カードゲーマー、再び(後)

「助かったよ、本当に」

 “鶫の囀りアキム”の白い外皮に触れて、俺を守り続けてくれた異形の悪魔に感謝を告げる。分厚いゴムのような手触り。指先に吸い付いてくるようなしっとりさだ。


「刀根さん、斎藤さん――皆さんにも、冴月さんの声、聞こえてましたよね」


 そして俺はそのまま黒服たちに振り返り、苦笑いを浮かべるのだった。

「なんとかしてみます。でも……力及ばなかったら、すみません」


 責任の重さに吐き気が込み上げてくる。

 俺が失敗すれば、ここにいる黒服全員が殉職だ。彼らの命だけでなく、家族の生活や人生までもが、俺の選んだカード一枚に託されているのだ。


 刀根勇雄がサングラスを外しながら言った。

「気にしなくてもよろしい。元より国家国民のために命を懸けると決めた者たちです」


 斎藤弥恵子が続いた。

「日本で最も殉職者の多い職場ですしね。死んで当たり前です」


 すると三〇人余りの武装黒服たちも笑い声をあげる。悲壮な表情をしている者など一人もいなかった。


 それで俺は、やっぱり秘密組織の人たちだなぁ……と彼らの態度に困惑するのである。大義のためには死すらも恐れぬ戦士たち――頭では理解できるが共感は無理だった。


 だからと言って、俺にこの人たちを見捨てるという選択肢はない。

「別のモンスターを召喚します。絶対に私から離れないでください」

 自分だけ助かっても夢見が悪くなるだけだ。


 青く光り輝くバーバヤガーを見た。大魔法とやらがいつ放たれても不思議ではない。


 横田基地を取り囲む剣の巨壁を見た。たった一人で何十万もの剣を召喚して……冴月晶の華奢な身体を思い浮かべると何とも言えない気持ちになった。


 そして俺は。

「耐えてくれよ。頼むから」

 右手のカード、“燃え盛る聖女レディ・フランメ”を宙に投げる。召喚条件をクリアするために、さらに手札を二枚捨てた。


 次の瞬間 “鶫の囀りアキム”が黒い霧と化し――目の前にいきなり吹き上がった真っ赤な炎。

 眼球が焼かれるかと思うぐらいの熱量だ。俺は咄嗟に右腕で顔を覆い、腕の影からモンスターの姿を確認するのだった。


 “燃え盛る聖女レディ・フランメ”。


『攻撃力〇、防御力六。召喚条件・手札二枚破棄。このモンスターは召喚されてから三分後に捨て山に置かれる。このモンスターは、相手モンスターの特殊能力の効果を受けない』


 強烈な炎に空気がこげる音がする。


 俺が“鶫の囀りアキム”と入れ替えに召喚したモンスター――いや、モンスターと呼んでいいかはわからないが――は、実にいたたまれない姿をしていた。


 ……勢いよく燃え盛る十字架にくくりつけられた金髪の女性……。


 炎に巻かれて呻きをあげるこの女性が何者なのか、俺は知らない。ただ、なんとなく既視感があるのは、聖女ジャンヌ・ダルクのエピソードを知っているからだろう。


「……悪趣味な……」

 斎藤弥恵子がもっともなことを言う。


 俺は後ろを振り向くことなく苦笑するのだった。

「是非とも魔王に言ってやってください」


 だが、モンスターデザインがどうであれ、使えるカードであることは間違いない。優秀な耐久型モンスターだ。三分という時間制限はあるものの、発動が運任せな防御系のマジックカードと違って、召喚条件さえ満たせば必ず召喚できる。それだけでデッキに入れる価値があった。


 果たして――神を呪う言葉の群れか。

 燃える金髪女性が、俺の理解できない言語で天へと何かを訴えている。


 俺はそれを無視して『箱』のカード排出口に溜まっていた三枚のカードを一気にドローした。“冥府喰らいのネビュロス”はまだ来ない。


 思わず俺が舌打ちした瞬間だ――バーバヤガーの大魔法が発動したのは。


 空気が動き。

「く――っ」

 バーバヤガーを中心に、あらゆる生物を殺す冷気が吹き荒れた。

 アスファルトが凍り、芝生が真っ白になって砕け、建物のガラスすべてが割れ落ちる。

 “燃え盛る聖女レディ・フランメ”が背後に暖気を流してくれなかったら俺たち全員即座に凍死している。


 俺はてっきり今のがバーバヤガーの大魔法かと思った。

 だが、違った。

 ただの『前触れ』に過ぎなかった。


 青く輝くバーバヤガーの巨体が、四方八方に氷の枝を伸ばし始めたのである。

 凄まじい速度で成長する氷の大樹。

 逃げ場などない。

 凍りついた空気が軋みのような音を立てた。

 そして――ぽつりぽつりと青い雨が降る。

 空気をマイナス一九〇度近くまで冷やすと、空気中の酸素が液体になると聞いたことがあるが……まさかあれがそうなのだろうか……。


 氷の枝は俺たちの周りにも張り巡らされ――しかし“燃え盛る聖女レディ・フランメ”が、その身を焼く炎で近づく枝すべてを燃やしてくれた。


 揺らめく炎の壁が、俺と、俺にくっつく黒服たちの周囲に立ち上がる。


「……刀根さん……生きてます?」

「なんとか……生きた心地はしてませんがね……」


 俺たち生身の人間は、炎の結界というべき安全空間の中で肩を寄せ合っていた。

 強い熱気に肌が痛いが、即凍死よりはまだマシだ。


 ……この低温地獄はいつまで……? 


 とはいえ、これほどの大魔法がいつまでも効果を発揮し続けられるわけがない。

 氷の大樹が砕け散るその時は、あまりにも唐突にやって来た。


 まるで世界を満たすダイヤモンドダスト。

 氷の枝のあちこちにひびが入ったかと思ったら、いきなり結晶となって冬の風に舞い上がったのだ。


 俺は手札にあったマジックカード“氾濫する焔”を切る。発動は成功。

 適当な空間を対象に取って、とにかく強烈な炎を暴れ回らせた。

 不安だったのである。バーバヤガーの大魔法は終了したようだが、極低温近くまで引き下げられた気温がそのままだったらどうしよう……と。


 だが、杞憂だったようだ。

 俺を守る“燃え盛る聖女レディ・フランメ”は、『俺が生存できる環境』も同時に守ってくれるらしく――いきなり火力を増した。

 十字架が崩れ始め、金髪女性はほぼ完全に炭化したように見える。


「……まるで太陽だな……」

 黒服の誰かがぼそりと呟いたのが耳に届いた。


 確かに、白の光輝を放つ“燃え盛る聖女レディ・フランメ”は、横田基地の滑走路に現れた小型の太陽に違いなかった。

 膨大な熱を周囲に撒き散らし、冷え切った空気を温める。

 滑走路のアスファルトが泡立ち、いくつも炎が上がった。

 俺たちは、“燃え盛る聖女レディ・フランメ”がつくった炎の結界によって、彼女の完全燃焼から守られている。


 やがて……召喚から三分経過して燃え尽きた“燃え盛る聖女レディ・フランメ”。彼女の亡骸が黒い霧になって消えると、俺と黒服たちを取り囲んでいた炎の結界も消失した。


 気になる気温は、少し寒いが、死ぬというほどではない。


 ………………。

 俺を含めて、その場にいた全員が呆ける時間が十数秒。


「……まさか……生きてる……」


 斎藤弥恵子が茫然としていたから、俺は『箱』からカードをドローしつつ言った。

「なにせ、『相手モンスターの特殊能力の効果を受けない』壁モンスターですから」


 そして手札に来たカードを確認して――「あ」


 “冥府喰らいのネビュロス”。

 迫力満点のカードイラストに「やっとか」と文句が口をつく。


「刀根さん。お待たせしました」

「――?」

 生の実感を噛み締めていたのだろう。刀根勇雄は最初、俺が何を言っているかわかっていないようだった。しかしすぐさま気を取り直すような咳払いを一つ。

「準備が整ったと思っても?」

「ええ。このまま召喚して大丈夫ですかね?」

「お任せしましょう」


 見れば、横田基地を取り囲んでいた剣の巨壁がゆっくりと空気に溶けていく。

 冴月晶は健在だ。バーバヤガーの大魔法から基地の外を守り抜いて、気を取り直したように魔女の首筋を狙っていた。


 ……もういいだろう。十分戦った。


 大空に浮かぶ異形の魔女をうんざり思いながら、俺はカードを切る。追加で手札を四枚捨てた。


 ――――――――


 背後で黒服たちがざわめいたのは、俺の影がいきなり形を変えたからだ。

 まるで生きているかのごとく滑走路いっぱいに広がり、弱々しい冬の太陽ではあり得ないほどの深い黒に染まる。


 そして――腕。


 巨大な腕が俺の影からぬうっと現れ、アスファルトを鷲掴みにした。

 それに続いたのは王冠のような角を持つネズミのミイラ顔だ。


「……課長……これ……」

「……ええ……これが、報告にあった……」


 横田基地にあるどの建物より背の高い巨大悪魔が、俺の影から這い出ようとしている。


 俺が声をかけるまでもない。黒服たちはとっくに退避し、俺の影から十分な距離を取っていた。刀根勇雄と斎藤弥恵子の二人だけが、俺のそばで、うねりながら姿を見せていく“冥府喰らいのネビュロス”を見上げている。


 そびえ立った六本腕の上半身。残りは俺の影の中だ。


「……ひえ……」

 ネビュロスの掌に乗せられた俺は、地上二〇メートルを吹き抜けた風に背筋を震わせるのだった。


「か、課長っ」

「落ち着きなさい斎藤くん。この悪魔は和泉さんの支配下にあるはず――」


 何だ? と思えば、六本腕の一つに刀根勇雄と斎藤弥恵子が合わせて掴まれている。


 ギョッとして俺はネビュロスの恐ろしい顔に叫ぶのだった。

「なっ、仲間だからな! 気を付けてくれよ!?」

 しかしネビュロスは無反応だ。わかってくれたのか、それともそうでないのか……。

 とはいえ、握り潰すつもりならとっくにそうしているはず。多分、召喚者である俺と違って取り扱いがぞんざいなだけだろう。


「――ったく」

 俺は小さく嘆息してから、バーバヤガーへと目を移した。


「怪獣大決戦、だな」


 旅客機と同化して空に浮かぶ巨大魔女と、地獄の底から体半分覗かせた巨大悪魔。

 どちらも人類の常識が通じるような存在ではない。

 ソロモン騎士さえいなければ人類を滅ぼすことだってできる……そのレベルの怪物が、市街地のど真ん中につくられた飛行場で睨み合っていた。


「和泉様」


 冴月晶の声に視線を回す。

 すると頭上で白いマントがひるがえり――俺の隣に銀髪の少女騎士が降り立った。


 彼女は薄汚れた白マントを恥じるかのごとく目深にフードを被り直す。


「お怪我はございませんか?」

「大丈夫。かすり傷一つないです」

「先ほどは力足らずで申し訳ありませんでした」

「そんな。冴月さんのがんばりに比べたら私なんて……それより、ネビュロスの召喚が遅くなってすみません」


 ネビュロスの掌の上、俺たちは寄り添ってバーバヤガーを見つめるのだった。


「……どうでしょう?」

 俺がそう問うたのは、氷の魔女が“冥府喰らいのネビュロス”を前に静けさを保っていたからだ。空中で静止したまま、口元に笑みを浮かべていたから。


 冴月晶が鼻で笑った。

「蛇に睨まれた蛙というところですね。傲慢な自然精霊も、少なからず『格』というものは理解するようです」

「……このまま逃げちゃいませんかね?」

「十中八九、それはないかと」

「そんなものですか」

「あの巨体でネビュロスに背中を向ければそこで終わり。逃げ切れるわけがありません。しかも、さっきの大魔法で体内の冷気も大方吐き出してしまった……ならば、あれに残された手段は――」

 まるでミジンコの行く末でも推測するかのような冷淡さで少女が言葉を並べていると。

「っ、冴月さん――」

 バーバヤガーに取り込まれたジェット旅客機に変化があった。


 二基のジェットエンジンが再び回り始めたのだ。


「そう。取り込んだ飛行機をこちらにぶつけて、その隙に姿をくらますぐらい」


 旅客機の白い外壁を覆っていた赤黒い血管が、電気コードでも回収するみたくスルスル引いていった。


 バーバヤガーは今すぐにでもジェット旅客機との同化を解こうとしてるのだろう。旅客機の胴体から生える美女の上半身が即座に衰えていくのが見えた。

 口元に深いほうれい線が現れ、目元はたるみ、乳房は無残に垂れ下がる。

 幽玄な美女が裸の老婆へと変化していく光景に、俺は眉をひそめるのだった。


「タイミングが重要です。あれが飛行機を投げる瞬間をお見逃しなきよう」

「……今さらですけど……大丈夫でしょうか……」

「和泉様?」

「ネビュロスの攻撃って割と大雑把なんです……もしも飛行機に当たったらと思うと……」


 その時、俺が思い出していたのは妙高院静佳と戦った時のこと。


 ――あの時も俺は“冥府喰らいのネビュロス”を使役していた。そして、この巨大悪魔に妙高院静佳を攻撃するよう命令した。二度、命令した。

 ……彼女には効かなかったけれど……地形を変えるような熱光線だったはずだ……。


 今――俺は、再び、あの熱光線を撃とうとしている。


 正直言って嫌で嫌で仕方がない。

 弱気になってしまうのは当然のことだ。一つ間違えれば、俺の下した命令が二〇〇人以上の命を奪いかねない状況なのだから。責任なんて取れるわけがない。


 不安に追い詰められる俺。

 バーバヤガーが老化を終え、『その時』が近づくにつれて、ストレスで血の気が引いた。

 知らず知らずのうちに呼吸が荒くなる。


 しかし、だ――軽い衝撃に胸を叩かれ、俺は我を取り戻すのだった。


「勘違いしておいでですよ、和泉様」

 気付けば、冴月晶が俺を抱き締めている。


 俺の胸にひたいを押し当て、まるで子供をあやすような優しい声で言った。

「あなたは今日、一人で戦っているわけではありません。ボクがいるんです。この“千刃”の名を持つ冴月晶が」


「……冴月、さん……」

 それで俺は少し気を取り直す。


 こんな小さな女の子に気を遣わせて、大人のくせに何をやっているんだ――と、ひとかけらの根性が、俺に前を向かせた。

 冴月晶には格好悪い姿を見せたくない――そんな不純な動機でも、この際、別にいい。バーバヤガーを見据えることができた。


「……ありがとうございます……」

「さあ。早く邪魔者を倒して、デートの続きと参りましょう」


 そして俺は、冴月晶に抱き付かれたまま、「……行くぞ、ネビュロス……」右腕をゆっくり持ち上げるのだ。


 左手を前に突き出した冴月晶が、声が幾重にも重なる呪文を唱え始めた。

「歌えハルートエイクの鏡 姫君の瞳を映したいと願うならば 夜に星を 昼間に影を 汝は清らかなる水底で生まれた こぼれた涙をすくい 真夏の罪さえ見つめよう――」


 次の瞬間。

 ――耳を塞ぎたくなる大音量の金切り声――

 老いさらばえた魔女の上半身が身をよじってジェット旅客機から離脱する。


「今です和泉様!」


 上半身だけで空へと飛び出したバーバヤガーを指差して、「――ネビュロスっ!!」俺は声を張り上げた。

 俺と冴月晶の頭上、“冥府喰らいのネビュロス”の牙の間から光が溢れる。


「耐えなさい!! ハルートエイクの鏡!!」

 俺の攻撃宣言と同時、冴月晶の魔法も発現していた。

 それは、天空に向かって列を成した数多の大型鏡だ。


 ネビュロスが口を開いた瞬間――恐るべき大熱量を極限収束させた細い光線が空を焼く。


「まずっ」

 やはり大雑把な狙いの光。俺はドキリとしていた。

 多分そのままならジェット旅客機に触れていただろう。


 しかし、熱光線の前の立ちはだかった大きな丸鏡たち――冴月晶の魔法が、ネビュロスの攻撃の軌道を修正する。

 一枚目に反射させ、二枚目に反射させ、三枚目に反射させ、四枚目、五枚目――夕焼けに染まりつつある大空を、右へ左へと光が走った。

 俺はその光の軌跡を美しいと思う。

 ジェット旅客機を上手く避けて、狙うはバーバヤガーの心臓だ。


 最後の力を振り絞った氷の魔女が分厚い氷壁をつくり出したが、そんなもので防げる熱量ではない。


 ――――――――


 氷壁はまったく無意味なままにぶち抜かれ、その背後にいたバーバヤガーとほとんど同時に蒸発した。


 そして丸鏡の最後の一枚が、光線の行く先を宇宙へと変える。

 強大なバーバヤガーを一瞬で消滅させてなお、減退する気配のないネビュロスの熱光線だ。あのままならどこかに被害が及ぶ可能性もあった。


 ……さすがはソロモン騎士……抜かりがないな……。

 そう感心しながら、俺は、いまだ空を睨み続けている。


 バーバヤガーはもういない。しかし、この空にはもう一つ対処しなければならない大問題があった。


 空気を震わせる轟音。


 ジェットエンジンを回し、鋼鉄の塊がまっすぐこちらに向かってくる。

 バーバヤガーの奴が、最後、俺たちに投げたジェット旅客機だ。


「……おい…………マジか……」


 飛行機の真正面なんてめったに見ることがない。しかも、それがものすごい勢いで視界を埋めてくるのである。

 こうなるのは何となく予想していたが、ここまでの大迫力は完全に想定外だった。


 やばい。これは死ぬ――


 逃げたいという欲求を全身全霊で殺し、震える膝でなんとかその場に踏みとどまる。

 思い切り奥歯を噛んで。

「んっ。――和泉様?」

 力いっぱい冴月晶の肩を抱き寄せた。身体を入れて、彼女をかばうような態勢だ。気付けば自然とそうなっていた。


「――っ」

 激突の瞬間はさすがに目を開けていられない。


 俺は、俺の身体を襲うであろう衝撃と熱、暴風、重力を想像し…………しかし、いつまでたっても何も起きないから、おそるおそる薄目を開けた。


 俺の胸の中からこっちを見上げてくる冴月晶の美貌と目が合った。


 彼女は俺に優しく微笑みかけ、「ご覧ください。和泉様の勝利です」と揃えた指で前方を指し示す。


「――?」


 見れば、「う、お……」ジェット旅客機の尖った鼻と操縦席が眼前にあった。

 突っ込んできたジェット旅客機が、俺の目の前でピタリと静止していたのである。


 いや、違う。

 “冥府喰らいのネビュロス”の張ってくれた灰色のバリアが、ジェット旅客機を捕らえているのだ。


 どういう理屈かはわからない。ただ……ネビュロスの前面に大きく広がった灰色の幕に触れたジェット旅客機は、エンジン機能を停止し、巨大質量が生み出した慣性すらも完全に失っていた。笑ってしまうほど静かに空中で止まっている。


「そうか……やっぱりネビュロスは凄いな……」

 力のない笑みが自然とこぼれた。俺のネビュロスが『ジェット旅客機を破壊することなく回収する』という無理難題をいとも簡単に成功させていたから。


 デモンズクラフトのルール通りだ。

 ――召喚されたモンスターは能力の範囲内で俺を守る――

 ――モンスターが防御する際、相手に致命的なダメージを与えることはない――


「刀根さん」

 ネビュロスの別の腕に握られている刀根勇雄を呼び、軽く親指を立てた。


 斎藤弥恵子と背中合わせになった彼は、「お疲れ様でございます。魔王召喚者の力、確かに拝見しました」なんて満足げに言うのだった。


 それにしても――と、俺は肺の奥からため息を吐き出しつつ思う。

 冴月晶との戦闘で消耗したバーバヤガーを“冥府喰らいのネビュロス”で撃ち落とし、そのまま飛行機を受け止めるって……社会維持局も冗談みたいな作戦を立案してくれたものだ。正直、ここまで綺麗に成功するとは思っていなかった。


 風が冷たい。夕暮れが近い。


 胸元に頬を寄せてくる冴月晶を突き放すこともなく、俺は、光を失いつつある冬の空を見上げて呟いた。


「せっかくの休日が台無しだ……有給もらわないとやってられないな……」

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