雪の朝の祝福(前)

 特別寒いとは思わなかった。むしろ、背中に湯たんぽでも乗せられているのかと思うような、妙な暖かさと息苦しさがあった。


「……う、ぐ……」

 うつ伏せの俺はまどろみの中小さくうめいて、何はともあれ身体を起こそうとする。


 雪崩に飲み込まれた瞬間の記憶は残っていた。

 視界が白に染まり意識が途絶える直前に感じた雪の衝撃も覚えていた。


 だから、俺の身体が今どうなっているか、どうしても確認しておきたかったのである。


「…………死んでは、ない……」


 寝起きで声を出すのも億劫なのに、自分自身に言い聞かせるためだけに声をつくる。むしろどこにも痛みがないことが不思議で、不気味で、不安だった。


 ――今すぐ目覚めなければ――


 不安の感情を原動力に心臓が鼓動を早め、俺の意識と肉体を無理矢理覚醒させていく。


 俺は「くっそ……」なんて強く息を吐くと、腕を雪の地面に突き立てつつ上半身を起こすのだ。


 次の瞬間。

「んな゙~~~」

 いかにも不服そうな長い鳴き声と共に、俺の背中から何かが雪の上に転がり落ちた。ボテッという機敏さの欠片もない可愛い落下音だった。


 軽く頭を振りながら音の方に視線を送ると、長毛の三毛猫が思い切りへそを出した格好で固まっている。『よくもやってくれたな』そう言いたげな黄金の瞳と目が合った。


「ごめん。悪かったよ」


 三毛猫に向かって小さく苦笑してから、手のひらで目元を強くこする俺。

 いくら眠気が強くともこの状況で二度寝なんてあり得ない。起きてみた感じ、身体は意外と大丈夫そうだし、何がどうなっているのか理解しなければと首を回した。


 どうにも薄暗い空間。周りは本当に雪だけだ。


 俺の足下にぽっかり開いた出入口以外、四方八方を雪に囲まれている。


 かまくらと言うよりは、緊急避難的な雪洞。

 雪の山をただ横に掘り進めただけの洞穴、というのはすぐにわかった。

 高さ一メートル、幅一メートル半、奥行き三メートル。この雪の穴こそが厳冬期の山の寒さから俺を守ってくれたのだろう。


 小さな出入口から日の光が差し込んでいた。


 そして。

「申し訳ないですけど、当ホテルでは朝食の提供はやっておりませんの。お腹が空いたなら、その辺の雪でも食べていてくださいな」

 雪洞の一番奥で雪の壁に寄りかかっていたイスラ・カミングス。両足を投げ出し、気だるげに首を傾げている。


 俺は天井に頭をぶつけないよう身体の向きを変えると、静かな声でイスラに問うた。

「この穴、イスラさんが……?」


 するとイスラが右手で茶色い前髪を掻き上げ、「感謝していただく必要はありませんわ。わたくし自身が助かるついででしたので」と俺をまっすぐ見つめてくる。


「冴月さんと学生さんたちは――? いったいどれぐらい流されたんでしょう?」

「さあ? 外は雪と枯れ木だけですわ。土地神のおかげでGPSも役に立ちませんし、逆にこちらがあなたに聞きたいぐらいですわよ」

「……なんというか……我ながら運がいいです。あんな雪崩に呑み込まれて……」

「そうかもしれませんわね。わたくしを庇って正解だったと思いますわよ?」

「え?」

「雪崩に呑まれたまま崖から落ちて。そこから更に下に流されて――てっきりわたくし一人で助かるつもりでしたのに、あなたがくっついてきたから一人分余計に助けることになりましたでしょう?」

「あ――」

「ああ。猫も入れれば、一人と一匹ですわね」

「す、すみません。お手数を――」

「まあいいですわ。咄嗟に人を助けるような善人を見殺しにするのは、わたくしの主義に反しますのでね」


 思い返せば、イスラ・カミングスは悪魔を召喚中だった。きっと悪魔召喚が間に合い、雪に押し潰される前に彼女の悪魔がなんとかしてくれたのだろう。


 そして、この雪洞も多分、悪魔の手によるものだ。道具もない片腕のイスラ・カミングスが、この穴を手彫りしたとは思えなかった。


 それから俺は、雪洞の出入口へと首を回し、薄い光を一瞥する。


「もう朝なんですか?」

「日の出からもうすぐ一時間。冴月晶はまだ助けに来ませんわ」

「そうですか……冴月さんのことですから、大丈夫だとは思いますが……」

「当たり前です。彼女が命を落とせば本当におしまい。不運な学生はもちろん、わたくしだって生きてこの山を出られませんわ」


 イスラ・カミングスが真顔でそう言ったから、俺は「そ、そんなに厄介な神様が相手ですか……」なんて息を呑むしかなかった。


 しかし返ってきた答えは少し意外なもので。

「それもありますけど。わたくし、もうスッカラカンですの」

 イスラ・カミングスは自嘲気味に笑って、冷たい雪の壁に後頭部を預けるのだった。力のないため息を一つ吐いた。


「魔力、体力ともに、ね。雪崩の時に出した一匹で本当に打ち止め。それも最後は魔力不足で送還するしかありませんでしたし」


 その瞬間、俺は何も言えずに――申し訳ない――そう思っただけ。


 俺がのんきに気絶している間、イスラ・カミングスはあの雪崩から俺を守り、最後の魔力を使ってこの雪洞を掘ったのだろう。

 俺が、圧死もせず、凍死もせずにもう一度目を開けられたのは、すべてこのお人好しの悪魔使いのおかげなのだ。


「ですから、わたくしはもう、ただの婦女子。頼られても何もできませんわよ?」


 だから俺は「わかりました」と小さくうなずき、「何かあったら私が何とかします」と精一杯の強がりを口にするのである。覚悟を決める。


「あはははっ」


 イスラ・カミングスには当然のごとくに笑われてしまったけれど、だからとて俺の思いが揺らぐことはなかった。


「ええ。ええ。お願いしますわね。わたくし今、まともに歩くこともできませんから、逃げる時はまた背負ってくださいます?」

「わかりました」

「あっは♪ 即答ですわ。頼りがいのある殿方ですこと」


 それで俺はさっそくダウンジャケットのポケットを探り、昨晩使った細縄がまだポケットの中にあることを確認するのだ。助かった。雪崩の中でも落としてなかった。これがあると無いでは、大人一人を背負った時の労力がだいぶ違う。


 その時。

「にゃあ」

 不意に三毛猫が短く鳴いた。普段であれば無視してイスラ・カミングスとの会話を続けていたはずだが、突然一つ思い付いて三毛猫へと振り返る俺。


 猫は抱いておかないと。いつの間にかいなくなられても困る――そう思ったのである。


 さっきまで仰向けだった三毛猫、しかし今はスフィンクスのような座り方で、雪洞の出入口をじっと見つめていた。


「お前さん、幽霊でも見えてるのか?」

 俺が彼の腹下に両手を差し込んで抱き上げても、出入口から差し込む朝の光から目を外さなかった。それで俺も、「何か気になるのかい?」白色に光り輝く穴に注目する。


「ふっしゅ」


 耳を澄ましていなければ聞こえなかったであろう奇妙な呼吸声。てっきり猫がくしゃみでもしたのかと思って目を落とすが、まん丸で可愛い後頭部は少しも動いていなかった。


 俺は念のためと思って、三毛猫をまたシャツの中に入れる。

 ベルトを絞って準備完了。シャツの首元から顔を出した三毛猫の頭を撫でてやりつつ、しかし少しも出入口から視線を外さなかった。


 やがて。

「ツいてない。万事休すですわね」

 イスラ・カミングスも何かに気付いたようだが、今の彼女では苦笑まじりに嘆息するのが精一杯だ。一瞬振り返って彼女を見たが、さっきまでの位置・体勢から何も変わっていなかった。


「ふぅるるるるるる」


 どこか、風声のようにも聞こえる謎の音。しかし音の端々から漂ってくる生々しい湿り気が、それが単なる自然現象でないことを俺に直感させるのだ。


 不気味な化け物の、不気味な鼻息……なんとなくそんなことを想像してゾッとした。


 息を呑み、まばたきもせずに凝視していると。

 ――シャク――

 新雪の潰れる軽い音がして、雪洞の出入口の縁に薄い影が乗る。


 それで咄嗟に自らの右手付近に視線を飛ばした俺。人間の左手を組み合わせてつくられた異形の物体――『デモンズクラフトの箱』が浮かんでいるのを見て、心臓が止まりそうになる。


 デモンズクラフトの発動は、そのまま脅威出現の合図だ。


 冴月晶はいない。

 イスラ・カミングスは頼れない。


 俺だけ――今回ばかりは俺だけで、この場を切り抜けなければならないのだ。化け物と戦わなければならないのだ。

 逡巡している暇も、恐怖している暇もなかった。


「ちくしょう」

 そう小さく口走ってデモンズクラフトの箱が吐き出したカードに手を伸ばした瞬間。

「ふしゅるぅ」

 雪洞の出入口いっぱいにおぞましい笑顔が現れる。


 面長で、血の気のない青白い肌で、白目のない真っ黒な両目からタールのごときドス黒い涙を流した、巨大な人間の笑い顔が穴の中を覗いてきたのである。


 色鮮やかな赤い口内に、黒ずんだ乱杭歯が無秩序に並んでいた。

 異形の双眸とばっちりと目が合ってしまった。


 だが――俺の右手は、五枚の手札からすでに一枚のモンスターカードを抜き取っており。

「リーサぁ!」

 エゼルリードと戦った昨晩同様、真っ先に手札に来てくれた優良モンスターの名前を呼ぶのだ。


 口を開けた巨顔が両肩をねじ込むように雪洞に侵入してきた刹那、「わっ――ぷ!?」目の前の雪が爆発し、俺の視界を白一色で埋め尽くした。

 思わず目をつむったら――その瞬間『何者かの小さな両手』が俺の腰をしっかり掴み――俺は、そのまま力任せに真上に投げ飛ばされたようだ。


 薄い雪の天井をぶち抜いたであろう衝撃の後。

「ひい――っ」

 強烈な加速度、唐突な浮遊感、そして背筋も凍る冷たい空気に包まれて、思わず息を止める俺。全身の筋肉という筋肉を硬直させる。


「マスター! 昨日ぶりですの!」


 明るいその声に促されて目蓋を上げると、視界に青と白が広がった。重たい雪雲の切れ間に現れた朝の空と大量の新雪に埋まった森だ。


 明らかに地上百メートル以上。


 俺は、パラシュートもないままに空中に投げ出されており、いくら下が雪溜まりでもこのまま落ちれば普通に死ぬだろ――そう思わざるを得ない。


 だが、隣を見ると、イスラ・カミングスと幼げな踊り子人形も俺と同じ高さの空にいて。

「怪物だらけですの! マスター、いったい何したんですの!?」

 肩出しの純白コルセットドレスと短いチュチュスカートで着飾った踊り子人形がカラカラ笑った。踊り子人形のひたいから伸びた赤い一本角が、陽光を反射してキラリと光る。


 “カレイドドール・愛らしき踊り子リーサ”。


 そして俺は、彼女のはつらつとした姿に、思わずホッとしてしまう。

 強い風音に負けないように叫んだ。


「リーサ!」

「何ですのマスター。攻撃しますの?」

「昨日! ありがとうな!」

「うは――?」


 昨晩、俺を守るためにバラバラに砕け散った愛らしき踊り子人形、感謝の言葉を伝えられないままでいたのがずっと心残りだった。だから、もしももう一度召喚できたなら、真っ先に『ありがとう』を伝えねばと心に決めていたのである。


 すると。

「も、もーぉ。マスターはいちいち人が良いですねえ」

 踊り子リーサの右手が伸びてくる。彼女の前腕部の中程から先が、ロケットのごとく俺に向かって射出されたのだ。


 有線式だったそれは、俺の服を掴むやいなや、即座に元の位置に戻り。

「おかげでリーサも優しいお人形になってしまいますの」

 見ればイスラ・カミングスも踊り子リーサの左手に掴まれて、俺と同様に人形の頭上に掲げられていた。


 隣り合ったイスラ・カミングスと目が合う。綺麗な黒瞳が驚愕に見開かれていた。

「――イズミさん――」


 直後、大量の雪煙を巻き上げて雪上に着地した踊り子リーサ。着地の衝撃はほとんど彼女が引き受けてくれたらしく、俺もイスラ・カミングスも地上百メートル超から生還して軽い衝撃を覚えたくらいだ。


 それで俺は、すぐさま踊り子リーサの頭上から降ろしてもらう。


「イスラさんはこっちで何とかするから! リーサは戦闘に集中してくれ!」


 イスラ・カミングスも受け取って、まともに立つことすらできない彼女を俺の背中に乗せた。


 膝立ちのままダウンジャケットのポケットから細縄を取り出すと、それで俺とイスラ・カミングスの胴体をぐるぐる巻きにする。とにかくほどけないように、ズレてしまわないように、それだけを考えてキツく縄を結んだ。


「ぐ――っ」


 そのまま立ち上がろうとするが、正直、三毛猫とイスラ・カミングスが重すぎて半端な力の入れ方では腰も上がらない。息を止めて、太ももに全力を込めることで腰を上げた。


「それで? どいつから攻撃しますの?」


 横に立った踊り子リーサに言われ。

「ええと。別にどいつでも、手近な奴でいいんだが――」

 俺たちの周りに立ち込めた雪煙に目を凝らした俺。白もやの向こうにうっすら見えた影の数にドキッとするのである。


 十や二十ではない。やけにほっそりとした四足動物の影が、三百六十度、奥にも手前にも、あちこち存在しているようだった。


 瞬間、強い横風が到来し、呆気なく吹き飛んでいった雪煙。


「……うげ……」


 その後、俺の目に飛び込んできた異形の全容は、確かに『犬』のようでもあり、『四つ足で歩く人影』のようでもあった。


「……そうか……こいつらが、学生さんが追いかけられたっていう……」


 シルエットはガリガリに痩せ細った、深い前傾姿勢の人間。しかしその巨体は、身長三メートルを超えるだろうし、二の腕だけが異様に長く、自然と両手が地面に着いているのだ。当然、全裸である。


 そして――先ほど俺と目が合ったあの不気味な顔面。


 毛髪の豊かな怪物もいれば、禿頭の怪物もいたが、どいつもこいつも真っ黒な双眸から黒い涙を流した顔でこちらを見つめていた。ただの一つだって生命感の感じられない黒い瞳。


 とはいえ青白い肌は顔だけで、首の半ばから紫色に変わる。まるで首から下すべてが内出血しているみたく、死斑に覆われた死体のように、紫のまだら模様が気味悪かった。


「ふしゅるぅ」


 俺たちの姿を確認であろう怪物たち。その内の一匹がいきなりニタリと笑うと、そのままの笑顔でこちらに猛然と突っ込んできて――


「リーサ!」

 俺は反射的に声を上げた。


 次の瞬間、踊り子リーサの両腕そのものが幅広のサーベルに変形し、「おまかせですの!」ジグザグに地を駆け回りながら怪物の突進を迎え撃つ。


 俺が想像したのは、踊り子リーサが難なく怪物の首を落とす光景だ。


 しかし激突の瞬間。

「んきゃっ」

 ガギッという嫌な金属音と共に跳ね飛ばされたのは俺の踊り子人形で、「おっ――嘘だろう!?」思わず驚愕の声が漏れてしまう。


 確かに踊り子リーサは跳び上がって怪物の首筋にサーベルを当てた。

 だが、怪物の表皮が鋼鉄よりも硬くて切り裂けなかったのだ。思い切りサーベルを振った分、強い衝撃がそのまま自分に返ってきて吹っ飛ぶことになったのだろう。


 踊り子リーサはやられたわけではない。


 だからこそ喫緊の問題は――今まさに突撃してくる怪物をどうするかということ。


 俺は、左手の手札に目を走らせ、即座にマジックカードを一枚切った。

 “生き残りの障壁”。

 イスラ・カミングスを背負ったままでは、迅速な回避行動は無理と判断したのだ。マジックカードをケチって横っ飛びするぐらいなら『ダイスの二分の一』に賭けた方が幾らかマシと。


 発動判定中の時間停止世界で俺が見たダイスの数字は、六。発動成功。


『このカードを発動したプレイヤーとその支配モンスターは、六十秒の間、攻撃を受けず、相手の効果も受けない』


 怪物衝突の直前、不可視の障壁が俺の周囲に張り巡らされ――こうなってしまえば神様だってきっと俺を殺せない。

 虎かライオンがごとくに腕を伸ばして飛び掛かってきた怪物を呆気なく弾き飛ばした。 


 振り下ろした汚い爪を防がれバランスを崩した怪物は、突進そのままの勢いで俺たちの隣を抜ける。すぐさま俺たちの背後で盛大に転んだようだ。


「ちょっとイズミさんっ! 説明してくださる!?」


 背中のイスラ・カミングスからかすれた驚嘆が上がり、しかし俺は苦笑いを浮かべただけ。


 ――常人だと思っていた三十男が異能を振るう――


 熟練の悪魔使いにとってそれは看過できない事案だったらしいが、俺に起きた不運を一から十まで説明する時間はなく、『魔法使い』を自称するほどの図々しさも持ち合わせていない。


「聞いてますの!? ねえっ、イズミさんっ?」


 だから俺はわざとその疑問を無視して。

「かってぇですの。ちっとも刃が入りませんの」

 そうぼやきながら俺のそばに着地した踊り子リーサに向いた。


「予想外だよ。見た目、リーサの攻撃も通じると思ったんだが」

「多分、リーサの攻撃力だとギリギリ無理ですの」


 “生き残りの障壁”の効果はあと四十秒近く残っている。俺は『デモンズクラフトの箱』からカードを一枚ドローし、それを踊り子リーサに見せた。


「ギリギリなら、これ、行ってみようか」


 すると、マジックカードでもモンスターカードでもない一枚に、踊り子リーサはぴょんと小さく跳びはね、「リーサを強化してくれますの!?」嬉しそうに俺の太ももにしがみついてくる。


「光栄ですの! このキモい奴ら、全員血祭りに上げてみせますの!」


 愛らしい笑顔に見上げられ、「リーサがそう言うなら、頼もしいな」俺は右手のカードを宙に放った。俺たちに『確実な恩寵』を与えてくれる、奇妙な名前のカードを。


 グレイスカード、“古き歌よ。我が友の歩みを支えたまえ”。


『発動条件:なし。このカードはあなたが新たにグレイスカードを発動させるまでフィールドに残る。あなたが支配するモンスターの攻撃力をプラス一、防御力をプラス一する』


 すると。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 どこか空の果てから、山の向こうから、数百人規模の男女混声歌が俺たちに届く。老若男女、数多の歌声が雪山すべてに広がっていく。


 女性の『ア』と男性の『オ』という声だけで構成されたアップテンポなメロディ。主旋律の裏に聞こえる楽器は、か細い笛の音とこもった太鼓の音だけだった。


「……凄いな。これが、グレイスカード……」

「だからぁイズミさんっ、いったい何なのですの!? あの人形も! この歌も!」

「んなぁ~~」


 聞いたことなんてあるはずがないのに、どこか懐かしくも感じる歌。まるで全人類が焚き火を囲んでいた時代に歌われていたような……。魂の奥が震えるような。


 そして、古い歌は、怪物たちの耳にも聞こえているらしい。

 最初は空気を震わせる異変に視線を泳がせていたが、やがて俺たちの仕業だと気付いてこちらに意識を向けた。


 あちらを向いても、こちらを見ても、黒い涙に濡れた不気味な顔面と目が合う。しかし俺はたいして恐れることもなく、踊り子リーサの頭を右手で撫でながら言った。


「行けるか? リーサ」

「もちろんですの」


 二十を超える怪物の群れにぐるりと囲まれて、俺が恐怖に足をすくませないでいられるのも、俺の優秀なモンスターが自信満々で俺の前に出てくれるからだ。


「カレイドドール随一の舞踏をご覧に入れますの」


 それで俺はまた『デモンズクラフトの箱』から一枚カードを引き、マジックカード“雷雲の落とし子”を手札に加えた。


 吹き抜けた風音を掻き消しながら聞こえてくる古い歌に耳を澄ます。


 俺が空が飛んだことも、踊り子リーサの攻撃が通らなかったことも、“生き残りの障壁”が成功したことも、グレイスカードが発動したことも――今までのやり取りは最序盤の小手調べ。

 この場を切り抜ける戦いは、これからが本番なのだ。


「攻撃」


 俺の右人差し指が、先ほど俺に襲いかかってきた怪物を指差し。

「っ――!」

 即座、踊り子リーサが無言で飛び出した。


 西洋人形の球体関節が、鮮やかなオレンジ色に光り輝くのが見え――三歩を踏んだところで、彼女は俺の動体視力を容易く超えてしまう。


 その後に俺が見たのは、怪物の奇怪な頭部が空中を舞い飛んだのと、首の断面からほとばしる真っ黒な血煙だった。


「……マジで、何なんですのよ……?」


 俺の耳元でイスラ・カミングスが困惑の声を漏らしたが、それは俺も同じ。

 攻撃力と防御力を一点ずつ上げただけで強すぎないか? なんて無粋な疑問を押し殺し、『デモンズクラフトの箱』から勝手に飛び出して空中で回転するカード二枚を見るのだ。


 “カレイドドール・愛らしき踊り子リーサ”の特殊能力が発動していた。 

『攻撃力二、防御力二。召喚条件・なし。このモンスターが相手モンスターを破壊した時、またはこのモンスターが相手モンスターの攻撃・特殊能力によって破壊された時、あなたはデッキの上から二枚を公開する。あなたはその中のカレイドドールを一枚手札に加える』


 俺は“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”を手札に加え、選ばなかった“カレイドドール・寡黙なパティスリー フランセット”は光の粒子となって消えた。


 白い息を吐き、無理矢理心を静める俺。

「マジックで大半仕留めて。残りはリーサ。最悪、オレリア――」

 なんて小さく呟いて腰を落とすと、背中のイスラ・カミングスに短く告げた。


「奴ら、ここで全滅させますから」


 次の瞬間――俺とイスラ・カミングスが見たのは、同族の首を刈り取られて一気に色めき立った怪物の群れ。二十を優に超える異形がほとんど一斉にこちらへと走り出すのを目撃した。


「マスター。まずは迎え撃ちますの?」

 風のような速度で俺の元に戻ってきた踊り子リーサにそう言われ。


「至近距離でマジックぶち込んでやるさ。手っ取り早いだろう?」

 俺は、口端をヒクつかせながらも無理矢理笑い、“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”以外、マジックカードで埋まった手札をチラ見するのだ。


 ――最初に数が減らせれば――


 さすがに怪物の数が多いと思っていた。踊り子リーサに運んでもらいながら高速戦闘を展開、各個撃破をしていくにも、さすがに二十匹超は多すぎる。


 あの怪物たちにどれほどの思考力があるかは知らないが……俺と踊り子リーサめがけて殺到してくれるなら好都合。マジックカード連発で消し炭にすることに決めた。


「ふっしゅ!」

「ふしゅる!」

「ふしゅるる!」


 おぞましい涙顔が新雪を撒き散らしながら、猛スピードで突っ込んでくる。


「いっ、イズミさん!」

 イスラ・カミングスが悲鳴のように声を上擦らせたその時、俺の右手はすでにカードを一枚抜いていて、「眩しいですよ!」成功判定まで終えてそう叫んでいた。


 “雷雲の落とし子”。

 稲妻の一撃を撃ち込む攻撃マジック。


 すると、俺の頭上五メートルに現れた雷球から太い紫電が放たれ――目前まで迫ってきていた怪物一体の身体を撃ち抜いてみせる。


 しかし、“雷雲の落とし子”の効果はそこで終わらない。


 まるで空中を泳ぐ蛇のようにうねり、くねり、最初の犠牲者の近くにいた別の怪物、それからまた隣の怪物へと伝播していった。強烈な閃光と空気の爆発音を撒き散らしながら、だ。


 最終的には、俺たちの周囲を大きく一周して――雷が進む先に存在した『何もかも』を殺し尽くした。

 怪物も、雪も、何もかも、すべて。


 果たして、十秒間暴れ回った稲妻に、イスラ・カミングスはどんな感情を抱いたのだろうか。


「こ、こんなの――ソロモン騎士の使う高等魔法じゃありませんか……っ!」

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