雪原、雪道、黒津根村

 真っ白な雪をザクザクと踏んで進めば、やけに身体が軽い気がした。今なら垂直跳びで五メートル以上を記録できそうな気がした。


 当然だ。


「ねえねえ妙高院静佳ぁ。陵辱と改造って、具体的には何されたんですの? ぐ・た・い・て・き・に、教えてくださるぅ?」

「はあ? 言うわけない。“薔薇の使徒”風情がしゃべりかけてこないでくれる?」


 久しぶりに俺一人だけなのだから。

 俺一人だけで立ち、俺一人だけで歩き、数歩前を歩くイスラ・カミングスと三毛猫の背中を眺めているのだから。

 数十キログラムの重さから解き放たれた、清々しい解放感だった。


「触手でしょう? 凌辱は、やっぱり触手でグチャグチャだったんでしょう? それとも、屈強な悪魔くんにガチガチに押さえ込まれて無理矢理とかぁ?」

「黙れ」

「あらぁ。お姉さんに言えないほどにてんこ盛りだったのかしらぁん」

「うるさい」

「あははっ♪ 感覚と肉体を別物に変えられて、触手や獣みたいな怪物にヤラれたり、敗北と屈服を強要されたり…………それはそれはきっと大変だったのでしょうねぇ。なにせ相手は、『魔王様』ですものねぇ」

「口をつぐめ変態」

「ヘンタイだなんて――最高の褒め言葉をありがとうですわ。わたくし、日本のHENTAIヘンタイを敬愛しておりますの。だって、日本の特殊性癖愛好家たちは、何百年の歴史の上に立っておりますでしょう? そんな彼らが描き出し、わたくしが収集する『薄い本』――数多のヘンタイ様たちが夢に見た幻想が、妙高院静佳を打ち負かしたのです。興奮するなって方が無理ですわ」

「噛むわよ」

「あらあら♪ それじゃあわたくしは、全身全霊であなたをわたくしの書斎まで連れ去りましょうか。そして、一緒にエロ同人を開いて、答え合わせをいたしましょう。あなたの身に起きた陵辱を、わたくしの蔵書と一つ一つ付き合わせるのですわ。だいじょうぶ。すべてのジャンルを、あらゆるシチュエーションを、全レベルを取り揃えておりますから」


 先頭を進む三毛猫に、ニヤニヤ笑いのイスラ・カミングスが絡んでいた。


 俺が割り込むにはちょっとキツい話題。まあ……なんだかんだと優しいイスラ・カミングスのことだし、妙高院静佳にイジワルしているだけだろう。


「決めた……元の身体に戻ったら、“薔薇の使徒”を全部灰にしてやる……」

 三毛猫が真剣なトーンでそう呟くと。


「ちょちょちょちょちょ――ちょっと待ちなさいですわ。それはちょっと、やり過ぎじゃありませんこと?」

 なんてイスラ・カミングスが慌てふためいた。


 三毛猫の身体を借りてしゃべる妙高院静佳と、魔力の尽きたイスラ・カミングス――パワーバランスとしては、案外ちょうど良いのかもしれない。


「……てか、戻れるんですの? それ」

「知らない」


 ぶっきらぼうに妙高院静佳が言うと、イスラ・カミングスが曇り空へとため息を吐いた。


「感心しますわ。魔王と言えば、正体不明の魔の首魁。神の創りし地獄に君臨する王だというではありませんか。その手に落ちて……あなたはまだ、妙高院静佳なのですわね」

「…………ふん……」

「よくよく事情は知らないですけれども、まったくもって、ご主人様がイズミさんでよかったですわねぇ」

「……は?」

「冗談ではありませんわよ? あれは善き大人ですわ。存命の召喚術師では、間違いなく最高の人格者。二番目が、このイスラ・カミングスですわ」

「……最悪ね、召喚術師」

「あっは♪ 他者を使役することに特化した魔法使いが、まともと思って?」


 そこまで言うと――不意に俺を振り返ったイスラ・カミングス。白い息を吐く俺の顔を見てから、優しく微笑んだ。


「イズミさんは、妙高院静佳をカードで召喚しても、エッチなことはしないでしょう?」


 俺はすぐさま「しませんし、してる余裕もないです」と苦笑だ。


「戦わなくちゃいけない時に、隣に立ってくれるだけでも、ありがたいんですから」


 三毛猫が足を止めて俺を見ていることに気付いたのは、そうやって言葉を続けた直後だった。だから小さく会釈する。

「よろしくお願いしますね、静佳さん」


「……まだ歩きますよ」


 俺と目が合うと、妙高院静佳――三毛猫はふいっと前を向いて歩き出してしまった。ふさふさの長毛尻尾がゆっくり揺れていた。


 灰色の雲が広がっているというのに、ずいぶんと明るい正午近く。


 俺たちは、葉が落ちてスカスカになった森の中を徒歩で進んでいる。


 『魔王によって三毛猫に宿らされた妙高院静佳』が先導だ。幾分か体力を戻したイスラ・カミングスがそのあとに続き、最後尾を俺が歩く形。


 登山というほどではないが、軽く息が上がるぐらいの緩い上り坂だった。


 雪が遠くの音を消すのか、辺り一面、俺たちの足音以外やけに静かで……さっきからずっと、静寂をつくらないようにイスラ・カミングスがしゃべり続けている。


「あーあ。そりゃあ冴月晶たちと合流しなきゃですけど、また『あの村』に戻るんですの? このままドロンした方が良くありませんこと?」


 応えるのはいつも三毛猫の妙高院静佳だ。


「異界化した山から出るすべがあるなら、さっさとそうしたら?」

「土地の神はイズミさんが倒した。本来ならそれですべて終わってますのよ。暴走した土地神さえ屠れば、世は事も無し。土地神の上に立つ上位存在なんて、本物の神か魔王ぐらいしかいりゃしないんですから」


 そしてイスラ・カミングスは、「それなのに、実質何も解決していない。山は外界から切り離されたままですし、冴月晶の魔力反応だって『あの村』にあると言うではありませんか」と続けてから、大袈裟な動きで肩をすくめて首を振る。


「自主的な避難じゃなくて、絶対に捕まってますわよ。見捨てた方がいいですわ」


 冴月晶が『あの村――黒津根村』にいると断言したのは妙高院静佳だ。


 猫の姿だと魔法は使えないが――それでも、さすがは最強クラスの魔法少女の一人――仲間の魔力を感じ取ることはできるらしい。


「あたしがこんな状態だから晶を頼るしかないってだけよ。それに、和泉さんの話じゃあ、要救助者も最後晶と一緒にいたって言うしね」


 だから俺たちは今、妙高院静佳を道案内に、黒津根村に向かっている。


 ――怖くて怖くて仕方がないが、冴月さんが危機的状況だと聞いたならば、恐怖を押し殺して『私は大丈夫ですから。すぐに行きましょう』と勇気を奮い起こすしかなかった――


 まるで誰かの責任をとがめるみたいに、イスラ・カミングスが「は~~~あ」とあけすけなため息を吐く。

「ずーっとピンチが続きますわねぇ」


 三毛猫は今回は反応しなかった。イスラ・カミングスだけが言葉を発していた。


「妙高院静佳が操られ、冴月晶は捕らえられ、土地神を超えた何かもいる。こんなの、天下のソロモン騎士団にとっても初めてのことではなくって? 人気ひとけのない山で起きてるから問題になっていないだけで、発生地が東京なら、国家崩壊並みの事態になってますわ」


 俺がふと空を見上げれば……しばらく雪は降りそうにない。


 怪しい村に一直線に向かっているくせに、道中にはなんの危険もなく、むしろ冷たく乾いた冬の空気がやけに清々しかった。疲れた身体と気持ちを適度に引き締めてくれた。


 俺がのんきに歩いていると、イスラ・カミングスが「首魁はヨミガミと言ったかしら?」なんて明るい声色で白い息を吐き――とはいえ、次の瞬間――ひどくドスの利いた声で、三毛猫の後頭部にこう問い掛けた。


「あなたの母親ぁ……いったい何を蘇らせたんですの?」


 ゾクリとした。

 まるで魔女か悪魔でも宿ったかのような、腹の底を震わせる声だったからだ。イスラ・カミングスの普段の明るい声からは想像もできない、おぞましい声だったからだ。

 会話相手が普通の女の子ならば絶対に泣いているはず。


「わたくしは死者復活の調査に来たのであって、ソロモンの三騎士たる妙高院静佳に襲われるなんてこと、調査行程には入っていませんのよ」


 怒り……なのだろうか。イスラ・カミングスは、先頭を歩く三毛猫に指を伸ばすと、その首根っこをむんずと掴み上げた。


「妙高院静佳ぁ」


 そして足を止めることなく、顔の高さまで持ち上げた三毛猫の顔面を間近で見つめるのだ。

「知ってる情報をすべて教えなさい妙高院静佳ぁ。わたくしとイズミさんに襲い掛かっておいて、なんの説明も無しとは……あまりに失礼じゃあありませんこと?」


 三毛猫は暴れることなくぶらんと足を垂らして、イスラ・カミングスを見つめ返している。


 ……止めた方がいいかもな……。

 俺がそう考えた瞬間だ。


「情報量にガッカリするだろうから、言わないでおいてあげたのに」


 三毛猫が平然とそう言い、いきなり苦笑したイスラ・カミングスが「何も無しよりは全然マシですわ」ぽいっと三毛猫を雪に放った。


 三毛猫は苦もなく雪の地面に着地。ぽてぽて歩き出しながら。

「……多分……五日前になるのかな……熊本に出た魔竜を倒したあと、あたしの携帯に知らない番号から電話があったわけ」

 妙高院静佳の身に起きた出来事を淡々と語り出すのだ。


 すぐ隣をイスラ・カミングスが歩く。


「それがお母さんで……まあ、元気にしてるかって、ちゃんと食べてるのかって、そういうことをなんか嬉しそうに勝手に話すわけよ。でも、あたし、育ての親からは『母親はもう死んでる』って聞いてたから、はあ? って思ってその時は電話切ったんだけど」

「はい? なんのやり取りもせずに無言で切ったんですの?」

「まあ」

「は~~ん。ずいぶんな薄情者ですわねぇ」

「しかたないでしょ。こっちは小さい時に里子に出されてて、母親の声なんて覚えてなかったんだから」

「でも、あなたはここにいるんですわね」

「電話を切ったあとで、今まで里親に騙されてきたんじゃないか? って思い直しただけよ。それで、本当はお母さんが生きてて、妙高院の家があたしに嘘を吐き続けてきたんなら、一族郎党を皆殺す理由ができるな――って」

「こっわ。里親のこと、そんなに嫌いなんですの?」

「好きになれると思う? あんな、カビが生えて腐った家。魔法使いを生み出すことを至上命題にした古い家なんて……言わなくても大体わかるでしょう?」


 物騒なことを言う割りには、ずいぶんと静かな声。

 イスラ・カミングスがクスッと笑った。


「それはまあ。国は違えど、わたくしも『蠱毒育ち』ではありますから」


 俺は後ろで聞きつつ――ソロモン騎士みたいな超人を生み出すんだから、そりゃあ、エグいことだって平気でやってそうだよなぁ――なんて、『魔法使いを生み出す蠱毒』に思いを馳せるのだった。

 多分、修行と称して魔法使いの見習い同士で殺し合ったりするのだろう。


「あたしの母親の話は妙高院の当主から聞いてた。……ソロモン騎士じゃないけど、騎士団から救援要請されるぐらいには最強だったって」

「救援? 最強無敵で、気位の高いソロモン騎士団様がそんなことしますの?」

「だから一回実物を見てみたかったってのもあるのよね。一目見て強そうだったら、最強がどんなものか、ちょっと仕掛けてみても良かったし」

「あっはっは! とんだ戦闘狂! 生き別れの娘が言う言葉じゃねえですわ。それで? ご母堂とのご対面はどうでしたの?」

「……普通……かな? 故郷の場所はなんとなくわかってたし、普通に帰って、普通に歓迎してもらって――ちょっと襲いかかったら、その先の記憶が曖昧なだけ」

「はっはぁ! 結局、腕は振り上げたわけですのね!」


 イスラ・カミングスは高らかに笑うが、俺は、二人の後方で戦々恐々だった。


 あの妙高院静佳が良いように手玉に取られたと言う……そんな超絶の化け物がいる村に、俺たちは向かっているのだ。冴月晶が囚われているかもしれないのだ。


 読神沙也佳。


 あの黒髪美人が『異常事態の黒幕かもしれない』と知って、しかし俺には驚きも焦りもなかった。

 元々、怖い感じも、怪しい感じもあった。夕食をご馳走してもらった時だって、魔女に食事を振る舞われるヘンゼルとグレーテルな気分だったのだ。

 今はただ、『読神さんと戦いになったら……』という大きな不安があるだけ。


 その不安にいても立ってもいられず、ふと俺は苦笑混じりの質問を三毛猫へと投げかけた。

 絶対に解決しておくべきというわけではないが、気になっていた疑問。


「あの――結局、静佳さんって双子だったんです? 舞佳さんって?」


 すると三毛猫が歩きながら「生まれた直後はね。生後何日かで死んだそうですよ」と返してくれて、それからチラリと俺に振り返った。


「なんで和泉さんが妹のことなんか知ってるんです?」

「操られてた静佳さんに『読神舞佳』と名乗られましたから。やっぱり覚えてないですか?」

「あーー……」

「お母さんとしては、未練があったんでしょうかね?」

「さあ? 顔すら記憶になかった母親の気持ちなんて、あたしにわかるわけないです」

「昨日、私と話した記憶はあるんです?」

「……………………」

「夕食の時、隣でお酌までしてもらったんですが」

「…………ほぼないって感じですかね……戦った時の記憶だけは、うっすらありますけど」

「なるほど。それは良かった」

「はあ? 良かったって、なにがです?」

「ははは。ちょっと特殊な出会い頭だったもので」


 そりゃあ――昨晩、風呂場で鉢合わせた時のことを覚えていないと言われれば、俺としては良かったと安堵するしかない。


 妙高院静佳は裸を見られ、俺は蹴っ飛ばされた。

 それで決着した話とはいえ、俺の記憶にはあの光景が――重たそうな乳房が――蠱惑的な下腹部が――湯気を纏った太ももの根元が――はっきり残っているのだ。

 無論、墓場にまで持っていく決意だが、妙高院静佳が覚えていないとなれば、俺の気まずさも幾分か薄らぐ気がした。


 それから何十秒間か沈黙が流れ。


 ――ザク。


 ――ザク。


 と、俺とイスラ・カミングスの足音が静かな雪山に広がっては消えていく。


「ちょっと妙高院静佳。続きは? 今のところ、なんの核心もないんですけれど」

「終わりよ」

「はあ~~?」

「先に言っておいたはずだけど? 情報量にガッカリするって」

「本当になんにもないとは思いませんでしたわよ。小娘が綺麗に誘い出されて操られただけって……あなた、本当にソロモン騎士ですの? お粗末にもほどがあるのではなくて?」


「は――?」


 こんなところで激しく言い争ってもらっても困る。

 だから三毛猫が言い返すよりも早く、「まあまあまあまあ」と小走りした俺だ。三毛猫とイスラ・カミングスを分けるように間に入ると。

「結局、読神さんは何がしたいんでしょうね。あの人が黒幕だとしたら、誰を蘇らせたんでしょう? 静佳さんの妹さんでしょうか?」

 早口で新たな話題を提供する。


 イスラ・カミングスも「そうですわ。“薔薇の使徒”が誇る神像様が反応したんですから、何者かの復活は確実ですわよ」と乗ってくれた。


 三毛猫からの返答は「…………」少しばかり時間が掛かり、素っ気なかった。

「もしも妹が生き返ってるんなら、『お母さんがあたしに妹役をやらせる』意味はないと思いますけど」


「……静佳さん……」


 ふと前方を見れば――灰色の雲が割れて光の筋が地上に落ちているし、ここまでずっと俺たちの歩みの周囲に存在し続けた枯れ木の群れが切れるところだった。


 ――冬の森の終わり――


 ――山の稜線から降りてくる冷たい風――


 ――山中の窪地に突如として現れた数十の瓦屋根――


 雪の上り坂を歩き続けた俺たちが出たのは、くだんの黒津根村を見下ろせる崖のそばだ。


「……黒津根村……」


 強い風に吹かれながら、静けさを宿した家々を視界に収めれば……背筋がゾクリと震えた。


 一見はなんの変哲もない雪中の村。


 しかし――である。

 雪に覆われたこの村のどこかに、冴月晶が囚われていると言う。

 この村のどこかでは、実の娘すらも傀儡とした読神沙也佳が、何事かを企んでいると言う。


「救出作戦ですわね。イズミさんは、スパイのご経験はあって?」

「いやぁ、映画で見たぐらいで……」


 痛いほどに背中が強張っていた。


「日本のおじさんに無茶を言うな、“薔薇の使徒”。ま、とりあえずはあたしが先導しますから――土俵際は期待してますよ、ご主人様」

「そ、そうですよね。今は、静佳さんだって、デッキの中にいますしね」


 寒いのか、怖いのか、それとも武者震いなのか、今はまだ全然わからない。

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