雪の朝の祝福(下)

 そうは言ってもマジックカード満載の手札というわけでもない。


「さあ、ますたぁ。あの蛇野郎にますたぁの力を見せてあげて。失敗を恐れる必要はないわ。私がちゃんと拾い上げてあげますから」

「まあ待てオレリア。こっちにも手札事情ってのがあるんだ」

「貧乏性ねえ。力いっぱい、全部使い切ってしまえばいいじゃないのぉ」

「あのなあ……お前さんの能力に時間制限さえなけりゃあ、好きなだけ撃ってるよ」


 そもそもの話、この場面に辿り着くまでにそれなりの枚数マジックカードを使用してきたのである。俺は、手札のカードをモンスターカードとマジックカードに選り分け……マジックカードの少なさについつい苦笑いするしかなかった。


 “生き残りの障壁”が一枚に。

 “雷巨神の鉄槌”が一枚。


 たったの二枚だ。その上、“雷巨神の鉄槌”は、できるなら『二枚同時使用』で土地神へと叩き込みたいと思ったりするのである。悪魔エゼルリードを完全消滅させたあの時みたいに。


 とはいえ……ひたすら手札に握り続けていても愚策なのだが……。


 俺はオレリアの肩の上から雪上に残ったゾンビ群をざっと数え、たった今あれほど燃やし尽くしたのにいまだ百を超える不死者たちにゾッとする。


 虚ろな視線が俺たちに集まり、それでもオレリアは俺を肩車したまま平然と歩き続けた。例え一体、二体、ゾンビが襲いかかってこようとも。

「なんて哀れな亡者たち。信念も、信仰も失い、存在丸ごと蛇の支配下だなんてねぇ」

 まるで数秒先の未来がわかっているかのように歩幅を調整して、ゾンビの手を逃れるのだ。


 よろけたゾンビの腕を取って引き寄せると、「教えて? あの蛇はどんな愛をあなたたちに与えたのかしらぁ?」その顔面を薄ら笑いで見下ろし、答えも聞かずにポイッと投げ捨てた。


 俺は『箱』からカードをドローし。

「我が神の加護はありましたぁ? ますたぁ?」

「……どうかな、この状況なら悪くない一枚だけど。“月夜の鎧剥ぎ”」

 デッキに一枚だけ挿していたマジックカードを土地神に使ってみようと思う。


『成功判定:二・三・四・五。相手モンスターの防御力をマイナス三する。ただしこの効果で相手モンスターの防御力は〇にならない』


 マジックカード“月夜の鎧剥ぎ”を空に投げれば、ダイスの出目はまさかの『一』。

 ここに来ての発動失敗に笑いも出なかった。「マジか」と口端をヒクつかせた直後、ついつい弱音を漏らしてしまう。


「ここでそれは無しだろ。一枚しか入れてないんだぞ」


 オレリアは笑いが止まらない様子で、「私の能力も併せて使えば、あの蛇をスッカスカにできましたのにねぇ」伸ばした右手を黒龍の頭へと向けた。

「使いますぅ? 私の能力ぅ」


 俺は辺りを見回してゾンビ群の動向を確認した後、「頼む」と一言だけ告げた。


 オレリアの笑い声の調子は変わらない。

「堕落。腐蝕。剥離ぃ」

 妖艶で、不敵で、どこか恐ろしく……神様に弱体化魔法をかけるなんて『とんだバチ当たり』にも、一切心を動かしていないようだ。内心ビクビクな俺とはまるで違った。


「……効いたかな? 防御力マイナス三」

「うふふふぅ♪ さあ、どうでしょうかねえ」


 オレリアの能力が発動しても、黒龍の見た目に特別な変化はない。


 しかし、イスラ・カミングスが「あの和泉さん? 今何をしましたの? 土地神にあった神性防御の気配が、ほとんど消えたのですけれど……」なんて聞いてきたし。

「母ニ唾ヲ吐キシハ大罪ナリ。稚児ノ戯レトハ認メジ」

 今の今まで首をもたげているだけだった黒龍が森を砕きながら動き始めた。


 バキバキという擬音ではとても表現できない壮絶な破壊音。


 小枝どころではない。巨大な黒龍が首をもたげたまま前進し始めただけで、森のあちこちで太い幹を誇る大木たちが根本から折れて宙を舞うのである。


「お、お、オレリアっ! 早く避けて――回避! 回避だって!」


 思った以上の速度、想像したこともないド迫力に俺は戦慄し、ほとんど反射的にオレリアに回避行動を要求していた。この期に及んで雪上をまっすぐ歩くオレリアを止めようと叫んだ。


 ――オオ、オオオオオ、オオオオオオオオオオオオオオオオオオ――


 黒龍だけではない。百体以上のゾンビたちも、硬い関節を無理矢理動かすような不気味な挙動で俺たちへと走ってくる。多分そこらの犬の全力ダッシュよりも速い。


「オレリアっ!!」

 黒龍とゾンビが迫り、自分でも信じられないぐらいの大きな声が出た。

 

 すると、「わかってるわよぉ。今、ちゃんと避けてあげるわぁ」ようやくオレリアが反応してくれて。


「ちゃあんと、ねぇ――」


 肩車していた俺をイスラ・カミングスごと軽々持ち上げるやいなや、砲丸投げの要領で空に投げ飛ばした。カレイドドールの力で思いっきり、である。


 浮遊感も感じない、ただただ顔面の皮膚すべてが風圧に引っ張られた五秒か六秒。


 その後――全身の筋肉を硬直させた俺の視界は、今にも雪を落としそうな曇り空、枯れた森を縦断した黒龍の背中へと移り変わる。


 ここに来て黒龍の全長が一キロメートル近くあることを知るが、そんなことより天高く放り投げられた俺とイスラ・カミングスが数秒後どうなるかの方が重要だ。


「ひゃあ」


 俺の悲鳴を空が吸い込み、重力が容赦なくのしかかってくる。頭を下にして落下し始めた。


「母ノ手ヲ拒ムカ、子ヨ」

 森から雪上へと大きく身を乗り出した黒龍は、大量のゾンビを下敷きにしながら身体をうねらせ、天空に向かって大口を開けた。落ちる俺たちを待ち構えて一呑みにするつもりだろう。


 まるで活火山の火口みたいな真っ赤な口内が容赦なく俺の視界に広がっていき。


「面白い顔ねぇ、ますたぁ」


 しかし次の瞬間、下半身丸出しのハレンチ修道女が黒龍の鼻先に突如降り立った。


 そのまま黒龍の鼻先を蹴ると、ずらりと並んだ牙よりも早く、空中で俺たちを迎えてくれる。赤子でも扱うかのような丁寧さでイスラ・カミングスごと俺を抱いてくれたのだ。衝撃はほとんど感じなかった。


「投げなくてもいいだろう!?」

 無事生還できた俺の第一声はそれで、帰ってきたのは「でもぉ、哀れな亡者は減ったわよぉ。勢い余った蛇野郎が勝手に潰してくれたからぁ」という悪びれもしない笑い声。


「しょ、正直――死んだと思いましたわ」

「ほら! イスラさんもこう言ってる!」

「ごめんなさいねぇ。私、レオンティーヌみたいには飛べないのぉ」


 そしてオレリアが着地したのは、なんと黒龍の背中の上だ。そのまま黒い鱗を強く蹴り込むと、大きく波打つ長大なる身体を尻尾の先目指して走り出す。


 たかだか十五歩かそこらで時速百キロ近く。

 風圧が凶暴さを増し、高速道路でアクセルペダルを踏み込んだ時がごとくに景色が流れた。


「だから、ますたぁ。気楽に、アトラクション気分で楽しんでちょうだい」


 暴風の中オレリアが何を言っているのか理解できず――――とはいえ。

「お、オレリア――っ! 来てる! 来てるぞ!?」

 走るオレリアに猛然と迫ってくる『黒龍の頭』が視界に入り、それどころではない。焦り過ぎたあまり、またもやオレリアにぶん投げられたことにすら一瞬気付かなかった。


「オレリアお前ええええええええええええええええええええええ!!」


 流れで叫んだ直後、俺とイスラ・カミングスを追いかけて大ジャンプしたオレリアが横に並ぶ。

「うっふふふぅ! さあ手を出してますたぁ! 踊るように逃げましょう! 踊るように!」

 俺の右手を取るやいなや即座に引き寄せて、山なりにうねっていた黒龍の背中に見事着地したのだ。畏れ多くも黒龍の背中を巨大滑り台に見立てて滑降する。


「死ぬ! 死ぬって! 速いって!」

「大丈夫よぉますたぁ。ちゃあんと楽しく逃げてあげるからぁ」

「楽しくないんだよ! まったく!」


 とはいえ、俺たちがどんな変則軌道、どんな方法で逃げたとて、全身をひねくり回して的確に追尾してきた黒龍の頭。


「子よ、子よ。戯レノ時ハ終ワリナリ。母ノ腕ニ抱カレ眠ルベシ」


 自らの鱗の上を這い回る俺たちに業を煮やしたのか、いよいよその大きな角から『真っ黒な雲』が溢れ出す。黒龍が大口を開けば――口内の色は、煮え立つマグマのような鮮赤ではなく、夜の帳のごとき純黒だった。


 ――ブレスが来る。炎や氷より千倍恐ろしい死のブレスが――


 そう思った直後、俺はマジックカード“生き残りの障壁”を切るが――まさかの発動失敗。さっきの“月夜の鎧剥ぎ”といい、急に運に見放された気がした。


 直後。

「うふぅ♪ 信仰が足りなかったわねぇ」

 思わず笑みをこぼしたオレリアが、俺とイスラ・カミングスを抱えたまま超特大のムーンサルトを決める。


 後方伸身二回宙返り。


 こちらに突っ込んできていた黒龍の頭を、変則的かつ華麗な大跳躍でいなしたのだ。ジャンボジェット機より遙かに大きな黒龍頭部を軽々跳び越えようとした。


「あらん?」


 黒龍にとっては予想外、俺たちにとっては完璧なタイミングの方向転換だったはずだ。それなのに――――今にもブレスを吐き出さんとする黒龍は、まさしく神にふさわしい反応速度を見せた。俺たちが頭部直上を抜ける瞬間どんぴしゃりで、上を向いたのである。


 二枚同時使用がどうとか言っている場合じゃない。とにかくカードを切るしかなかった。

 手札に残っていた最後のマジックカード、“雷巨神の鉄槌”を。


『相手モンスターに【電撃:X】のダメージを与える。Xはダイスを一回振って出た目に等しい。もしくは、あなたが“雷巨神の鉄槌”を二枚同時に使用していた時、相手モンスターに【電撃:X+三】のダメージを与える。Xはダイスを二回振って出た目の合計値に等しい』


 今度こそ魔法が発動し、ダメージ決定のダイス目は三。


 すると、大量の電気だけで形作られた巨人の上半身が空に現れ、電光ほとばしる拳を真下に振り下ろした。巨人の拳は太い稲光に変わり――俺たちの横を抜けて黒龍の口に落ちる。


 小さな小さな望みだった。


 いくら黒龍の防御力を下げているとはいえ、三点ダメージ程度で倒せるとは思っていない。


 ちょっとでいい! 黒龍がひるんでくれれば……! ブレス発射が何秒か遅くなれば……!

 ただそれだけを願って撃った魔法だったのだ。


 落雷の轟音と共に黒龍の口内から白煙が上がり――ほんの一瞬、黒龍が硬直した気がする。


 俺は思わず「効いたぁ!」なんて歓喜の声を上げ、オレリアへの命令を忘れてしまう。


 だからだろうか、「お見事」とオレリアが気を利かせて声を掛けてくれた。


「ちょうど私の能力も用意できたのだけれど、使ってもいいのかしらぁ?」

「無論!」


 そして黒龍が短い硬直から回復し――――本日二度目の死のブレス、『純黒の奔流』だ。


 いまだ宙にいた俺たちを瞬時に呑み込むと、のたうち回って森や雪原、遠くに見えた山の稜線の方にまで『死の概念』を押し付けていく。


 死のブレスが通過した後には命を失った抜け殻しか残らない。


 森は二度と葉を付けることのない永遠の枯れ木へと変貌し、雪の下で春を待っていたつぼみは消え失せ、そこかしこで息を潜めていた小動物たちも突然その生を終えることとなった。


 つまり…………死のブレスの後は静寂が広がるはずなのだ。


 だが、しかし、そんな死のブレスの直撃を受けて。

「ビビったぁ! さっきよりも照射時間長いとか反則だろ!」

「反則なのはイズミさんの魔法ですわ。土地神のブレスを一度ならず、二度までも――ちょっと今の魔法、マジで教えてくださらない?」

「うふふふふぅ♪ ギリギリの綱渡りねえ、ますたぁ。楽しいわねぇ」

 俺たちは生きている。死のブレスに幾らか吹き飛ばされながらも、全員五体満足で雪原に降り立った。当然「んなぁ~」、俺の懐に入ったままの三毛猫だって健在だ。


 つまり、ギリギリでオレリアの特殊能力が間に合ったのである。捨て山に落ちたマジックカードの効果を発揮できるオレリアの特殊能力で、“生き残りの障壁”を指定したのである。


 オレリアが俺を雪の上に下ろし、俺は『デモンズクラフトの箱』からカードをドロー。


「あ」

 待ち望んでいたモンスターカードの登場に思わず声が漏れた。


「我が神ぃ♪」

 俺の引いた手札を上から覗き見ていたオレリアも心底嬉しそうな声を上げる。


 それでイスラ・カミングスが何事かと首を伸ばす中、「ますたぁ。早くっ、早く我が神の思し召しにお応えするのぉ」と俺の肩を揺すってカードの即時使用を要求してきたオレリア。


「やる! やるから! 龍がこっち来るって時に何やってんだ!?」


 俺の叫びに我を取り戻したかと思いきや、いきなり両手を広げてくるくる踊り始めた。バレリーナのような華麗なステップではない。花畑で踊る子供のごとき無邪気なダンスだった。


「なんと――なんてお優しい方。不運で不遇なますたぁを見かねて、こんなにも早くこの地に降りてくださるなんて。たかだが神を騙る蛇を粉砕するためだけに!」


 本当に嬉しそうに言う。


 俺は、手にしたモンスターカードを使う前にオレリアへと拳を突き出した。


「ますたぁ?」

 オレリアは一瞬きょとんとした顔をしたが、俺の次の言葉に妖艶な笑みを浮かべた。


「ありがとうな。色々振り回されたけど、なんだかんだ助かったよ」

「うふふふぅ♪ 我が神を召喚して死んだりしたらタダではおかないわよ、ますたぁ?」


 俺の拳にオレリアの冷たい拳がコツンと当たって――「死ぬわけないだろう! オレリアの神様はデモンズクラフト屈指の切り札だぞ!?」俺は黒龍へと振り向きながら手札のモンスターカード“アポ・メカネス・テオス”を威勢良く空へと放った。


 そして左手に握っていた残りの手札すべても空に向かって投げ捨てる。『手札をすべて破棄した後、捨て山のカードを10枚除外』という“アポ・メカネス・テオス”の召喚条件を満たすためだ。


 フラワーシャワーがごとくにカードを浴びつつ、まっすぐに黒龍を見据えた俺。


 黒龍は死のブレスを二度も防がれたのがよほど癪に障ったのか、「憎ラシキ子ナリ! 憎ラシキ子ナリ! 憎ラシキ子ナリ!」と叫びを上げて長大な身体を大地に打ち付けるのだ。


 俺が袈裟斬りに腕を振って、目の前に現れた大量のカード――捨て山に落ちていたカードの一覧から十枚を即座に選り分けた瞬間。

「何故ッ、定メラレタ運命ヲ受け入レヌノカ!?」

 気付けば、俺とイスラ・カミングスは黒龍に至近距離で見下ろされていた。


 わずか二十メートルそこら……巨大な黒龍からすれば、ほとんど鼻の先に俺たちがいることになるはずだ。黒龍の口の動きに合わせて暴風が生まれ、ともすれば俺とイスラ・カミングスなんて風に巻き込まれて吹き飛ばされていたはず……。


「わからぬか、『死の蛇』よ」


 俺がその場に立ち続けられたのは、オレリアと入れ替わりに『新たなるモンスター』が現れていたから。

 モンスターの足下には『熱の無い炎』が広く燃え上がっていて、その炎の内側にいる限り、俺を脅かす一切の脅威は遮断されるようだった。前髪さえ風に揺れることはない。


「それこそがこの星に息づく生命の本質だからだ」


 黒龍から視線を外すことのない俺は、十枚除外後に残った捨て山のカード一覧から“カレイドドール・愛らしき踊り子リーサ”、“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”、“偏光瞳のアンティークドール”のカードを取り出し――手にしたその三枚を肩越しに背後へ差し出した。


 すると。

「人であれ、それ以外であれ――理不尽に抗い、今際の際まで諦めざるは生命の誉れである」

 背の高い誰かがカードを受け取ってくれ。


「い、イズミさん……? あの、さすがに説明していただけないかしら? これは色々大問題ですわよ。……神? 神でしょう、これ。こんなの……人間にどうこうできるわけ……」


 イスラ・カミングスが震える声を上げた。俺の後ろに現れたモンスターに驚きすぎた結果、息を止めて絶句することすらできなかったようだ。もはや笑うしかないみたいだった。


 呼び出したモンスターの姿形は知っている。能力もだ。


 とはいえ、俺がおんぶするイスラ・カミングスの震えっぷりが凄くて……そんなにか? そんな震えて驚かなければならないほどか? と、チラリと背後に視線を送ってみる。


 ――死ぬほど美しい異形の人形があった――


 身長は四メートルを楽に超えるだろう。

 材質は、おそろしく年月を重ねた大理石であり、ほんのわずか黄変した表面がむしろ色白の柔肌を想起させるのである。


 一面四臂。美しい顔が一つに、細長い腕が四つ。


 豊満こそが良しとされがちな古代彫刻というよりは、現代風の細面をしていた。ミロのヴィーナスと比べれば顎は細く、頬も薄く、瞳と口を閉じてどこか物憂げな表情をしている。


 それで俺がなんとなく思ったのは、天才ミケランジェロの手によるサン・ピエトロのピエタ像。少女のような神々しい美貌に、キリストの亡骸を抱く聖母マリアの面影を見るのだった。


「……アポ……メカネス・テオス……?」

「左様。和泉慎平の求めに応じ、我、時の終わりし地より来たり」


「……少し、驚いたな……思ったよりも大きい」

「違う。時を経て人の子の方が小さくなったのだ。かつての人は猛々しい肉体を誇っていた」

「――え?」

「嘘だ。他愛もない冗談に決まっているではないか。今も昔も、此方でも彼方でも、人は小さく、我が守るべき生命であったよ」


 唇を一切動かさずとも響き渡る、透き通った穏やかな声。


 それがますます聖母マリアっぽい印象を与えてくるのだが……少なくとも、ルネサンス期の芸術作品に、麗しき聖母を四本腕で表現した巨大彫刻は存在しないだろう。


 肩口の球体関節からそれぞれ腕が二本ずつ伸びる。

 全長二メートルを超える細い腕は、俺たち人間のものと異なり、上腕部・中腕部・前腕部の三つに別れていた。腕の関節が一つ多いのである。


 そして――胸元に花の意匠が彫り込まれた痩身の裸体。太ももだけがやけに伸びた脚。


 センター分けにした黄金色のドールヘアーは膝下を超えるほどに長く、毛先の方が『熱の無い炎』に変化して地面へとボタボタ落ちている。つまり、アポ・メカネス・テオスの長髪こそが、彼女の足下に広がる炎の野を生み出していた。


 ――人を模した巨大人形のはずなのに、身体の各部が人とは違う。

 ――ほっそりとしたシルエットは、人というより、どこか昆虫っぽい気がする。


「神様ですし、敬語で話した方がいいですかね?」

「思うままにするがいい。我を人形と思うも、父母と思うも、神と思うも各々次第だ」

「アポ様と呼んでも?」

「よろしい」


 しかし俺の心中には、石造りの人形神に対しての嫌悪感は一切なかった。悪ふざけのような四本腕も、十二頭身を超える長身も、燃える金髪も、ただひたすらに美しいと思うばかりだ。


「……許サヌゾ、憎ラシキ子……安寧タル母ノ寝所デ、母以外ノ手ヲ握ロウトハ。先ニ逝ッタ兄弟姉妹タチヲ裏切ロウトハ」


「言ってくれるではないか、『死の蛇』よ。この地にはお前たちがもたらした悪が満ちている。死すべき者が死を逃れ、生くるべき者が落命した矛盾、その報いを受ける時が来たのだ」


 黒龍の怒りを目前にする俺にとって、アポ・メカネス・テオスの神々しい異形っぷりはどこまでも心強かった。


 イスラ・カミングスは「てゆーか夢ですわ夢。土地神に対抗するために異界の神を呼び寄せるなんて。こんなの、神話時代の召喚術師がやることじゃありませんか」なんて現実の直視を半ば諦めたようだが、俺は白い息を吐き出しつつ黒龍の眉間を指差した。


「決めましょうアポ様。攻撃を――」


 俺の攻撃命令に対する返答、それは言葉ではなく行動によって行われた。


 無手であったはずのアポ・メカネス・テオスの四本腕の一つに、突然、『長い杖』が握られたのだ。俺のまばたきに合わせて『人形の腕を何本も繋ぎ合わせたような杖』が出現したのである。


 ギョッとしてもう一度まばたきしたら、またもや視界の唐突な変化――今度は、アポ・メカネス・テオスの背中に、黄金のパイプオルガンを思わせる巨翼が広がっていた。


 そして。

「――願いと矛盾を孕みし古き蛇よ、星に還れ――」

 ゆっくりと杖が掲げられる。


 瞬間、黒龍が事前動作無しに死のブレスを吐き出し――――――――しかし、曇天をぶち抜いて天空より飛来した白光が、ブレス到達より一瞬速く黒龍の首に大穴を開けて頭を飛ばした。


 わずかに軌道が逸れたことで死のブレスが俺たちの数メートル隣を通り過ぎる。


 ホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間。

「……う、嘘、だろ……」

「嘘って――イズミさん。あなたがやってるんでしょう?」

 俺とイスラ・カミングスは、信じられぬ光景を目撃することになる。


 空の向こうまで広がった曇天を蜂の巣にした大量の白光が、黒龍の長大な身体へと次々降り注ぐのだ。撃ち抜かれて千切れた肉塊が吹き飛び、大きく跳ね上がり、雪原や森のあちこちに散らばっていった。


 思わず俺はアポ・メカネス・テオスに振り返る。


 パイプを連ねたような異形の翼を広げ、杖を掲げたままの人形神。

 彼女は俺の視線に気付いて、表情の変わることない硬い顔をこちらに向けてくれた。


「さすが」

 俺はそう口にするしかなく、アポ・メカネス・テオスのカードテキストを思い出すのだった。


 攻撃力9、防御力1。


『このモンスターがフィールドに召喚された時、あなたはトラッシュにある【種族:ドール】のカードを3枚までこのモンスターの下に重ねても良い。このモンスターは、このモンスターの下に重ねてあるカード1枚につき防御力+2される』


『このモンスターがフィールドを離れる時、あなたはこのモンスターの下に重ねてあるカードを1枚破棄しても良い。そうした時、このモンスターはフィールドに残る』

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