雪の朝の祝福(中)
ダイス運は悪くなかった。手札にあった攻撃系マジックカード四枚のうち、三枚が発動成功だなんて、俺にしては上出来すぎる。
最初の“雷雲の落とし子”に始まって、“氾濫する焔”、そしてもう一枚の“氾濫する焔”。
三枚のマジックカードが大暴れした結果、俺の周囲に広がっていた雪原はその姿を変え。
「……ず、ずいぶんと……スッキリしたじゃあ、ありませんか……」
「……炎使ったのはマズかったかもですね。雪崩、起きなきゃいいんですけど……」
俺の膝まであった雪は完全消滅。それどころか、俺とイスラ・カミングスの周囲二、三十メートルが焦土と化していたのである。土の焼けた臭いが鼻を突いた。
そして、次の瞬間。
――――――――――――――――――――――――――――――――
耳障りな絶叫が聞こえ、少し遠くの方で血煙が吹き上がる。
今しがた俺の攻撃命令を受けた踊り子リーサが、怪物の一体を八つ裂きにしたのだ。
両腕を変形させたサーベルの二刀流。
まずは両手両足を切り落とし、胴体を裂き、首を飛ばす。それはまさしく死を招く舞踏と呼ぶに相応しく、小さな身体が回転しながら宙を舞うと同時、次々と怪物の形が崩れていった。
“カレイドドール・愛らしき踊り子リーサ”の能力発動。
しかし俺は、『デモンズクラフトの箱』から飛び出して空中に浮かんだ二枚のカード――“偏光瞳のアンティークドール”と“雷巨神の鉄槌”――を見て、思わず眉をひそめてしまう。
カレイドドールがいない。
今回はどちらのカードも手札に加えられず、二枚とも捨て山に落ちてしまった。
とはいえ、大ジャンプ一つで戻ってきた踊り子リーサは、俺を見上げて満面の笑顔だ。
「また一匹倒しましたの! それでマスターは、リーサの力で良いカードを引けましたの?」
その言葉に俺は微笑んだだけ。空いた右手で踊り子リーサの頭を撫でてやった。
イスラ・カミングスを背負い直しながら言う。
「あらかた倒した。残りは逃げた。……次は何が来る? 何を倒せばいい?」
それはただの独り言。俺自身に言い聞かせるための、俺の気持ちを奮い立たせるための言霊のようなもの。
だって、何体か倒し損ねた怪物たちが揃って逃げていった先――雪原の向こうにある雪を被った森の奥で、『巨大蛇のような何か』が、音もなく身体をくねらせたからだ。
長大なる胴体の一部分が、空に掛かる虹のごとくにゆったりと持ち上げられ、俺たちの視界に入ってくる。
星の無い夜空に似た深い黒。
これでもかと磨かれた金属のような鱗の質感。
俺が恐ろしいと思ったのは、何よりもその大きさだ。広い森の端から端を横断しているであろう胴体部分――全容など見たくもなくて、そのままずっと森の中にいてくれと思ってしまう。
「……土地神……」
イスラ・カミングスがポツリと漏らした言葉を俺は聞き逃さなかった。
「い、いや。土地神って、冴月さんが戦った男の子じゃあ――?」と震える声で問い掛けて、「あれは子供の方。手が付けられないのは母親ですわ」なんて嫌な答えを得る。
「……今なら逃げられますかね?」
「土地神相手に追いかけっこは自殺行為じゃありませんこと? この山の隅から隅までが、彼女の庭だというのに」
「……なるほど。おっしゃるとおりだ」
そして俺は大きく深く息を吐く。時間経過によって『デモンズクラフトの箱』が吐き出したカードを一枚ドローする。
自慢のデッキを信じるしかないと思った。
頼みの綱の冴月晶はおらず、イスラ・カミングスも役に立ってはくれず、目の前には巨大すぎる土地神の姿である。
俺の行動原理はいつもどおりだ。絶対に生きて帰る、それだけ。魔法少女相手だろうが、悪魔相手だろうが、神様相手だろうがそれは変わらない。
神が俺たちに牙を剥くのならば、どうやっても話が通じないのならば、もはや戦うしかない。神を殺さなければ生きて帰れないのならば――何としてでも殺す。
「行こうか、リーサ」
「はいですの、マスター」
俺は、重たい足取りで土地神に向かって歩き出した。すると、サーベル状の両腕を元に戻した踊り子リーサが、イスラ・カミングスの尻を押して俺の歩行をサポートしてくれる。
不意にイスラ・カミングスが話しかけてきた。
「まさかイズミさん、土地神に勝つ算段があるんですの?」
「わかりません。でも、背中を向けたって良いことはないんでしょう?」
「それは、そうですが……マジで化け物ですわよ」
「見ればわかります」
深い雪に足を取られ――しかし、踊り子リーサのおかげで俺の速度が落ちることはない。カレイドドールの凄まじい馬力に押されながら黙々と雪原を進んでいく。
途中『デモンズクラフトの箱』からカードを二枚ドローした俺。巨体がうねる森を見上げていたが、雪原と森の境界線まであと五十メートルといったところで足を止めた。
「紅キ死ヲ望ムカ?」
木々を覆う雪を派手に落としながら、いよいよ土地神が鎌首をもたげたからだ。
「ソレトモ、昏キ死ヲ望ムカ?」
龍。
天を衝くほどに巨大な黒龍――それは、まさしく東洋に伝わる龍神で。
「我ガ地、ラクトウノ国ナレバ、不浄ナル生者ヲ許サジ。生者ノ国ヲ認メジ。父祖ニ連ナル穢レハ、母ヨリ与エラレシ安ラギヲモッテ贖イトスベシ」
人間十人を一度に丸呑みしそうなぐらい大きな顔、長さ十メートルを超える長いヒゲ、樹木のような角、翼のない蛇のごとき長い胴体と、俺にとってはどこか馴染みのある偉容だった。
もちろん本物の龍など初めて見たし、これほどまでに巨大なものかと驚きはしたが、この瞬間は恐怖よりも美しいと思う感情の方が大きい。
顔半分の皮膚が崩れて白骨化していることなど、単なるアクセントに過ぎなかった。
「カ弱キ者ヨ。安寧ヲ忌避セシ人ノ子ラヨ」
グレイスカード“古き歌よ。我が友の歩みを支えたまえ”の男女混声歌がいつまでも響き渡る中、二つのノコギリを擦り合わせたような酷い音が耳に届く。
初め、俺の頭はその騒音を言葉だと認識していなかったが。
「母ノ願イヲ忘レ、母ヲ忘レ、『山』ヲ忘レシハ傲慢ナリ。万死ニ値セシ大罪ナリ」
龍の大きな頭――その口が音に合わせて動いていることに気付いた瞬間、騒音を言語化できるようになるのだ。言葉の意味自体はよくわからなかったが、土地神の巨体からほとばしる敵意だけは理解できた。
すると、俺の背中でイスラ・カミングスが小さなため息を吐く。
「神さまは、よほどの人間嫌いみたいですわね。昨日も同じ事を聞きましたわ」
「……意思疎通、できると思います?」
「はあ? まさかイズミさん、あれと話す気でいらっしゃるのです? では、はっきり無理と申し上げましょう。絶対、無理」
「ははは。絶対、ですか」
「ただでさえ価値観が異なる人と神。そもそも、人の言葉に聞く耳を持つような存在であれば、ハナから学生やイズミさんは巻き込まれておりませんわ」
「……そりゃあ、そうですね……」
ひどく腑に落ちた。
社に忍び込んだイスラ・カミングスならまだしも、無実の大学生たちが人外の怪物に襲われた理由――そんなの、神に見境がないからだろう。罪悪の有無で人間を見分けていないのだ。
「あれは、人を見れば人を喰らう、荒ぶる神なのです。別に珍しくもありませんわ」
吐き捨てるようなイスラ・カミングスの口調。
直後、黒龍の大きな角から『真っ黒な雲』が溢れ出した。
「人ノ子ヨ。『山』ヘト帰リ、白キ朝ヲ待ツガイイ」
モヤやガスのような薄い気体ではない。まるで空間そのものを絵の具で塗り潰していくがごとくに、黒が広がっていくのだ。黒龍がその長い首を回せば、黒い軌跡が延々伸びていった。
不意に。
「マスタぁ」
踊り子リーサが俺の服の袖を引き、頬を膨らませた不満そうな顔で見上げてくる。
「あれ、マズいですの。リーサじゃあ、マスターを守れませんの」
俺は苦笑するしかなかった。
「マジか。リーサの速さでも避けられないか?」
デカブツの一撃。運動性能の高い踊り子リーサならば、俺たちを抱えて跳べると踏んでいたのだ。甘すぎる状況判断、不甲斐なさは、冷や汗をかいて反省すべきだろう。
「……しかたない。別のプランだ」
デモンズクラフト発動時の俺ならば、土地神の攻撃に消し飛ばされたとて、ライフポイントを失うだけ。『死ぬ』という感覚は不快極まりないが、今はまだ本当に終わるわけではない。
とはいえ――俺の背中にいるイスラ・カミングスは違う。
彼女はデモンズクラフトのプレイヤーではない。一度死んだら、それで彼女のすべてが終わりなのだ。
「オレリアを使う」
俺の今の手札には、“生き残りの障壁”といった絶対無敵の防御用マジックカードはなく――だからこそ、こうするしかなかった。
“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”。
金髪ロングの修道女人形が、カードの中で妖しく微笑んでいた。
金髪碧眼。すべてが完璧に整った涼しげな美貌。顔付き自体は“カレイドドール・凜然たる姫騎士レオンティーヌ”によく似ている。双子と言っていいぐらいにそっくりだった。
だがしかし……すべて表情のせいだろう。
男を誘惑するような、そのあとで思い切り首筋に噛み付いてきそうな――優しくも恐ろしい、蠱惑的な微笑。
衣装や装備の違いなどではない。……ただただ表情が違いすぎる。それだけが、レオンティーヌとオレリアを似ても似つかぬ存在として俺に認識させていた。
「ええ~。オレリア姉、ですのぉ~?」
オレリアの名前を出した途端、踊り子リーサが思い切り顔をしかめる。心の底から嫌そうな顔で俺を見上げたのだ。
俺は苦笑するしかなく、「そうは言っても、今はこれぐらいしか手が無いだろう?」と“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”のカードを空中に放った。
「むぅ~。リーサはお人形だから、マスターの決断を止めはしませんの」
次いで、手札からカード二枚を捨てる。
『召喚条件・手札二枚破棄。このモンスターは、あなたのフィールドにいるカレイドドールと入れ替えでしか召喚できない』
すると、踊り子リーサの足先に白い光が生まれ、「でも、マスター」あっという間に彼女の全身に広がっていった。可愛らしい顔を残して、踊り子人形のすべてが白光に包まれた。
「オレリアお姉に何言われても、まともに受け取ったらダメですの」
そして土地神が口を大きく開く。
とはいえ、龍の喉の奥どころか、長い舌すら見えなかった。広い口内すべてが、端から端まで『濃密すぎる黒』に満ちていたからだ。
「あの口から出てくる言葉すべて、虫の鳴き声ぐらいに思っておくのが吉ですの」
龍といえば、『必殺のドラゴンブレス』を吐き出すのがお約束。神罰というには禍々しすぎる気もしたが、今まさに神の鉄槌が振り下ろされようとしているのだろう。
――生き延びるためには、『完全無欠の防御』に頼るしかない――
「それじゃあマスター。勝利を、祈ってますの」
いよいよ右目以外のすべてを白光に呑み込まれた踊り子リーサが、最後に一つ、愛らしいウィンクを俺に送ってくれる。
そして――土地神が更に大きく口を開いた瞬間だ。いきなり俺の眼前にカードがずらりと現れた。
“生き残りの障壁”が一枚。
“雷雲の落とし子”が一枚。
“雷巨神の鉄槌”が一枚。
“氾濫する焔”が二枚。
どれもこれも、ついさっき俺が手札から繰り出したマジックカード。発動の成否に関係なく、役目を終えて捨て山に眠るマジックカードすべてだった。
迷わず“生き残りの障壁”を選び取った刹那――『純黒の奔流』が俺の視界を埋め尽くす。
炎ではない。水ではない。風でもない。
そもそも物理的な破壊をもたらす攻撃ではなかった。
――死の呪いのようなもの――
――地球に息づく生命体すべてが最も忌避すべきもの――
俺たちに向かって土地神が吹き付けたそれは、おそらく『死そのもの』であり、触れただけで命を消し飛ばす禁断の猛毒なはずだ。
誰に教えてもらったわけではないのに、なぜだか直感的に理解できた。
俺を中心とした球状のバリアが現れてくれなかったら、今頃、間違いなく死んでいる。
それから三十秒。
発動した“生き残りの障壁”は、土地神の死のブレスにもびくともせず、俺とイスラ・カミングスを完全に守り切った。
「あ、あり得ませんわ……土地神の概念放射を、階層剥離も無しで防ぐ結界なんて……こんな薄い結界……そんな魔法、存在するわけが……」
イスラ・カミングスがなにやらぼやいているうちに『純黒の奔流』は流れきり、俺たちの目の前に再び現れた朝の雪山。木々の間から長い身体を立ち上がらせたままの巨大な龍神。
「……余裕そうな顔をしてくれる……」
そうは言っても幻想的な絶景だと思い、俺は『箱』からカードを一枚ドローした。出てきたカードが二枚目の“生き残りの障壁”だったので、「はは――」思わず笑いが漏れてしまう。
「もうしばらくは、生きられそうだ」
ほとんど何も考えずにそう呟いた直後。
「うふふぅ♪」
俺の頭上からハスキーボイスの笑い声が落ちてきた。色っぽいを通り越して、ぞくりとするほどの湿り気を帯びた奇妙な笑い方だった。
「それは、わたしの力も込みで、ということかしらぁ?」
次いで、頭頂部にずしりとした重みだ。
なんだ? と思って身じろぎしたら、高身長美女の顎先が俺の頭に乗っているではないか。
「ねえ、そうでしょう? 愛しい愛しい、ますたぁ」
豊かな金髪の上に白黒のベールを被り、レース付きの白い付け襟で肩までしっかり覆ったその姿は、いかにも教会の修道女風。
だからこそ、赤銅色の額当てをベールの上から装着していることがことさら異質に思えた。物静かな修道服と物々しい戦装束を合わせているということが。
しかし、視線を一瞬下ろして――前言撤回だ。
全然物静かでも、敬虔でもなかった。ただの卑猥だった。
黒い修道服は豊満な胸のすぐ下から大きく切り開かれてマントと化しており、腹部の球体関節を見せ付けている。
ボリュームのある腰回りはほとんど裸同然であり……いくら下着を履いているとはいえ、総メッシュ仕立てなのだからほぼ意味が無い。すべて透けているのだ。
陶器製の球体人形だったから良いようなもの。
これが生身の人間相手だったら『パンツぐらい、ちゃんとしたの履きなよ』と苦言を呈しただろう。いいや……俺じゃあ、そもそも目も合わせられないか。
「……オレリア……」
「その通り。不肖オレリア、ただ今参上です」
カードのイラストだと、大きくひるがえった変形修道服がオレリアの下腹部を隠していた。それで、太ももが露出している程度だと思い込んでいたのだが……これほどまでの露出狂だったのは完全なる予想外。
「ああぁ……レオンティーヌとフレスコードがいない現世ってステキねぇ。あの堅物二人がいないってだけで、こんなにも自由だなんて……」
そして――装備も含めたオレリアの身長が、二メートルを楽々超えていることも完全に予想外だった。裸足でも俺よりずっと背が高いのに、木に巻き付く蔓をモチーフとした脚甲のハイヒールに足を乗せているものだから、何の苦労もなくイスラ・カミングスを乗り越える形で俺の頭に顎を乗せることができる。
不意に。
「ほんと、ますたぁのおかげで、羽が伸ばせるわぁ」
黒レースの長手袋に包まれた両手がぬぅっと出てきて、俺の顔をこねくり回し始めた。
「待て。待てってオレリアっ。敵がいる。遊んでいる場合か」
「ただの愛情表現よぉ。ますたぁの頭が私の手にジャストフィットなのがいけないのぉ」
「邪、魔っ! 暇じゃないんだ! 土地神が何をしてくるか――」
「ねえ、ますたぁ? あなたのお顔、囓ってもいいかしら? ほっぺのお肉を、ちょっとだけでいいから」
これが、“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”。
俺は全力で身をよじらせることで、彼女の手から逃れるのだ。それで薄笑みを浮かべたままのオレリアを見上げると「遊びは後だ! まずはあの龍を何とかする!」なんて声を荒げた。
俺の怒鳴り声を受けても、オレリアは顔色一つ変えない。
「かしこまりましたわぁ。ますたぁを食べてしまうのは後回し。不肖オレリア、今はますたぁの手足となって戦いましょう」
平然とそう言ってのけると――人形にしては妙に生々しい舌を出して、自らの上唇を舐めた。まるで全身で朝陽を浴びるかのごとくに両手を広げ、天を仰ぐ。
「神よ。優しき我が神よ。御身に仕えし人形が、下等なナマモノに従うことをお許しください」
とはいえ、オレリアの祈りに答える声はない。大空から降ってくる異変は変わらず、俺の発動させた“古き歌よ。我が友の歩みを支えたまえ”だけだった。
不意に。
「……ちょっとやべー奴ですわ……」
俺とオレリアのやり取りを黙って見ていたイスラ・カミングスが、ぽつりと漏らす。
――――――――――――
次の瞬間、オレリアの長い腕が俺の右頬を通り抜けた。およそ人間では反応できない速度で、イスラ・カミングスの顔を掴む。
「今なんと言ったぁ?」
黒手袋の左手にいきなり顔を覆われたイスラ・カミングスは「……っ!?」驚きのあまりに固まることしかできず……それでもきっと、オレリアの指の間から、冗談が一切通じそうにない無表情が見えただろう。
「お前はますたぁではない。お前のことを許す必要はない。お前が私の前でいまだ生き長らえているのは、お前がますたぁの荷物だからだ」
オレリアの力加減一つでイスラの顔なんてトマトみたく潰されてしまう。
慌てた俺は、「やめろオレリア!」と怒声を発し、手札にあったモンスターカードを一枚引き抜いた。“カレイドドール・寡黙なパティスリー フランセット”。
別に今必要としてるモンスターではない。だが、オレリアが止まらないのであれば、イスラ・カミングスを守るためにモンスターを入れ替えなければ――そう思ったのだ。
「……いいかげんにしろよ、オレリア……っ!!」
オレリアと目が合う。
すると、「ますたぁは、怒った顔も可愛いのね」あれほど冷たかった人形の顔に、再び誘うような笑みが宿った。それからイスラ・カミングスの顔面をすんなり解放し、彼女の綺麗な顎先を人差し指の腹で軽く持ち上げる。
「私がますたぁの荷物を勝手に壊す無分別な人形ではなかったことを、神に感謝するが良いわ。さあ、我が神に祈りを捧げろ。さあ――」
“カレイドドール・寡黙なパティスリー フランセット”のカードを手札に収めた俺は、右手でオレリアの腕を払いのけ、「祈りなら後で俺がやってやる。あの、イスラさん。大丈夫ですか?」と背中のイスラ・カミングスを気遣った。
「え、ええ……怪我は、ありませんわ……」
よほど絶妙な力加減だったのだろう。そう答えるイスラ・カミングスは、オレリアの方に視線を送ろうとしない。まずは自分の頬にそっと触れて、骨に異常がないかを確認するのだ。
ため息混じりにオレリアに指示を与えようとした俺。
「ぐえ――っ」
しかし、オレリアにいきなりダウンジャケットの襟首を掴まれ、高々と持ち上げられる。
何かと思ったら、足下の雪の中から『得体の知れない腕』が伸びてきたではないか。
――ホラー映画よろしく地中から襲い来るゾンビ――
オレリアに持ち上げられなければきっと足首を掴まれていただろう。下半身に登られていたことだろう。
とはいえ。
「邪魔」
ドス黒い涙で青白い顔を大きく濡らした人間の死体は、すぐさまオレリアのハイヒールにひたいを踏まれて、雪の地面に強く押し付けられる。
「人の成れの果て風情が。いきなり割って入ってきて、無粋ね」
死斑に覆われた紫色の身体がジタバタもがくも、オレリアの巨体はビクともしない。むしろ踵をグリグリと回して、ゾンビのひたいに細いヒール先を突き刺していくのだ。
ついさっき俺と踊り子リーサが戦った、『四つ足の怪物』を人間に近づけたような――いや違う。むしろ……いつの日にか、あの『四つ足の怪物』に変化する遺体のような……顔だけが青白く、首から下はすべて紫のまだら模様のゾンビ。
そんな見るもおぞましい怪物が、オレリアに踏まれて手足をバタつかせていた。口は開いているものの、そこから人間らしい言葉は聞こえない。盛大に吐き出されるのは、耳を塞ぎたくなる大音量の呻き声だけだ。
「あっぶなっ! あっぶなぁっ!!」
完全に死角からの攻撃。オレリアが手を出してくれなかったら……そう思って、俺は背筋を凍らせた。できるだけ足を持ち上げて、少しでもゾンビから離れようとする。
「くっそ。地面の中にも、敵だなんて」
「一体だけじゃありませんわっ。ご覧になってイズミさんっ、周り全部――」
「汚れた土地。死に損ないどもの土地。あああ、嫌だわ。ほんと嫌。うっふふふぅ」
焦る俺やイスラ・カミングスとは一線を画し、声を上げて笑ったオレリア。まるで軽いぬいぐるみでも取り扱うように、軽々と俺たちを自分の肩に乗せた。
また肩車。
昨日も踊り子リーサにも肩車してもらったが――今度は高さが違う。地上三メートル。
恐ろしさを感じるほどの高さから周りを見渡せば、雪原のあちこちで激しく雪が噴き上がっていた。そして、雪の粉の向こうに見えるのは、紫色の腕、腕、腕。
地面に潜む死者の群れが、朝の光の下に這い出てこようと言うのである。
「えぇぇ……お、多すぎるんだが……」
息つく暇もなく雪原を埋め尽くすゾンビの大群だ。
百どころではなく、もしかしたら二百以上いるかもしれない。
「土地神の一撃ですわ。さっきの一撃が、山に眠る死者たちを喚んだのです。愚鈍なゾンビではありませんわよ。れっきとした土地神の眷属――あのゾンビたちの対処だけでも、ソロモン騎士が出張るレベルと思ってくださいまし」
息を呑んだイスラ・カミングスにつられ、俺も唾を呑み込んだ。
その直後、俺の股の間でオレリアの首がぐるんっと動き。
「神? 神ですって? ますたぁたちは何のことを言っているのかしらぁ?」
そう言いながら俺を見上げてくる。
俺は『デモンズクラフトの箱』からカードをドローしながら、視線を森の上方へと向けた。
すると相変わらず首をもたげた巨大な黒龍が俺たちを見下ろしていて――正直、いつ攻撃されるか恐ろしいから、あまりまじまじと見たくはなかった。
俺の視線を追いかけたオレリアがきょとんとして言う。
「あれが? あんなものが――?」
そしていきなり「うーふふぅ! うっふふふっ! うははははははははぁ!」と天を仰いで派手に笑い始めた。片手で顔を隠し、不必要なまでに身体をくねらせながら、大爆笑していた。
「単なる蛇を神扱いとは! 不敬! 不敬ねえ人間!」
しかし、当然――オレリアがどれだけ笑い声を上げようとも、ゾンビ軍団は動きを止めない。とある瞬間、一斉に俺たちに向くやいなや、轟く呻き声とともに大挙して押し寄せてくるのだ。
「オレリア!!」
俺がそう叫ぶと同時――先ほどと同じ現象。
いきなり俺の眼前に、見たことのあるマジックカードがずらりと現れる。
“雷雲の落とし子”が一枚。
“雷巨神の鉄槌”が一枚。
“氾濫する焔”が二枚。
「能力を使うぞ!」
俺は即座にマジックカード“氾濫する焔”へと右手を伸ばし。
「煌々ぉ! 懺悔ぇ! 灰燼!」
笑い続けるオレリアも右腕を大きく真横に薙いだ。
すると、“氾濫する焔”発動時と同じ、巨大な業火が現れて雪原の上を暴れ回るのである。
のたうち回る大蛇のごとき炎にあえなく呑み込まれたゾンビたち。轟々と音を立てる緋色の内部にうっすらと見えた影も、次の瞬間には崩れて消えていった。
「……よろしいわぁ」
いまだ炎燃え盛る中、いきなり歩き始めたオレリア。
尋常ならざる炎によって雪が蒸発し、土までも激しく焼かれた黒い地面を、悠然とハイヒールで踏んで。
「傲岸不遜な蛇野郎にも、その血を受けた哀れな亡者どもにも――私が、神への信仰を見せてあげるぅ」
土地神へと一歩一歩近づいていく。
“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”。
『攻撃力二、防御力四。召喚条件・手札二枚破棄。このモンスターは、あなたのフィールドにいるカレイドドールと入れ替えでしか召喚できない。このモンスターが攻撃する代わりに、あなたは捨て山のマジックカードを一枚公開することができる。公開したマジックカードの発動条件が『ダイス一個による成功』だった時、このモンスターはそのマジックカードの効果を発揮する。その後、公開したマジックカードをゲームから除外する』
俺は彼女の足取りを止めなかった。
その、色っぽいながらも恐ろしい薄ら笑いをどこか心強く思いながら……神々しい顔面を半分白骨化させた黒龍、見えているだけでも十階建てのビルを楽々超える巨体を見上げていた。
「そして、我が神の降臨を待ちましょう。ねえ、ますたぁ」
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