猫の口が語り出すには
「あの。やめてください」
風を避けられる程度の浅い洞穴に二人っきり。いや、人間二人と猫一匹っきり。
山肌にこの場所を見つけるまでイスラ・カミングスに肩を貸し続け、あまつさえ大きな三毛猫を脇に抱え続けた俺は、「あの、イスラさん……」疲労によって熱を帯びた息を吐く。
「イスラさん、顔を上げて――」
「ずっと生意気な口をきいてすみませんでした」
わずかに吹き込んだ雪でところどころ白くなった岩の床、そこにイスラ・カミングスが土下座していた。振りとか戯れとかじゃない。地面の雪を舐めるほどに深々と、だ。
俺は、左腕を失ったチェスターコートの背中をしばらく見下ろすが……どうしたものか考えるのも面倒で、洞穴の壁に沿ってずるずると腰を下ろす。
ゴツゴツした硬い地面に尻を置いて、居心地の悪い壁を背もたれにして、「はあ――」深いため息を吐いた。
やがて、いつまでも顔を上げてくれないイスラ・カミングスに声をかける。
「与えられた力です。私が立派なわけじゃない」
「どんな経緯だろうと、和泉さんは異界の神と心を交わし、『あの妙高院静佳』に勝った。召喚術に携わる全員が仰ぐべき、『
「ははは――確かに、カードゲーマーにとっては、大金星でしたね」
「『冴月晶のお付きの人』なんて言って申し訳ありませんでしたわーー」
洞穴を自由にうろつく三毛猫がイスラ・カミングスの長い茶髪で遊んでいた。
地面に広がった髪の毛を突っつき、叩き、彼女の頭頂部に身体を擦り付けるようにごろんと寝転がると、ひどく可愛い顔で俺を見上げるのだ。
だから俺は、三毛猫と目を合わせて、こう言った。
「あいつの友達かい?」
直後、三毛猫の可愛い口が開き、こう言った。
「うん、そうだよ」
タイミングのいい鳴き声を無理矢理聞き間違えたわけじゃない。多少舌足らずではあるが、はっきりとした日本語だった。素直で可愛いうなずきだった。
直後――疲労困憊のくせに土下座から飛び退いて洞穴の壁に貼り付くイスラ・カミングス。
俺だって素直に日本語が返ってくるとは思っていなかったから、多少面食らって目をしばたたかせた。
三毛猫と目を合わせ、「びっくりさせてくれるじゃないか」と苦笑だ。
それから俺は、防寒着のポケットからデモンズクラフトのデッキケースを取り出し、手の中でカードを開いた。
“カレイドドール・愛らしき踊り子リーサ”。
“カレイドドール・笑顔の裁縫師アレット”。
“カレイドドール・寡黙なパティスリー フランセット”。
“カレイドドール・凜然たる姫騎士レオンティーヌ”。
“カレイドドール・淫虐たる修道女オレリア”。
“アポ・メカネス・テオス”。
“雷巨神の鉄槌”。
“宿り血の殲滅意識”。
“古き歌よ。我が友の歩みを支えたまえ”。
悪魔エゼルリード、巨大な黒龍、ソロモン騎士・妙高院静佳――思い出すだけでうんざりする強敵たちとの戦いで俺の力になってくれたカードが次々と現れていくが……その中に一枚、見覚えのないカードを見つけ、俺はカードを
お守りに一枚差していた“冥府喰らいのネビュロス”が見当たらない代わりに、勝手にデッキに入り込んでいたカードの名は――
ついさっき、妙高院静佳との戦い――アポ・メカネス・テオスがいて、マジックカード“宿り血の殲滅意識”が発動し、手札があまり意味を成さない状況下で人知れずドローしていたカードの名は――
“追憶の底ベルフェゴール”。
初見のグレイスカードだった。
『真っ白な花畑に立って両手を広げた、魔術師風の仮面男』が、美しく荘厳なカードだった。
デモンズクラフトの基本ルールすらも壊してしまう超絶のカードだった。
“追憶の底ベルフェゴール”なるカードを見つめる俺が思い出すのは、モンスターカード“瓦解の果てベルゼブブ”で、効果の豪快さから『あれの同類』だと確信するのだ。
「名前は、ベルフェゴールでいいのかい? 魔王の一人?」
「そう呼べばいいし、そう思ってもいいよ。われは誰でもないし、誰でもあるし、どこにもいないし、どこにもいるけれど」
「ふむ。なんだか難しい魔王様なんだな」
「今は猫だよ」
「そっか。でも、だったら、あんまりしゃべらない方が猫っぽいぞ。なでようか?」
「うん」
するとゆったりした歩調で三毛猫が俺に近付いてきて――デッキ束を地面に置いた俺は、三毛猫を膝に乗せてなで回す。可愛い顔を重点的にこねくり回す。
すると。
――魔王ベルフェゴール――
人智など及ばぬはずの、ソロモン騎士団すらも戦慄して大慌てするはずの超越者が、目を細めて、小さな牙を剥き出しにして恍惚の顔をしていた。
イスラ・カミングスをちらりと見やれば、洞窟の壁に思いっきり貼り付いたまま、愕然としたような顔で三毛猫を見下ろしている。
――嘘ですわ、嘘、嘘、嘘――とでも言いたげに小さく首を振っている。俺が口にした『魔王』という言葉の重大性をよくよく知っているのだろう。
俺だって魔王は怖い。
だが、この手の存在が存外可愛らしいことも知っている。案外話が通じることだってだ。
だから俺は、猫を地面に降ろしてやると単刀直入に問うた。
「妙高院静佳をカードに変えたのは君だろ」
三毛猫からの回答は、即答と断言してもいい早さだった。
「どうかな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「それは……白状と受け取っても?」
「怒る?」
「馬鹿な。俺なんかが魔王を怒れるわけがないだろ。ちょっと文句言うだけだよ。どうすんだよこれ――ってさ。まったく……どうしたもんかね、これから」
「どうするの、これから」
「そうだなぁ……冴月さんと合流して……学生さんたち連れて山から下りて……でもそれじゃあ、静佳さんがこの山にいた理由とか、敵になってた理由がわからないからな……」
「かわいそうだね。悩みが多いんだね」
「…………読神さん…………怪しいんだよなぁ……せめて静佳さんと話せれば……」
思考を巡らせながらそうぼやく俺。そもそも門外漢の俺が『怪異の正体』を掴もうなんてとんだ無謀なのだ。
デッキケースの中に保管していた超絶のレアカード――雌伏の魔獣・妙高院静佳――を取り出して眺めてみる。
誰が描いたか知らないが、一目で妙高院静佳とわかる写実的な美麗イラストだった。
墨を流したかのような黒髪ロング、真紅の瞳、超常的とさえ思える完璧な美貌。
それはいつもどおりだが、カードイラストの中の妙高院静佳の格好は初めて見るものだ。ソロモン騎士団の白マント姿ではない。本気の戦闘装束である白レオタードでもない。
犬耳とふさふさの尻尾を生やし、身に纏うは漆黒のビキニアーマー。
両手首と両足首を鎖に繋がれて四つん這いになっているものの、愛用の赤銅杖を右手に握り、こちらを睨み付けている。
正直、イラストアドが高すぎるカードだった。
かつて俺が手にした“光亡の剣・冴月晶”と同様の最上級の呪物なのに……それなのに、罪悪感と同時に、所有の高揚感が湧き上がってくるのだ。イラストアドだけで使ってみたいと強烈に思わせてくるカードなのだ。
……魔性の女ならぬ魔性のカード……。
物言わぬイラストを眺める俺は、「はあ……」胸に湧いた様々な思いや考えを吐き出したくて、深いため息を吐いた。ため息だけで我慢した。
しかし。
「話したい?」
三毛猫にいきなりそんなことを問われて、「――っ」驚愕に瞳孔が広がってしまう。
俺は反射的に手の中のカードをもう一度見やるのだが。
「………………」
“雌伏の魔獣・妙高院静佳”に変化はない。
「……やってくれたわね、和泉ぃ……」
しかし聞き覚えのある声が、激怒した妙高院静佳の声が、すぐ近くから聞こえてゾッとした。
「静佳さ――」
カードがしゃべったわけじゃなかった。
それで俺は最高速度で首を回して周囲を確認するのだが、洞窟内に妙高院静佳の姿はない。俺とイスラ・カミングスと三毛猫だけだ。
いくら見回してみても……と思ったら、壁に貼り付いたままのイスラ・カミングスが三毛猫を震える指先で指し示しているではないか。
「お……お猫様、ですわ……」
カード全部をデッキケースに戻した俺はもう一度三毛猫を抱き上げ、真正面から顔を合わせるのだ。
そして気付いた。今までよりも、三毛猫の顔付きが精悍になった気がする――と。
三毛猫に問う。
「静佳さん?」
すると三毛猫の口が開き。
「抱くな。笑うな。哀れむな。……殺しますよ」
言葉の終わりには猫パンチまで一発飛んできた。
幸いと言うべきか、かわいそうにもと言うべきか、三毛猫の前脚は俺の腕より短く、顔まで届くことはなかったけれど。
三毛猫の姿ではあるものの、いつもどおりの減らず口で活きがいい妙高院静佳。だから俺は少し安堵して、思わず笑みが出てしまう。
「よかった。無事だったんですね」
次の瞬間――また猫パンチだ。やっぱり届かなかったが。
「よくないし全然無事じゃない。この状況で、よくもそんなことが言えますね」
「いや、すみません。声が全然元気そうだったから」
「馬鹿。元気なんかじゃ――魔王に弄ばれて、元気でいられるわけがないでしょう?」
「あ――そうか……冴月さんの時と同じ……カードの姿に改造される時に……」
「……ったく……晶もキツかったでしょうね、あれは」
「あの。どう謝ればいいか……静佳さんをひどい目に遭わせたかったわけじゃなくてですね、ただ――」
「別にいいです。勝ち誇られるのはムカつきますけど、どうせあたしが和泉さんを攻撃して、返り討ちに遭ったんでしょう?」
「――?」
「陵辱も改造もされちゃったし、ちゃんと軍門には下ってあげます」
「待ってください静佳さん。今の言い方って……もしかして静佳さん、誰かに操られてました? だから『魔王の鎖』が発動しなかったんです?」
「………………」
返答はなかった。だが三毛猫は首を振ることもなく俺の目をじっと見つめていた。だから俺は、『肯定』と判断した。
そしてそれは、俺と三毛猫の様子を端から見ていたイスラ・カミングスも同じだったのだろう。
「妙高院静佳が操られる? そんなこと、あり得るわけが……」
当然至極の言葉を小さく呟くのだ。
俺は、目を逸らしての小さなため息のあとで、再度三毛猫と目を合わせてこう問うた。
「読神さんですか?」
すると三毛猫がまばたきをゆっくりと一回。その後、まっすぐに俺を見つめて言った。
「和泉さんにどうにかできますか? あの人は――あたしのお母さんは、あたしよりもずっと強いですよ」
それは、俺の問い掛けに対する百パーセントの回答。
何一つ裏のない真面目な声色のおかげで俺は、この山で起きているヘンテコな事態――その中心点に『読神沙也佳がいる』ということをはっきり理解する。
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