聖女の失墜

 その秘密結社がいつから存在したのか、真実を知る者はあまりにも少ない。


 ある人はテンプル騎士団残党の流れを汲むものだと言うし。

 ある人は古代ローマの大スキピオがその設立に関わっていると言うし。

 ある人はトロイア戦争に参戦した神々のモチーフこそが『彼ら』なのだと言う。


 魔術的救世組織――ソロモン騎士団。


 彼らが武器として用いるのは神への信仰ではない。かつて“館の老人”からもたらされたという魔法の力だ。天を裂き、地を砕き、海を割るという神域に至る力だ。


 国家や経済体とは一線を画す彼らは、超常の力を持って秘密裏に人類を守り続けてきた。

 天敵である悪魔から。

 怒れる古き神々から。

 外宇宙よりの来訪者から。

 異世界の侵略者から。

 ソロモン騎士団が相手取ってきたのは、いつだって抜山蓋世の怪物たち。

 しかし、迫り来る脅威に対して魔法使いは少なく、年端もいかない少年少女だとて戦場を舞い踊るのだった。


 ――世界は魔法少女に守られている――

 それは一つの真実であり、それこそが冴月晶の日常であった。


「……まさか、こんなに早くこの街に戻ってくるとは……」


 夜遅く、雨が降っている。

 深く被った白フードの縁から水滴が落ちた。雨に濡れた白の大外套が、街灯りを反射してぬらりと光った。


 冴月晶は、ビジネス街にそびえる高層ビル屋上の縁に立ち、人工光の中を行き交う人々や車列を見下ろしている。その姿はどこか、眠ることなくあらゆる経済活動に勤しむさもしい人類を観察する女神の立ち姿を思わせた。


 女神は、ふと――つい先日この街で出会った一人の男に思いを馳せ。

「……いずみん……和泉、慎平様……」

 小さく微笑んだ。

 と同時に、コンクリートを強く蹴って、何の支えもない空中へと躍り出る。


 叩き付けるほどの風が吹いた。

 冴月晶の軽い身体が吹き飛ばされ、木の葉のように宙を舞う。

 全身がバラバラになりそうなぐらいに回転しながらの急上昇。すると別方向からの豪風が冴月晶を叩き、空中で身動きの取れない彼女を翻弄していく。


 大外套のすそが大きくひるがえった。

 それはまるで、風に乗って空を渡る大翼のようだ。


 奇天烈な強風はその後も冴月晶の周りに吹き荒れ、彼女をどこかへ運んでいく。

 ビルの谷間を抜けて、大通りを飛び越えると、繁華街のネオンが見えた。


 とあるビルの屋上に一度着地して、全力疾走で速度を稼ぐ。そしてまた空中へと飛び出した。

 少しぐらい体勢を崩しても問題ない。

 ビルの壁を蹴り込んで、自由自在に空を駆け抜けるのだった。


 冴月晶は思う。

 ――この時間、和泉様はまだ働いているのでしょうか――と。


 あの大人に会ってから二週間が経っているが、『あの一局』の高揚感は一向に薄れる気配がない。あれから冴月晶も“千刃の舞姫 冴月晶”を本格的に使い始め、すでにワイズマンズクラフトのネット対戦で勝利を重ねている。


 最初の出会いは本当に偶然だった。


 冴月晶は、別段、あの幽霊を倒すことが目的だったわけではない。

 ソロモン騎士団は、炎の悪神を滅すために、冴月晶をこの街に派遣した。

 元々はどこぞの土地神であったが、長い時の中で人類に害をなすようになった存在。炎神が根城にしていた廃ビルに肝試し目的で入り込んだ大学生の一団が謎の焼死を遂げたおかげで、ソロモン騎士団も無視できなくなったのだ。

 冴月晶が討ち手として選ばれた理由は、確実に任務をこなせるだけの実力があり、たまたま近くにいたからというだけ。隣県の温泉街で旅番組の収録をしていたのである。

 冴月晶と炎の神との戦いは一〇分程度で片が付いた。

 和泉慎平を助けたのは、ホテルに帰る途中で悪霊の気配を感じたからだ。本当に、『ついでの用事』でしかなかった。


 つまるところ――冴月晶はソロモン騎士団に所属する魔法少女であり、今をときめく大人気アイドルでもある。こんな地方都市を一ヶ月も空けずに再訪する道理はないのだが――


「……魔王の出現……にわかには信じられませんね……」

 今夜、冴月晶は、魔王出現の真偽を調査するためにこの街に急行した。


 ――魔王来たる――


 その凶報は公共放送の歌番組収録が終わった直後にもたらされ、移動には軍用の輸送ヘリが用いられた。


 魔王――広大無辺なる地獄を統べる七柱の実力者たち。その存在は六世紀後半にはっきりと認められ、七つの大罪として今日まで広く語り継がれてきた。

 だが、実のところ、本当の意味で人類が魔王と敵対したことはない。ソロモン騎士団が幾度となく討ち滅ぼしてきたのは、魔王を詐称しただけの悪魔たちだ。『本物』が地上に顕現したことなどありはしない。


「しかし……確かに、これほどの寒気……」

 そう呟いた後、唇を固く結んだ冴月晶が静かに降り立ったのは、外灯もない路地裏だった。

 繁華街の灯りが差し込んでくるために特別真っ暗ではないが、まともな人間ならばわざわざ入ってはこないだろう。潰れた居酒屋の割れた電飾看板が薄気味悪かった。


 冴月晶の両手には二振りの白銀が握られている。


 今にも暗闇に呑み込まれそうな路地裏…………しかし先客がいないわけではなかった。

 男だ。

 道の隅でスーツ姿の男がうずくまっていた。


「げぇ、えほっ、おぇぇっ――」


……吐いている……。男は全身ずぶ濡れになるのも構わず、格子状のグレーチングを被された排水溝に向かって嘔吐していた。


 アルコールの臭いが鼻をつく。酔っぱらいだ。

 冴月晶は眉をひそめながらも、一切の油断なく男に近づいていった。


「…………」


 声すらかけない。当然だ。冴月晶に寒気を感じさせるほどの黒々とした気配は、小さくうずくまった男から立ち上っていたのだから。


 無防備な首筋に細身の剣を突き立てようとして。

「――くっ――!!」

 いきなり冴月晶の身体が宙を踊った。


 不意打ちのように現れた黒刀に剣撃を弾かれて、反射的にバックステップを踏んだのだ。


「…………悪魔…………魔王ではない……」


 それは漆黒の騎士だった。

 身長は優に二メートルを超えている。全身を分厚い鎧で覆い隠し、どんな顔をしているかさえ定かではなかった。

 とはいえ、人間でないのは確かなようで……脇腹から伸びた二対の小さな腕がその証だ。まるで虫の脚みたいにワサワサと動いている。


 騎士型悪魔は嘔吐男の影の中から現れた。そして、悪魔が人間を守ろうというのか、どす黒い刃の大剣を構えて冴月晶の前に立ちはだかるのだった。


 雨音にまぎれて、キシキシと耳障りな音がする。悪魔の関節が鳴いているのだ。


「……魔王へと連なる奸物には見えませんでしたが……なるほど。お前ほどの者が守護者であるのならば……」

 双剣を構え直した冴月晶が静かに言った。

「全身全霊で殺します」


「おぉふっ、あぉっ、げぇぇ――」

 男はまたえずいている。いったいどれだけ飲んだのだろう。


「我が名は晶……ソロモン騎士、冴月晶……人類の安寧を見守り、叡智の光当たらぬ不条理を屠る者。“千刃”の天啓を戴きし女」


 ドスが利きそうなほどの低音で名乗ってから、麗しき魔法少女が悪魔騎士に飛びかかった。

 二刀を用いての一気呵成。

 抜群の速度で悪魔騎士の懐に潜り込むと、流れるように白銀の刃を滑らせた。

「――ちぃっ――!!」

 硬い。腹部正面の装甲はとても切り裂けそうにない。


 それでも冴月晶は止まらず、全身鎧の隙間を探すように十字剣を振るう。

 二、三撃目で脇腹の感触を探り。

 四撃目は悪魔騎士の脇腹から伸びる副腕の一つに防がれた。

 副腕の付け根を狙った五撃目で手応えを感じ。

 六撃目でようやく肉に届いたらしい。黒い飛沫が散るのを見た。


 無論、それで悪魔騎士を無力化できたわけではない。巨体の体当たりで一〇メートル近く跳ね飛ばされ、追撃の機会を潰された。

 十字剣で防御はしたが、受け流しきれなかった衝撃が冴月晶の体内を掻き回す。コホンッと小さく咳をしたら血の味がした。

 痛みなどは完全無視して再度の突進。


「極北の鋼 白夜の硝子 吟遊詩人は口をつぐみ 天秤は星空をこぼすだろう」


 朗々と唱い始める。

 すると冴月晶の美声が幾重もの重なりをもって路地裏を包み込み――悪魔騎士と激しく斬り合う金属音すらも消し去ってしまった。


 ……この悪魔……少しやりづらいですね。

 踊るように斬り込みながら、歌姫のように喉を鳴らしながら、冴月晶は首を傾げていた。


 反撃が来ない。


 攻撃しているのは冴月晶ばかりで、悪魔騎士の剣は少女の剣撃を受けているだけだったのだ。さっきの体当たりさえも防御の一環だというのなら、この悪魔は専守防衛に徹しているということになる。そのためカウンターが狙えず、いまいち深く攻め込めなかった。


 ――まあ、別にいいですけれど――


 そして。

「ロヴンエイルの水面 乙女たちは凍土の剣を掲げ 明星の捕食者へと指を向ける」

 冴月晶の吐き出した言葉たちが、やがて神の武力を形作る。


 ――宙に浮かぶ剣の軍勢が冴月晶の背後に現れた。

 それは、ユラユラと揺れる陽炎のようで、しかし人智を超えた剣撃の魔法だった。


 魔法少女が悪魔騎士を指差したのが発射の合図。真鰯の群れがごとくに悪魔騎士を飲み込むと、その巨体のことごとくに刃を突き立てていく。


 針山と化した悪魔騎士の脇を、一陣の風が吹き抜けた。

「覚悟っ!!」

 冴月晶だ。この期に及んでも嘔吐している酔っぱらいに最高速で詰め寄った。


「――んあ?」

 顔を上げた酔っぱらい。しかしもう間に合わない。何を画策していようとも、このタイミングでは冴月晶の剣の方が速い。顔面を串刺しにされておしまいだ。


 ――――――


 だが、すんでの所で十字剣を止めたのは、魔法でも、悪魔の力でもなかった。

「――――い、ずみ……様…………?」


 人の縁というもの。


 酔っぱらいは、冴月晶が憧れたカードゲーマーの顔をしていた。ずいぶんと青白く、憔悴しきった酷い顔だったが……見間違えるわけがない。見間違えることがあってはならない。


 意味がわからなかった。魔王顕現のまっただ中に、『和泉慎平』がいたのである。


 ――どうして――?

 動揺に震えるか細い声は、しかし突如として巻き上がった炎の渦にかき消されてしまう。


 いつの間にか、和泉慎平の右手が一枚のカードを地面に落としていた。“氾濫する焔”という名のマジックカードを……。


 赤色と熱の奔流はしばらく続き、それは和泉慎平自身の髪の毛も少し焦がした。

 やがて――白銀の十字剣が炎の竜巻を断ち割って現れる。

 そして炎が散り散りに消え失せていく中、路地裏の中央で棒立ちしている華奢な身体。


「はぁー……はぁー、はぁー……」 


 魔法少女は焼け死んではいなかった。炎の直撃を喰らったにも関わらず、白の大外套がすすけているぐらいだ。真っ白な肌の美貌に火傷は見当たらなかった。


 しかし消耗はしている…………熱気を吸い込んだのか、苦しそうに呼吸していた。


 深い呼吸をもう三度。

 それで冴月晶は顔を上げた。「……っ」今にも泣きそうな顔で、うずくまる和泉慎平を見た。


 和泉慎平は弱々しく右手を挙げている。


 その仕草が何を意味しているのか……まるで処刑の命を下す皇帝のようだと気付いた時にはもう遅い。

 冴月晶の背後に、全身を串刺しにされたままの悪魔騎士が立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る