生死の十字路
「犬が、犬が――」
冷え切ってまともに動けない大学生五人を雪洞から引っぱり上げるのは骨が折れた。
なにしろ、細縄を固く結びすぎていたせいで、背中からイスラ・カミングスを下ろせなかったのである。かじかんだ指ではすぐさま結び目をほどけず、冴月晶に頼んで縄を斬ってもらうのも後々のことを考えれば困りもの。
それでとりあえずイスラを背負ったまま、大学生五人の救出活動を優先した。
腰が痛い。
ちょっと一瞬、ギックリ腰になりかけた瞬間があった。
そして俺は――俺が助けた男性三人、冴月晶が助けた女性二人が、雪原にへたり込んで震えているのを見て。
「さて……」
途方に暮れるのだ。さすがに五人とも今すぐ保温がいる。
どうしてここにいるのか、いったい何があったのか――聞きたいことは色々あったが、まずは命の安全を確保する方が先決だ。
自力での下山は無理だろうと救助ヘリを呼ぶことも考えてみるが……ポケットからスマートフォンを取り出してみれば、悪魔エゼルリードと戦う前と同じく『圏外』の表示はそのままだった。
エゼルリードとは一線を画す力――この地に住まう土地神が引き起こしているという異変はいまだ継続中らしい。エゼルリードを消し飛ばしたことで妙な達成感を覚えていたが、その実、ほとんど何も解決してはいないのだ。
「……じきに夜明けだってのに……」
ポツリとそう呟くと、ボウッと空気が鳴って宙に青白い炎が灯った。
こぶし大の青い火の玉――鬼火というのだろうか。
それが突然、二十も三十も現れ、大学生五人のそばを漂い始めるのである。やがて、彼ら彼女らの懐近くで静止し、焚き火代わりとなってくれた。
冴月晶の仕業ではないなと思った。彼女が使う魔法は、何かしらの剣の形をしているものが多いから。
すると案の定、「炎の悪魔を喚んだ方が手っ取り早かったかもしれませんわね」と、俺の背中から声が上がる。
俺は「あんまり一気に熱を入れると雪崩が起きますよ」なんて苦笑しながら、イスラがずり落ちないよう腰をかがめつつ細縄の結び目へと両手を伸ばした。
そして今さらになって、二重、三重に縄を結んだことを後悔するのである。どうやってほどけばいいかがまったくわからない。結び目が固くてビクともしなかった。
腰をかがめたまま試行錯誤すること一分ちょっと。
「和泉様。ボクがやりましょう」
見かねた冴月晶が小走りで助けに来てくれる。抱えていた長毛の三毛猫を足元に下ろしてから「なるほど。これは少し手強い」と、めちゃくちゃな結び目に苦笑を漏らした。
「す、すみません。適当にやってしまって」
「いえ大丈夫です。でも、ボクとのトレーニング時間にロープワークを少しやってもいいかもですね。覚えておいて悪い技術ではありませんし」
「ひもの結び方、子供の頃に母親がいくつか教えてくれた気もするんですが――結局、蝶結びぐらいしか覚えてなくて……」
「事務仕事ならそんなものです。普段、ゴミ出しぐらいでしか、ひもに触ることなんてないでしょうし――はい、これでいいです」
「え、もう?」
「少しコツがありまして。また時間がある時にお教えします」
そう言った冴月晶が腕を引くと、俺とイスラ・カミングスの胴体をくくっていた細縄があっけなくほどけて冴月晶の手の中に収まっていく。
ようやくだ。ようやくイスラ・カミングスの重さから解放された。
左腕を丸ごと失い、しかし大して落ち込んでいるわけでもない悪魔召喚士。雪山に似つかわしくないハイヒールブーツで雪原を踏むと、すぐさま俺に向かって怪訝そうな表情をつくる。
「解せませんわね。ロープの結び方一つ知らないような男が、ソロモン騎士の同伴者とは。……イズミさんと言いましたかしら? あなた、いったい何なんですの?」
俺はその質問に苦笑だけを返し、冴月晶が綺麗に束ねてくれた細縄をダウンジャケットのポケットに突っ込んだ。
足元にじゃれついてきていた三毛猫を抱き上げると――この何とも愛らしい獣をお供に、大学生たちの元に向かう。
「何はともあれ、五人とも無事で良かったです」
そう愛想笑いをつくりつつ、昼間バスの中で俺に話しかけてきた金髪スポーツ刈りの青年の眼前に、鬼火を挟む形で腰を下ろした。
果たして――怪奇現象慣れしていない大学生の目に、俺という人間はどう映っているのだろう。人の皮を被った化け物に見えているかもしれない。そう思ったからこそ、できるだけ落ち着いた声で話しかけてやる。
「大変でしたね。実は私、こういった事態にちょっとした心得がありまして。助けを――世界屈指の専門家を連れてきました。もう大丈夫ですから」
すると、目深にフードを被った冴月晶が俺の背後に立ってくれた。
それで俺は、力の抜けた笑みも交えながら「私もね、最初、彼女に助けられた口なのですよ」と、親指で冴月晶を指し示すのである。
「色々あったんでしょうが、私もあなたも出会いだけは幸運だ。半端な霊能力者じゃなくて、本物の魔法使いに守ってもらえるんですから。絶対に大丈夫です。悪霊だろうが、悪魔だろうがね、ものの数じゃありません」
金髪スポーツ刈りの大学生は最初、疲れ切った虚ろな眼で鬼火を見つめていたが、そのうち俺の膝上で腹を見せる三毛猫の可愛さに気づいたらしい。ゆっくり揺れる尻尾、空中を踏む前足、俺に揉みしだかれる立派な腹に思わず唇を持ち上げた。
やがて「犬が、いたんすよ――」とかすれ声を漏らす。
「犬? ゆっくりでいいですから、話してもらえませんか? あなたたち五人に、いったい何があったのか」
俺の問い掛けに応じて金髪大学生が唇を開いたが、すぐに言葉は出て来なかった。喉が枯れていたのか、少し慌てたようにそばの雪を手に取って口に入れる。三度咀嚼の後それを飲み込んでから、冷たい吐息を一つ。
今にも泣き出してしまいそうな、鼻にかかった声をつくるのだ。
「東雲旅館にチェックインしてから、オレら、みんなで山に入ったんす」
「昼間言ってた、山の中の温泉を探しに?」
「うっす……天気も良かったから、今日なら行けるだろうって……天気を軽く考えてたわけじゃないんす。でもオレら、気付いたら――めっちゃガスってる場所に入っちまって、どこ歩いてんのかもわかんなくなって……」
「いつ頃の話でしょう? 昼過ぎには雪が降り始めましたよね?」
「雪も降ってました。でも、雪よりも全然ガスの方がヤバくて。旅館戻りてぇのにどこ見ても真っ白だし、自分たちが雪を踏んだ跡も見失うし」
「それで……遭難した、と……?」
「……遭難……だったんすかね、あれ……」
「どういうことです?」
「オレら、下手に動いたら絶対に遭難するからって、できるだけ動かないようにしてて……でも、霧が晴れたら変なところにいたんすよ。めちゃくちゃ広い、真っ平らな場所です」
「平ら? この北アルプスの山奥で?」
「あんなの、ここの山じゃねえっすよ。オレらは山の中で迷ったのに、前にも後ろにも森がなくなってたんすから」
「詳しく言えますか? あなたたちが見た景色がどんなだったか」
「……高原…………灰色の高原っす。遠くに変な形の独立峰が見えて――」
「……灰色に……独立峰……」
俺が金髪大学生の言葉を反芻した次の瞬間、蛍光イエローの防寒手袋に包まれた彼の拳が雪の地面を叩いた。それから「あそこなんだったんだよっ!?」なんて声を荒げると、鼻水と唾を飛ばしながら、混乱と恐怖の感情を俺に訴えてくる。
「雪は降ってんすけど、全然冷たくないんすよ! だって降ってんの雪じゃねえんですもん! 灰ですよ! 灰が降ってたんすから!」
俺は眉間にしわを寄せただけ。
『灰が降る高原』とは聞き捨てならない。しかし俺はソロモン騎士ではなく、有識の魔法使いでもなく、今は彼の泣き声に耳を傾けるしかなかった。
彼から伝えられた情報を踏まえ、あとで冴月晶と作戦会議だな――そう思った。
「……最初は、どこか雪原に出たと思ったんす……でも、由貴子が雪じゃないって気付いて……辺り一面、足が埋まるぐらいの灰に覆われてて……」
「灰だけしかなかったのですか? 広い土地に灰だけ?」
すると涙をぬぐった金髪大学生が頭を振り、背後の大岩へと一瞬だけ視線を送る。
「……ちょっと、ここみたいな感じかも……」
「ここ、ですか?」
「岩が……でっけえ岩がこんな感じに結構ゴロゴロしてて……それと、変に明るいんすよ。めっちゃ曇ってて、太陽なんて出てねえのに」
「……なるほど」
「それで、さすがにヤバいってなって助けを呼ぼうとしたんすけど――携帯、使えなくて。そのうち信幸と美香が『山に行く』なんて言い出すし」
「それは――遠くに見えたという山に?」
「……うっす……理由聞いても、『山には人がいるから』とか、訳わかんねぇことしか言わねぇんです。それでオレ、信幸殴って止めたんすけど……美香の奴が走って行っちまって。オレが追い掛けなきゃいけなくなって――でっ、でもっ! オレは嫌だったんすよ!? 山になんて近づきたくなかった!」
「落ち着いて。あなたたち五人、誰一人欠けることなくここにいるじゃないですか。五人ともしっかり生きておいでだ。大丈夫、落ち着いて」
「すんません。オレ、本当は山が……山が怖かったんす……」
「普通ですよ。常識じゃないことが起きたんですから、誰だって怖いと感じます。平然としていられるのなら、それはもう、一般人じゃない。魔法使いとか、どこぞの組織の黒服さんとか、こういう超常現象を収める側の人間です」
思い切り苦笑した俺につられたのだろう。「はは――」金髪大学生の表情にもかすかな笑みが宿った。それで俺は、それとなく話の続きを促すのである。
「そういえば私も初めて怪異に出会った時、助けてくれた魔法使いにファミレスで話を聞いてもらいましてね。あれでだいぶ気が楽になりました」
すると俺の後ろで冴月晶がくすりと笑った。
俺と冴月晶の初対面――ファミレスで話し込んだのは、俺を襲った怪異についてではない。ほとんど、大人気カードゲーム・ワイズマンズクラフトのことだ。
……俺の場合……サウスクイーンアイドルの冴月晶が魔法使い兼カードゲーマーで、悪霊どころじゃなかったからな……。
嘘は言っていない。俺自身、冴月晶と話せたことで悪霊のことをあまり引きずらなかった。話題は何であれ、『会話』という行為は、恐怖を静めるのに一役買ってくれただろう。
金髪大学生は青く揺らめく鬼火をじっと見つめ、やがて「……いきなりっす……着物の女がいたんすよ。そしたら犬も……」と小さく呟いた。
「御友人を追い掛けている時のことでしょうか?」
俺の問い掛けに小さくうなずいた金髪大学生。
「美香の向こうに着物の女が立ってて。絶対やべえって思ったから、本気で美香に追い付いたんす」
「その女性は、あなたと御友人に何か危害を?」
「危害? いや、どうだろう……その女には、特別何もされてねえんですけど……美香を引っ張って戻ろうとしたら、犬の遠吠えが聞こえたから……」
「逃げた?」
「……だってその女、俺たちを見て笑ってたんすもん……」
「そうですか。それは多分、逃げて正解でしょう」
俺がそう言うと、不意に「ははは」金髪大学生が小さく笑った。苦笑のような、自嘲のような、安堵のような――なんとも微笑な笑いだった。
「オレ凄くないです? あんな美人見て、ソッコーで逃げれたんすから。いつものオレなら、絶対声かけてました。それぐらいの美人」
すると俺も苦笑しながら「羨ましい、なんて言うべきではないのでしょうが。私の時は完全にホラーでしたよ。夢に出てきそうな悪霊でした」なんて話を合わせる。
「その人、芸能人で言うと誰似だったんです?」
「芸能人すか? えっと……どうだろう? 黒髪ロングのクールビューティーって感じなんすけど……あれ? めっちゃ似てる奴いる気がするなぁ。女優? なんか思い付かない」
俺の何気ない質問に首をひねって答えを絞り出そうとする金髪大学生。
俺は「すみません。話が飛びましたね」と軽く謝ってから、さっきから気になっている疑問を投げ掛けるのだ。
「あの。それで、犬というのは?」
瞬間的に金髪大学生の顔色が変わった。血の気が引いたというべきだろう。
「犬っすよ……あれは、ぜってぇ犬だったんすよ……多分」
「あの……もしかして、化け物だったんですか? まともな犬じゃなくて」
「……人間っぽい顔の犬もいるじゃないすか。ユウヤんちのボクサー犬だって、マジおっさん顔だし……」
「……まさか人面犬が出てきたとか?」
「違――っ。何言ってんすか! ただの犬っすよ! ただの、でかい犬の群れに追い掛けられただけです! 他の四人だってそう思ってますよ!」
「落ち着いて。落ち着いてください」
「オレは何も知らねえし! 何もわかりませんよ! むしろ教えてくださいよっ! 何が起こってるのか!? オレらが何かしたんすか!? オレらがっ、あんな化け物に追われるようなっ、何か悪いことを!」
『人面犬』という言葉をきっかけに声を荒げ始めた金髪大学生。
とはいえ、止まらなくなった泣き声雑じりの叫びに俺が「大丈夫だから落ち着け!」と語気を強くしただけで、「すっ――す、すんません……すんません……」と下を向いて黙り込んでしまう。
すると膝上の三毛猫が「なぁ~ん」と喉を鳴らし……俺は、自らの後頭部を掻いて困り果てるしかなかった。
ため息を吐いてから「それで? あなたは、どこでどう、彼らと関係するんですか?」と、巨石にもたれかかっていたイスラ・カミングスへと視線を動かしてみる。
チェスターコートの茶髪女性は笑って言った。
「惨めったらしく撤退していた時ですわ。吹雪の向こうから彼ら五人が走ってくるのが見えましたの。それで、見て見ぬふりもできませんでしたのでね。ふふふ――こう見えて、わたくし、結構な善人で通ってますのよ?」
「イスラさんも『灰色の高原』に?」
「いいえ~。わたくしたちが忍び込ん――こほん。お邪魔したのは、ここから少し登ったところにある神社。物置のようなちっぽけな社ですわ。……とはいえ、社に足を踏み入れてすぐ、『子供』と『母親』の襲撃を受けまして……苦しまぎれに大火力の魔法ぶっ放しましたから、社そのものは、もう跡形もありませんけど」
「あの、イスラさん……子供って……それって男の子です?」
「ええ。日本のトラディショナルな服を着た少年。まさかイズミさんもご存じ?」
「……おそらく……」
「奇遇ですわね。しかしながら、母親共々、恐るべき相手でしたわ。土地神の類いなのでしょうけど、わたくしの悪魔を白パンがごとくに引き裂いてくれやがるとは」
と――そこで冴月晶がぼそっと口を挟んだ。
「脅威の程度は、あなたの召喚した悪魔の程度によるのでは?」
すぐさまイスラ・カミングスの眉が不機嫌そうに動く。
「アザマグラードですわ。あなたも魔法使いなら名前ぐらいは聞いたことがあるのではなくて? 逆さ角のアザマグラード」
「アザマ? さあ、どうでしょうか。聞いたことがあるような、ないような」
「むか。喧嘩売ってんですの?」
微妙に剣呑な空気に俺は「まあまあ」と苦笑いするしかなかった。
「イスラさんは、『犬』についてはどうでしょう? そちらは見ました?」
「『犬』……アレを犬と呼称するかどうかは人によりますわね」
「見たんですね」
「といってもワタクシが見たのは、黒い後ろ姿だけですわ。それと遠吠えの群れ。吹雪の向こうに見えたアレ……わたくしなら『四つ足で歩く人影』と伝えます」
「なるほど」
「しかしです。どうにかするなら、わたくしをここまで追い詰めてくれた神の方が先ではなくて? 一般人にさえ逃げられるような愚鈍な異形ではなく」
それで俺は冴月晶の判断が聞きたくて彼女に振り返るのだが……目に入ってきたのは絶世の美貌ではなく――目深に被ったフードに隠された横顔だった。
雪原の奥の暗闇を静かに見つめていた冴月晶。どういうわけか、その両手には銀の十字剣がそれぞれ握られている。
次の瞬間、ハッと思い付いて、冴月晶に短く問うた。
「敵ですか?」
「……おそらく。何かが、山の上からこちらに向かってきております」
慌てて立ち上がる。
何はともあれ、膝上の三毛猫を服の中に突っ込みながら、「立って! 皆さんも立ってください! 何か来ます!」五人の大学生にそう呼び掛けた。
俺の言葉を冗談と笑う者など誰もいない。五人ともがほとんど泣き顔で疲弊しきった身体に鞭を打つのだ。
不意に――
「佐久間! てめえがオレらを飛騨なんかに誘ったから!」
金髪大学生が眼鏡の青年に飛びかかろうとするが。
「やめろ!! そんな場合じゃないだろ!!」
俺が少し声を荒げただけでビクリと身体を縮こまらせて、「すんません。すんません」と俺の顔色をうかがうようにこちらを見てくる。
すぐさまショートカットの女子大学生が金髪大学生の背中をさすり、「いったん落ち着こ? 拓人が一番がんばってるの、わたし知ってるから」そう言って彼をなだめてくれた。
そして、仲むつまじい若者の姿に一息ついた時だ。
――――ッ!!
俺のすぐ真後ろで生まれた耳障りな激突音。妙に鈍い音。
反射的に振り返ったら――冴月晶の身体正面で十字に構えられた銀剣と、坊主頭の少年の履いた草履がぶつかっていた。
いったいどこから飛び蹴りが飛んできたのか、俺にはまったくわからない。
しかし、たった一つ明らかなこと……冴月晶に飛び蹴りをかました坊主頭の少年は、あどけない幼顔といい、時代がかった格子柄の紺色着物といい、俺が読神沙也佳の屋敷で見た『少年の姿をした恐ろしい何か』に間違いなかった。
「冴月さん!!」
そう叫びながら右手を伸ばした。外敵の出現、俺自身の命の危機に、『デモンズクラフトの箱』を探したのである。
しかし俺の右手が純黒色のカードを掴むことはなく、「馬っ鹿、あいつ――!」デモンズクラフトの発動を操作しているであろう褐色美少年――魔王への不満が口をついて出た。
冴月晶は坊主頭の少年の飛び蹴りに押し負けることもなく。
「和泉様! ここはボクが!」
鋭い蹴り上げを放って、坊主頭の少年を飛び退らせる。
それから即座に右手の銀剣を真横に振ると、空中にダガーナイフの群れが出現。いまだ雪原に着地していない坊主頭の少年に一斉に飛び掛かった。
――――――――――
柔らかい肉に刃が突き立つなんとも言えない音が幾重にも重なり、坊主頭の少年が針山のごとき無惨な姿に変わる。
顔面、胴体、両腕、両足。突き立ったダガーナイフの総数は、五十や六十ではきかないだろう。
しかし俺は、それ以上に――何十もの刃物が肉を刺してなお雪原が赤く染まらない。一滴も血が落ちない――という事実に言葉を失った。
……まるで血の通わぬ人形をめった刺しにしたかのよう……。
平然と雪原に立つ坊主頭の少年に俺は息を呑み、恐怖によって冷えた頭でそんなことを考えるのだ。俺や冴月晶が予想した通り、やはり尋常な相手ではなかった。
「お下がりください和泉様。この神――少々お時間をいただくやもしれません」
「お、お願いします。学生さんはこっちでなんとかしますから」
何一つうろたえた素振りもなく俺たちの前に出てくれた冴月晶の後ろ姿だけが、今は頼りだ。
いつになったらデモンズクラフトが発動するかもわからず、俺は己の無力を思い知るばかり。大学生五人に振り返って「大丈夫。魔法使いの化け物退治を、後ろから見てるだけでいいんですから」なんて、作り笑いで彼らを励ますぐらいが関の山だった。
それから十秒を超える沈黙の後、ボト、ボト、ボト、ボト――と、坊主頭の少年に刺さったダガーナイフがひとりでに抜け始める。
それとほとんど同時に、冴月晶の呪文詠唱が始まった。
「極北の鋼 白夜の硝子 吟遊詩人は口をつぐみ 天秤は星空をこぼすだろう ロヴンエイルの水面 乙女たちは凍土の剣を掲げ 明星の捕食者へと指を向ける」
幾重にも重なり合う澄んだ声。
呪文が進むにつれて冴月晶の左右に銀剣の群れが出現し、月明かりに刃を輝かせていった。銀剣の群れはあっという間に百を超え、すべての切っ先を少年に向ける。
「これなら、少しは痛いと思ってもらえますか?」
すると、冴月晶の華奢な後ろ姿――白マントに覆われた右肩が軽く動いた。右手を持ち上げたのだろう。
しかし意外にも、先手を取ったのは坊主頭の少年の方。
銀剣の群れが空を駆け出すよりも数瞬早く口を開け。
「があじゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
赤ん坊の産声を数百倍に増幅させたような叫び声を雪山すべてに響かせたのである。冴月晶や俺たちをきょとんと見つめた表情のままで、だ。
恐ろしいというか、おぞましいとまで思ってしまう声。
俺は反射的に両耳を塞ぐものの、凄まじい怖気が背筋を駆け抜けていった。
「――あああああああああああああああっ!! じゅ――」
冴月晶の銀剣魔法がすぐさま少年の喉を貫いて声を止めてくれても、鼓膜と脳髄が痺れるほど余韻が残る。自ら後頭部を叩いて、なんとか意識を保とうとした。
「な、なんだ今の声……」
頭を振って、短く息を吐いて、それでようやく辺りを見るだけの余裕ができる。
いつの間にか――冴月晶が、手にした十字剣を少年の心臓に突き立てていた。
俺が大音響の残響に思わず目を閉じていた瞬間だろう。きっと、ネコ科の猛獣がごとくに華麗に距離を詰め、何のためらいもなく心臓を刺し貫いたはずだ。
「え? お、終わった?」
そう口走ったのは、俺のすぐ真後ろにいたショートカットの女子大学生。
しかし俺は「まだです。多分、まだ……」と警戒を解かない。
いくら冴月晶が凄腕とはいえ、坊主頭の少年が隙だらけだったとはいえ、彼女自身が『時間がかかる』と言ったほどの神様が、こんな呆気なく終わるとは思えなかったのである。
――――――――――――――――――――――――――――――――
案の定だ。
案の定、また新たな音が響き始めた。
今度は……腹の底に響くような大低音。
まるで地面から湧き上がってくる地鳴りのような……。
山全体が鳴動しているような……。
「――あ――――ま、まっず――っ!」
突然地鳴りの正体に思い当たった俺は、「雪崩です! 冴月さんっ、雪崩が来る!!」そう冴月晶に叫んでから大慌てで振り返った。大岩に寄りかかっていたイスラ・カミングスに向かって唾を飛ばす。
「イスラさん悪魔出してください! 空を飛べる! なるべくでかい奴を!」
するとイスラは「無茶言わないでくださいます!? この人数を抱えて飛べると言ったら、それなりの存在になるじゃないですの!」なんて文句を言いながらも、紫に光る右手で空中に魔方陣を描き始めてくれる。
俺は――どうしよう。どうする? どうすればいい? 時間が無い――と、思い切りうろたえながらも、とにかく動くしかなかった。
「岩の上に登ってください! 早くっ!! 死にたいんですか!?」
いまいち反応の薄かった大学生五人を怒鳴りつけながら、手近な大岩へと走る。
高さ三メートルを優に超える大岩だ。岩に登れば雪崩を避けられるかもしれないと思った。
「登って! 思い切り踏んづけていいですから! がんばれ!」
「由貴子、お前重てぇ……っ! ダイエットしてんじゃなかったのかよ!」
まずは女子大学生二人から岩の上に上げる。岩にしがみついた女子大学生の尻を押し上げ、足を押し上げ、顔を踏みつけられても一向に構わない。
地鳴りが聞こえ始めてここまで三十秒弱。
息つく暇無く男子大学生の番だ。岩の上にはいつの間にか冴月晶がいて、必死にあがく男たちを軽々引っ張り上げてくれる。
チラリと坊主頭の少年の方に目をやった。すると空中を自由自在に動き回る銀剣の群れが、まるで嬲るように、踊るように少年の身体を刺し貫いていた。
倒れることすら許さない。
一本が右肺を貫くとすぐさま次の一本が背中に飛び掛かる。
少年が自らの意思で動こうとすると、足の甲に新たな一本が突き立つことになる。
――あの調子ならば銀剣を振り切っての不意打ちは無いだろう――
そう判断した俺は、「がんばって! 男でしょう!?」大学生最後の一人となっていた金髪スポーツ刈りの青年を岩の上に押し上げた。
とはいえ、まだ終わりではない。
「和泉様も早く! お願いです!」
そう言って手を差し伸べてくれた冴月晶を泣く泣く無視して、「イスラさんも! 悪魔はもういいですから!」イスラ・カミングスへと駆け寄るのだ。
「ああもう! 出せって言ったり、そうじゃなかったり! いちいちなんなんですの!?」
紫に輝く魔方陣はもう完成している。
しかし、彼女の悪魔は黒い指先を『こちら側の世界』に顕現させたばかりだ。もう何秒だって時間が無かった。
なにせ――――――轟音の接近に耐えきれず首を回せば、夜の闇に染まった巨大な何かが、山の上からこちらに向かってくるのが見えた。
俺の身長を容易く超える雪の津波が。
粉塵を巻き上げながら迫り来る、横幅五十メートルに達する雪の壁が。
――――――――しまった。
絶望するしかない俺が最後に見たのは、イスラ・カミングスの顔面。今さらどうしようもないができることはしようと、彼女を抱き寄せたのだ。
「和泉様――――」
轟音と暗闇に飲み込まれる瞬間、冴月晶の悲鳴が薄く聞こえ――かすかなその声でさえ、俺にとっては人生最高レベルの声援だった。
こんなところで死ねるかと歯を食い縛る。
左腕でイスラ・カミングスを抱き締めたまま、必死の思いで右手を伸ばす。もしかしたらデモンズクラフトが発動しているかもと思って。
結局、俺の指先は何も掴めなかったが、意識の最後まで歯は食い縛ったまま。生存を諦めることは決してなかった。
幾つかの衝撃の後、意識が途切れるその瞬間。
「んなぁ」
俺の服の中でずっと大人しくしていた三毛猫が不満そうに一鳴きする。俺とイスラ・カミングスの身体に挟まれて苦しかったのかもしれない。
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