首都高速湾岸線を行く

 リムジンタクシーなんて生まれて初めて乗った。


 海外セレブのゴシップニュースとかでよく見る異常に車体の長い高級車だ。車内に入るとL字型の革張りソファが俺たちを迎え、低いテーブルにはワイングラスやシャンパングラスがズラリと並ぶ。照明は落ち着いたオレンジ色だった。


 黒塗りのリムジンタクシーが都心に向けてゆっくり走り出した後。

「なにか飲まれますか?」

 ワインセラーから高価そうな赤ワインを取り出したアベル・アジャーニが俺たちに聞いてくる。


 俺は片手を軽く持ち上げて遠慮し、冴月晶は「水を」とだけ言った。


 手際よくコルク栓が抜かれると甘い香りが広い車内を満たす。


「ワインはお嫌い?」

 ワイングラスに注がれた血の色の液体に唇を付けたアンリエッタ・トリミューンが、そう俺に笑んだ。


 俺は「普段飲まないので」と苦笑するにとどめた。

 ――酔っぱらって冴月さんを倒したことがあるんで断酒しているんです――とは決して言わない。


 そうだ。『あの一件』以来、俺は、アルコール全般に触れないようにしていた。


 望まぬとはいえ魔王の奴に力を押し付けられた……もう二度と前後不覚に陥いることはできない。例えば、俺の理性の届かないところでまた何かしでかしてしまったら――俺は俺自身を決して許せないだろう。


「ところで、アンリエッタ・トリミューンさんはどうして日本に?」

「アンリエッタでいいですヨ。でも、そうデスねぇ……ふふっ。秘密デス」

「ははぁ。やはり機密事項……」

「いえ、そういうわけじゃなくテ。ここで言うと『彼女』が怒りそうなので」

「彼女?」

「ミナセですヨ。今はイズミさんの同僚でしょう?」


 スモークガラスの向こうを東京のビル街が流れていく。


 不思議な感覚だった。リムジンタクシーは確かに道路を走っているはずなのに、振動を全く感じないのである。まるで雲の上を走っているのかのように快適だ。


「そうだ。ちょっといいデス?」

 ワイングラスを手にしたアンリエッタ・トリミューンが席を詰めてくる。

 俺はなんのことかわからぬまま身を寄せられ――カシャ――スマートフォンでツーショット写真を撮られた。


「え? なんです?」

 怪訝な表情を浮かべる俺に彼女は言う。

「せっかくだからSNSに載せとこうと思っテ。ワタシの気になる人デス、と」


 瞬間、「な――」俺は心臓が飛び出しそうになった。


 アンリエッタ・トリミューンといえばフォロワー数一億のトップインフルエンサーだ。

 そんな有名人が俺とのツーショット写真を全世界に公開する? 冗談じゃない。


「ちょっ、待ってくれ――」

 思わず手が出た。彼女の腕を掴んで阻止しようとする。


 しかし――銀剣――

「っ」

 突如として空中に出現した銀の十字剣に俺は息を止めた。


 これは、冴月さんの……と唾を呑みこめば、銀剣はアンリエッタ・トリミューンの手元――最新機種のスマートフォンを串刺しにしている。


「アンリエッタ様。お遊びが過ぎますよ」

 いつもよりずっと低い声。見れば、冴月晶はミネラルウォーターの入ったグラスを傾け、こちらを見てもいなかった。


「ちょっとしたジョークじゃないですカ」

 苦笑のアンリエッタ・トリミューンがワインをあおる。そして熱っぽい吐息を一つだ。

「イズミさんのことになるとムキになる……まったくアキラも女の子ですネ……」


 アベル・アジャーニから新しいスマートフォンを受け取った彼女。俺から身を離しつつ、「お腹空きましタ。ホテルはまだデスか?」なんて無邪気に笑うのだった。


 カクテルグラスに盛ったドライフルーツを差し出しながらアベル・アジャーニが言う。

「到着まで四〇分ほどです」


 俺も続いた。

「水無瀬さんが夕食をセッティングしてるらしいですが」


 するとなぜかアンリエッタ・トリミューンは「ミナセが?」と眉を動かすのだ。


「ふふふ。それなら今頃彼女は使い物になりませんネ」

「……?」

 なんのことかよくわからない。


 俺が水無瀬りんに依頼されたのは、客人の出迎えと都心の高級ホテルまでの同行だ。休日出勤の彼女、昼までに仕事を片付けて会食の準備をするのだと聞いている。


 まあ……来日したのがまさかのアンリエッタ・トリミューンだ。お忍びとはいえ、きっと各界のお偉方を集めた盛大なパーティーが開かれるに違いない。


「それはそうト、当然、イズミさんたちもご一緒してくれるのデショウ?」

「はい?」

「今夜ですヨ」

「いえ、聞いていませんが……」

「ミナセったら……まあ、席は用意しているデショウから、ご一緒くだサイ」

「しかし私は――」


 社交界に縁のないただの一般人だ。今でこそアイドル事務所サウスクイーンで働いているが、所詮は地味な経理担当。いきなりパーティーに出席しろと言われても……。


 俺は改めて自身の服装を確認した。

 ラフな中綿ジャケットに、愛用のスラックス……ドレスコードは大丈夫だろうか。


 戸惑う俺を見つめて首を傾げたアンリエッタ・トリミューン。まるで俺がためらうのが理解できないとでも言いたげだった。


「大丈夫ですヨ? どうせ見知った顔ばかりデスし」

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