蒼き聖騎士

 羽田空港に辿り着いたのは待ち合わせの一〇分前だった。


「刀根さん。それじゃあ私たちはこれで」


 ただ今の時刻は午後六時二〇分を回ったところ。

 黒塗りのセダンから飛び降りた俺は、助手席の刀根勇雄に会釈してから辺りを見回した。


 とはいえ、見慣れない風景に頭を抱えそうになる。

 国際線ターミナルはどっちだ? 空港なんて滅多に利用しないからどの方向に走り出せばいいかまったくわからない。


 初っ端から途方に暮れていると「こちらです」冴月晶が手を引いてくれた。


「道わかります?」

「ええ。海外の事件に派遣されることも多いので」

「それじゃあお任せします。水無瀬さんは、到着ロビーに行けばわかると――」


 どうにかこうにか魔女バーバヤガーを倒した俺たち。しかし、事はめでたしめでたしでは終わらなかったのである。


 ――水無瀬りんに頼まれた用事に間に合わないかもしれない――


 黒服たちが事後処理に錯綜する中、俺は邪魔にならないよう滑走路の外に突っ立っていた。刀根勇雄に差し入れられた缶コーヒー片手に、ぼけーとしていた。


 そして唐突に、水無瀬りんとの約束を思い出す。

『ある人物を空港まで迎えに行って欲しいんですよ』


 スマートフォンで時刻を確認した俺が真っ青になったのは言うまでもないし、すぐさま刀根勇雄のところへ走ったのも言うまでもない。

 ちょうどそこへ騎士装束から私服に着替えた冴月晶がやって来て――俺と彼女は、斎藤弥恵子がハンドルを握る爆走黒セダンに乗ることになった。


 五五キロの距離を一時間ちょっとだ。

 土曜日夕方の混雑を考えると驚異的なタイム。ドリフトで裏道に突っ込まれた時はさすがに悲鳴をあげてしまった。


「……はあ、はあ、はあ……間に合ったのか……?」


 午後六時二九分。

 冴月晶が鈍足の俺を引っ張ってくれたおかげでなんとか間に合ったようだ。天井の低い到着ロビーの入り口で、俺は犬のように息をあげていた。全力疾走に膝が笑う。


「和泉様、失礼しますね」

 涼しい顔の冴月晶が真っ白なレースハンカチを俺のひたいに当ててくれた。今から人と会うのに汗が噴き出ていてはよろしくないと思ったのだろう。


 一五歳の女の子にこうも甲斐甲斐しくお世話されて……気恥ずかしくないわけがない。情けない、しっかりしろ――と自己嫌悪だ。


 人の声。行き交う足音。キャリーバックのキャスター音。雑踏。

 到着ロビーは、パリ発羽田着の飛行機の到着で随分にぎわっていた。


 人々が押し流れてくる方を眺めつつ冴月晶に話しかける。

「騎士団関係の人でしょうか?」

「そうだと思います。おそらく騎士かな、と」

「助っ人? なにか大きな事件でも?」

「いえ……多分そっちではなくて――」


 カツン。


 その時不意に響き渡ったのは、固い床材をブーツのかかとが叩いた音。

 まるで俺たちに存在を知らせるような主張の強い足音だった。


 一瞬、到着ロビーすべての視線が足音の主に集まったが……それだけだ。『彼女』の登場に過度な反応を示す人間は誰一人としていなかった。……俺以外は……。


「――あ……アンリ――」

 驚愕の余り声が上手く出てこない。

 思わず彼女を指差してしまった人差し指が驚きに震えた。

「アンリエッタ・トリミューン……?」


 黒のトレンチコートに黒のレギンス、黒のロングブーツ――黒一色のコーディネートに真っ青なマフラーを合わせた淑女が、腰に手を当てたモデル立ちをしている。


 豪奢なプラチナブロンドの長髪をゆったりとした三つ編みでまとめ、瞳の色は明るい緑色だ。


 ……なんで……なんで、あのアンリエッタ・トリミューンが、ここに……?


 月の女神のごとき透明感のある美貌が、俺と冴月晶を認めてにこりと微笑んだ。


「え……本物……?」


 ランウェイでも進むように颯爽と歩き出す。

 俺はそれを見て、さすがはパリコレモデルだ……なんてひどく感心するのだった。


 サウスクイーンアイドル――アンリエッタ・トリミューン。


 フランス出身の二一歳。

 欧州屈指の大財閥のご令嬢で、正真正銘のセレブリティ。

 日本にも妙高院静佳というトップアイドルがいるが、全世界的な人気でいえばアンリエッタ・トリミューンの方が少し上だ。去年のワールドツアーコンサート、観客動員数は史上最高でギネスブックに載ったらしい。ハリウッドの大作映画でもヒロインに抜擢され、新人女優のくせにアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた。


 そして――妙高院静佳と並ぶ、ソロモン騎士最強の一角――


 情報が多すぎて訳がわからなくなる。


「アキラっ!」

 まっすぐ俺たちのもとにやってきたアンリエッタ・トリミューンは大きく腕を広げ、「ジュヴレ トゥ ヴォワール」冴月晶を抱き締めた。そのまま彼女の頬に長いキスをする。


 親愛の情に満ちた熱い抱擁。

 美の女神の共演。


 やがて冴月晶が「アンリエッタ様、もういいです」と身じろぎしたので、アンリエッタ・トリミューンは名残惜しそうに身を離すのだ。


 それから俺の方を向いて、長めのフランス語を発音する。俺は少しも聞き取れなかった。


「――ウップス」

 疑問符を浮かべる俺の様子に唇を押さえたアンリエッタ・トリミューン。何かを思い出しているような素振りを見せたかと思ったら。

「初めましテ。ええト……イズミ、シンペイさん?」

 日本語で話し始めてくれた。少し発音は怪しいが、十分に流暢と言えるレベルだ。


「は、はい――」

 直立不動でうなずくや否や、いきなり視界を失った俺。


 ……グーで殴られたのである。

 左頬が爆発したかと思ったら、直後、俺は到着ロビーの白床に倒れ込んでいた。


「――は? え――?」


 なにが起きたのか一切わからない。

 口の中を切ったのだろう。次第に広がっていく血の味に混乱するばかりだ。


 壮絶に痛む左頬を押さえつつ殴られた理由に思いを巡らせる。……そんなの、俺が面倒な魔王召喚者であるということだけで十分だろう。


 倒れたままの格好で茫然と顔を持ち上げたら――身構えた冴月晶が、俺を守ってアンリエッタ・トリミューンの前に立ち塞がっていた。獣のような唸り声を上げている。


 俺は衆目を気にするのだが、辺りを見回せば、誰も俺たちを見ていなかった。

 キャリーバックを転がすキャリアウーマンも、子供連れの若い家族も、熟年旅行から帰ってきた老夫婦も、突然の騒動に注目することなく平然と通り過ぎていく。果たして魔法を使っているのはどちらのソロモン騎士なのか……。


「……アキラ……」

 アンリエッタ・トリミューンが寂しげな瞳で俺と冴月晶を見比べた気がした。


「そうですカ……ワタシの大切なアキラは、もういないのデスね……」


 そして俺を睨み付けて、再び右拳を握るのだ。

「どきなさいアキラ。やっぱりもう一発殴っときマス」


 そう言われて四つん這いで逃げようとする俺。

 これ以上の痛い思いは真っ平御免だったのである。

 多分だが、希望的観測かもしれないが……アンリエッタ・トリミューンに俺を殺す意思はないと思った。ただ痛めつけたいだけだ。


「――次は、右の頬にしましょうカ」


 本気のソロモン騎士に殴られて、一般人の俺が生きていられるわけがない。さっきのは十分に手加減した一発だったはずなのだ。


 少し動いただけで頭がクラクラした。ダメージはまったく抜けていない。


 アンリエッタ・トリミューンが前進し、冴月晶が応戦しようとしたその時だった。

「お嬢様」

 落ち着き払った美声の日本語が到着ロビーに響く。


 見れば、アンリエッタ・トリミューンの隣に浅黒い肌の美青年が立っていた。


「一度殴ったら許すというお話だったのでは?」

 細身のグレースーツを上品に着こなした長身。彫りの深い顔はインドか中東あたりの出自を思わせる。フワフワのクセ毛を丁寧に整え、映画スターのような華やかな美形だった。


「アベル……」

 美青年の名前を口にしたのは冴月晶。


「お久しぶりです晶様。お美しくなられましたね」

 アベルと呼ばれた彼はニコリと笑い、転がしていた大型のキャリーバックをその場に立たせた。そして冴月晶の隣をするりと抜けて、俺の前で片膝を付いた。


「初めまして。アベル・アジャーニと申します」

 軽い脳震盪でふらつく俺に手を差し伸べてくれる。

「和泉慎平様でいらっしゃいますね。この度は我が主が大変なご無礼を」

「いや――」

「立てますか?」

「あ。はい、大丈夫。多分、大丈夫です」


 俺は、アベル・アジャーニに支えられてよろよろと立ち上がり――いまだ最大警戒状態の冴月晶に守られながらアンリエッタ・トリミューンを見た。


 ふと、冴月晶が聞き捨てならないことを言う。

「申し訳ありません和泉様……この人、ボクの姉弟子で……」


 なんだと? と思った。

 冴月晶とアンリエッタ・トリミューンが旧知の仲だなんて初耳だ。


 するとプラチナブロンドの世界的アイドルが「そういうことデス」とかすかな笑みを浮かべた。彼女の纏っていた冷たい空気がふっと弛んだ気がした。


「だからワタシはイズミさんに恨みがあるのですヨ。溺愛していた妹を魔に堕とされたあげく、心まで奪われたのダカラ」


 アベル・アジャーニが補足を入れてくれる。

「我が主はあなたが被害者だと理解したうえで、どうしても納得できなかったのです。それで先ほどのような真似を……」


 俺は冴月晶とアンリエッタ・トリミューンを交互に見て、「はあ。なるほど……」と力なくうなずくばかりだ。

 いきなり殴られたことには納得していないが、アンリエッタ・トリミューンの気持ちがわからないわけではなかった。むしろ当然の感情だと思う。


 果たして俺を殴って彼女の気は済んだのか……。


「そういえば自己紹介をしていませんでしたネ」

 左手を胸に当てたアンリエッタ・トリミューンが、聖女のような顔で言うのだった。


「我が名はアンリエッタ。ソロモン騎士、アンリエッタ・トリミューン。人類の安寧を見守り、叡智の光当たらぬ不条理を屠る者。“青衣の騎士”の天啓を戴きし女」

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