランス栄養食』で空腹をごまかしただけだ。


「うちの課長、基本優秀ですけど、変なところルーズですよね」

「仕事にムラがあるんですよ。あ、和泉さん――広報課の予算はこっちでまとめます」


 なにより困ったのがやはり右手の骨折で、左手一つでタイプするしかないから単純な文字打ちに時間がかかってしょうがない。


 アイドル事務所サウスクイーンに入社してまだ二ヶ月。予算計画の作成は初めてだが、普段の経理事務でさんざん予算を読み込んできたせいか、それほど苦労もなく対応できた。最初の二時間だけ頭を悩ませれば、後はどう数字を積み上げればいいかがなんとなく掴めてくる。信用金庫職員だった頃につちかった事業計画精査の感覚も活きた。


「あの水無瀬さん。ここの数字ちょっと違和感あるんですが――」

「あれ? ほんとだ……どうして……」

「多分、提出された資料が数字を二重計上してあるんだと。過去の支出データ見てみましょう。その数字に合わせて直すしかないと思います」


 ぶっ通しで八時間余り。


 楽しみにしていた紅白歌合戦が午後七時過ぎに始まって、俺がそわそわし始めたのがわかったのだろう。水無瀬りんが「残りはわたし一人でやっておきますから。談話室のテレビ使ってください」と気を遣ってくれるが、そういうわけにもいかない。


「録画してるんで大丈夫です。さっさと終わらせちゃいましょう」


 そんな強がりのせいで、矢神カナタたち三人娘の“Aurora Steps”を見逃した。


 午後八時三五分――俺は水無瀬りんのデスクの後ろに立って、彼女が打ち込むメール文面を眺めている。華美な文飾はないものの、丁寧な謝罪メールがもの凄い速度で綴られていった。最後にもう一度添付ファイルを確認してから総務部長に向けて発信された。


 直後、「終わった――」と机に突っ伏す水無瀬りん。


 しかしすぐさま起き上がり、「終わりました!」俺の『右手』とハイタッチだ。


「あづ――っ!?」

「あ。ごっ、ごめんなさい! 大丈夫です!?」

「いや。私も右手のこと忘れてたんで。ちょっと響いただけですから」


 そうは言ったものの、目から火花が飛び出るぐらいの痛みだった。俺は右手のギプスを抱きかかえながら、「それじゃあ談話室行ってきます」と無理矢理笑った。


 人気のない廊下を小走りで抜けて、大型テレビの設けられた談話室に入る。昼間の休憩やちょっとしたミーティングで使われる、木製の丸テーブルと椅子が並んだ広い部屋だ。


 液晶テレビの電源を入れてチャンネルを合わせたら。

「間に合った」

 ちょうど――真紅のミニスカドレスの悠木悠里が、バックダンサーたちを従えて腰を振り、激しいステップを踏んでいる。


 悠木悠里のキラーチューン、“ナイトダンサー”。


 その瞬間、俺は凄腕のバックダンサーすらも霞む悠木悠里の舞踏に見惚れてしまい、テレビ画面に齧り付いて呼吸すら忘れた。当然、右手の鈍痛だって跡形もなく消える。


「……………………っ」


 声が出ない。曲の終わり、悠木悠里の美貌を大きく映したアップショットを見届けてから、どかりと手近な木製椅子に座り込んだ。


 悠木悠里の放つ熱にやられたらしい。彼女の消えたテレビ画面を凝視したまま、「――ふへぇ」しばらく放心してしまう。


 そして。

「電気がついているから誰かと思えば――何をしているのです?」

 背後からかけられた涼しげな声に我を取り戻した。


 振り返れば、ニットのロングワンピースの下にスキニーパンツを履いた高杉・マリア=マルギッドが不思議そうな顔で俺を見下ろしている。


「あ、いや。ちょっと紅白を」

「そうか。悠里の出演は今頃でしたね。……まさか、お仕事でこんな時間まで?」

「ええ。急ぎの案件が入ったものですから。高杉さんは?」

「待機中です。あんまりにも暇なので、少し仮眠室を使わせてもらおうかと」

「思ったより平和なんです?」

「普通ですね。静佳さんが全部片付けてくれるので私の出番がないだけです」

「ああ」

「右手の具合はいかがですか? 顔が少し青いようですが」

「そう見えます? 仕事の方で根を詰めすぎましたかね」


 と、そこで談話室の引き戸が開いた。


「あらマリア。来てたの」

 マグカップを手にした水無瀬りんが入ってくる。強いコーヒーの香りが鼻をくすぐった。


「和泉さん、さっきはごめんなさい。右手大丈夫でしたか?」

「大丈夫です、大丈夫。もう痛みはないので」


 水無瀬りんから差し出されたマグカップを受け取る。そのまま一口すすれば、濃いめのコーヒーが身体に染み渡った。


「今日はありがとうございました。和泉さんいなかったらどうなってたか――」

「いえいえ。水無瀬さんは何も悪くないですし。課長さんにはしっかり奢ってもらいましょう」

「赤坂のお寿司屋さん、予約しておきますね」


 二人して笑い合う。高杉・マリア=マルギッドは、事情がよくわからないとでも言いたげに首を傾げていた。


 一度テレビ画面に視線を振った水無瀬りんが聞いてくる。


「間に合いました?」

「ええ。ギリギリ悠木さん見れました」

「晶の出番まで少し時間が空きますけど、何か出前でも頼みますか? 年越しそばは、さすがにもう無理でしょうけど」

「そうですね。いいかげん、何か食べないと」

「マリアは何か食べたいものある? どうせまともなもの食べてないでしょう?」


 その問いかけに高杉・マリア=マルギッドが考える素振りを見せ、「オーソドックスにピザで良いんじゃないですか」と答えるのだ。


 水無瀬りんは「ピザねえ。ピザ、うーん……」なんて気乗りしない風ではあったが、別に対案があるわけではないのだろう。スマートフォンを取り出し、談話室の隅で大手宅配ピザチェーンに電話をかけるのだ。


 戻ってきた彼女に聞いてみた。

「ピザお嫌いなんですか?」

「いえ……ピザならスパークリングワインを合わせたいなと思って――」

「……職場でお酒はやめてくださいよ」

「わかってますって。ジンジャエール頼みました」


 それから俺たち三人はテレビ前の丸テーブルに着いて、ピザが届くまで紅白歌合戦を眺めることになる。演歌歌手が叙情たっぷりに悩める女心を歌い上げていた。


「高杉さんは去年、出てますよね」

「ええ」

「紅白はお弁当が出ないって聞きますけど、やっぱり本当なんですか?」

「そうですね。出演者はみんな手弁当ですよ。私の場合はチョコレートのCMに出ていたので、それを差し入れしたり、結構気を遣うんです」


 そんな他愛もない会話で時間を潰し――宅配ピザが届いてからは、俺と水無瀬りんのどちらが代金を支払うかで一悶着だ。


 俺も水無瀬りんも、自分が全額支払うのだと言って聞かない。呆れた様子の高杉・マリア=マルギッドに「私が払いましょうか? この中では一番稼いでいますし」とか言われたりもしたが、結局は俺と水無瀬りんの割り勘となった。


 丸テーブルに並んだピザは、まさかのLサイズが一人一枚。三種類を交換しながら食べ合った。


「ソロモン騎士が大食いな理由? ああ、わたしたちって普通の人と比べて基礎代謝が高いんですよ」

「引退した水無瀬さんでさえ、最重量級のウエイトリフター以上に力持ちですからね」

「ちょっとマリア。人をゴリラみたいに言わないでくれる?」

「知っていますか和泉さん。この人は現役時代、素手でヒグマ――」

「ほらぁ。お口がお留守になってるわよぉ? あなた現役の戦士なんだから、もっと食べなきゃ」


 そうこうしている内にテレビ画面に冴月晶が映り、力強く“ブレイブライン”を歌い出した。


 テレビの真正面を陣取った俺は、視神経に痛みを感じてしまうぐらいに意識を集中させる。

 星空をモチーフにした制服型ドレスを、それを纏って歌い踊る冴月晶を、心底美しいと思った。余計な演出がないために冴月晶の美しさばかりが際立っている。


 俺の背後では水無瀬りんと高杉・マリア=マルギッドがピザを食べ続けていて。

「これ、良い曲よね。晶が作詞したんでしょう?」

「ええ。最初は『騎士らしくない』と思っていたのですが……今なら少し、あの子の気持ちもわかります」

「『泥だらけ 光に向かい』――まるで誰かのことみたい」

「たまたまですよ。リリースは四月でしたし」

 テレビを横目にそんなことを話していた。俺はほとんど聞いていない。


 約五分――しょっちゅう我が家に遊びに来る少女の華やかな姿を堪能し、「……良かった……」俺は力なく椅子の背もたれにもたれかかるしかない。


 冴月晶ファンとしての感動と、親子ほども年の離れた女の子が無事に大舞台をやり遂げたという安堵感、その二つがグチャグチャに混ざり合ってなんだか気疲れしてしまった。

 娘の学芸会を見守る親ってのはこんな気持ちなんだろうか。よくわからない。


「ごちそうさまでした。来年もよろしくお願いします」

「和泉さん、今日は無理をさせてしまってごめんなさい。ゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」


 残ったピザを大食いの美女二人に食べきってもらってから、俺たちは別れの挨拶を交わした。そして通勤カバンを握った俺は一人、小走りで駅へと向かうのである。


 紅白歌合戦はまだ終わっていない。

 番組最後の全員集合の場面で、もう一度、サウスクイーンの少女たちがテレビに映る。

 今から急いで帰れば、十分リアルタイムで視聴できると思った。


「別に、録画したのを見れば良いけどさ――」


 できるだけ現在進行形の彼女らを見たいと思うのがファン心理というものだ。

 特に、矢神カナタたち三人娘は、ステージだって見れていないし……。


 ――しかしである。


 俺の行く手を阻むかのごとく夜のビジネス街に広がり始めた深い霧。

 すぐさま目の前の景色すらも完全に掻き消して、俺の足を止めてしまう。


 なんだこれは? とは思った。東京にだって濃霧が発生することはあるが、こんな歩くことすらできない状況はさすがに異常だ。何か……超常の力が働いているような……。


「……あいつ……」


 一つ心当たりがあった俺は深く呼吸することで気を取り直し、真っ白な世界へと足を踏み出してみた。すでに足元のアスファルトすら霧に覆われて見えなくなっている。


 瞬間、左手首に少しの違和感。

 見れば――『白く暗い霧』の中から俺の左手首を掴む指が伸びてきているのではないか。

 真っ白なサテン生地の手袋に包まれた細い指だった。


 そのまま、丁重に腕を引かれる。


 その誰のものかわからぬ指を、俺は振り払ったりしなかった。霧を払って俺のそばにいる何者かの姿を確認したりもしない。指に導かれるまま濃霧の中を進んでいく。


 不思議と恐怖は湧いてこなかった。

 ただ――解せない――と思うだけだ。


 やがて少しだけ霧が薄くなって、何かが揺らめいているのがかすかに見えた。

 それは見たこともない『白く燃え上がる炎の柱』で、そこかしこで立ち上がってこの霧の世界に光を与えている。


「……いったい、ここは……」


 俺が『炎の柱』に気を取られたのはほんの一瞬――しかし気付けば、俺をここまで導いた白手袋の指はもういなくなっていた。俺の左手首を離して霧の向こうに消えたようだ。


 その代わり。

「帰りが遅いぞ、おにーさん」

 たった今吹き始めた風の中に聞こえた愛らしい声。


 次の瞬間、強い強い突風に濃霧が一区画吹き飛ばされて、『端のない長机』が現れた。『端のない長机』とは奇妙なことだが、単純に長すぎて端が見えないのだ。


 その長机は霧の中から現れ、俺の眼前を一〇メートルほど横切って、反対側の霧の奥へと続いていた。テーブルクロスの色は落ち着いたブラウンだ。


 長机の向こう側では、俺のよく見知った褐色美少年が頬杖をついていて。

「部屋で待ちきれなくて迎えに来ちゃったじゃん」

 愛嬌たっぷりにこちらを見つめている。


 黒一色でまとめたパーカーとレギンスパンツの上からクリーム色のロングカーディガンをゆるく纏い、そのたたずまいは可憐な花のようだった。


 俺は――やはり魔王の仕業だったか――そう苦笑いしながら、長机の前にずらりと並んだアンティーク椅子を引く。通勤カバンは膝の上に置いた。


「この前はデッキの調整に付き合ってくれてありがとうな。おかげでなんとかなったよ」

「ちゃんと見てたからね。おにーさんの矜持」


 辺りを見回してみるが、魔王と長机、そして霧以外は何も見えないままだ。ここまで真っ白だと、まるで夢の中にいるようにさえ思えてくる。


「どこなんだ、ここは?」

「さあ、どこかな。『どこでもあって、どこでもない場所』っていうのが一番の正解かもね」

「なんだよそれ……早いところ家に帰って、紅白見たいんだがな」

「もう、ひどいなぁ。会社に乗り込んでやっても良かったけど、大晦日におにーさん困らせるのもどうかなって、気を遣ったんだぞ?」

「すまんすまん。それで、何か用か?」

「うん。今年の決着つけとこうと思ってさ」


 すると何の前触れもなく、見慣れたトレーディングカードケースの数々が机の上に現れるのだ。最初からそこに置かれていたかのごとく、静かに、微動だにせず。


 見慣れているのも当然だろう。その色とりどりのカードケースは俺のもので、中に入っているデッキも俺が組み上げたものなのだから。


 カードケースの色から中身を思い出して言った。

「ワイズマンズクラフトか」

「その右手じゃあデモンズはキツいでしょ。僕に有利すぎる」


 俺は青いカードケースに左手を伸ばし、親指でマジックテープ式の蓋を開ける。やはりワイズマンズクラフトのデッキだった。


 一分一秒を争ってカードを繰り出す必要があるデモンズクラフトではなく、片手一本でも遊べるワイズマンズクラフトを俺の部屋から持ってきた魔王の気配り……。

 俺は「ありがたい」と苦笑いしか出てこなかった。


「遊んでやらないと帰れないんだろう?」

「帰らせないことはないけどさ……君の世界が大変なことになるぐらいには、だだをこねるよ」


 カーディガンのポケットからカード束を取り出した魔王は、すでにシャッフルを始めている。


 俺も青いカードケースからデッキを取り出し、「悪いけど、シャッフルだけしてもらえるか? この右手じゃあやりづらくて」魔王にカードを切ってもらった。


「しかし――今年の決着がつけたいって、勝率じゃあお前の圧勝のはずだが」

「区切りってのがあるじゃん。まあ、人間の決めた暦なんて、僕にはまったく関係ないんだけどさ」


 そして、この世ならざる異界の地にて、カードゲームが始まる。


 ゲームの結果は一勝一敗。

 初戦は俺が競り勝ったが、魔王に泣き付かれて始めた二戦目は序盤の遅れが響いて巻き返せなかった。


 一勝一敗とはいえ、今年最後の勝利を勝ち取れたのが嬉しくて仕方ないのだろう。机に広げたカードをホクホク顔で片付ける魔王に言われた。


「来年もよろしくね」


 俺は心の底からの願いを込めて、彼に笑いかけるのだ。


「お手柔らかに。ほんと、お手柔らかに頼むぞ」

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