死に至る憂鬱

「んだテメェ! 無能のくせにオレの酒が飲めねーってのかよ!?」

「いや、でも……これ、ウィスキーですし……」

「でもじゃねーよ! 飲めっつってんだよ!!」


 典型的なアルコールハラスメントに俺は泣きそうだった。


 雨模様の木曜日に、取引先である居酒屋を貸し切って開催された酒宴。

 元々は上半期の営業成績優良店として表彰されたことに対する祝いだったが、結局のところ、支店長や課長連中による説教大会へと変貌した。


 上座の席では、脂ぎった支店長が新入職員の女の子たちにおなじみの武勇伝を語り。

 預金課の方では、課長とお局のおばさんがタッグを組んで、もうすぐ産休に入ろうとしているクール系美人に向かって嫌みを並べている。

 融資課の席はどうだろうか。一見すれば静かに飲んでいるようだったが、若手の有望株がボロ泣きしていた。あの嫌みな融資課長に何を言われたのか……。


 とはいえ――


「おい和泉! 聞いてやがんのか和泉!! 飲めやオラ!!」

「はっ、はい! 飲みます! 飲みます!」


 一番の惨状は間違いなく渉外課だ。


「イッキできなきゃテメェのノルマ上乗せだからな!! 気合い入れて飲めや!」


 『壊し屋』の異名を持つ渉外課長が、犯罪レベルで大暴れしているのだから。


 すでに俺以外の同僚は潰された。一人は青い顔して畳に転がっているし、一人はトイレで吐いてるはずだ。ウィスキーの一気飲みはヤバイ。なんでこいつ、逮捕されてないんだ。


 普段一滴も飲まないのに無駄に酒に強い我が身を呪った。


「おらぁカス崎ぃ! 誰が寝ていいっつったぁ! つか、カス崎とクソ和泉しかいねえじゃねぇか!? 田辺どこ行ったぁ!」


 最悪だ……これが俺の上司かと思うと泣きたくなってくる。


「いいかお前ら? 無能なお前らがおまんま食えてるのもオレのおかげってことを忘れんなよ? お前らのノルマ未達をカバーしてんのはオレだ。わかってんだろうなぁカス崎ぃ!!」


 そりゃあ部下の成果を横取りしてるからだろうが。やられた回数と金額は俺が一番だが、同僚の山崎と田辺だって、こいつには煮え湯を飲まされている。


「ま、まあまあ、課長。山崎はもう限界ですって……」

「――うるせぇ!」


 顔面を拳で殴られた。そのうえ、ウィスキーの瓶を口に突っ込まれた。

 強いアルコールで喉を焼かれ、あり得ない理不尽に涙が出てくる。


 二流大学を卒業して、社会に出てから――俺の上司運はいつも最悪だった。

 初めての上司は信用金庫きっての偏屈者だったし、二番目の上司は全然仕事しない人で、俺はいつもあの人の尻ぬぐいに奔走していた。そして今の上司は、退職に追い込んだ部下が十数人にも及ぶという精神異常者。確か自殺者も出ていたはずだ。そのクセ自分より立場が上の人間には媚びへつらうから、もう手が付けられない。


「そういや和泉テメェ、また融資取れなかっただろ! ぶっ殺すぞ!」

 また殴られた。


 さすがにヒートアップしすぎてみんなが俺たちに注目し始めるが、助けてくれる人なんていなかった。支店長が見て見ぬふりなのも、いつも通りだ。


 なんでこんな奴がうちの職場じゃあ評価されているんだ? なんでこんなゴミが、社会にいやがるんだ?


 死ぬ――と思った。

 アルコールとストレスと暴力に殺される――と思った。


 もうほとんど何も考えられない。

 許容量オーバーのアルコールが、俺から視界と思考力を奪っていた。身体をうまく動かすことができず、耳も遠い。


「起きろやクソ和泉! 死んでもオレのために働け!」


 課長の野郎が酒を片手に俺を揺さぶっている――気がする。


「まだ飲めるだろうが! 死ぬなら壊れてから死ね! テメェみたいな役立たず、どうせ誰もいらねえからよ!」


 自分がどんな体勢でいるのかもわからない。まだ座っているのか、それとも畳に倒れているのか。上を向いているのか、下を向いているのか。


 死ぬ――と思った。


 必死に右手を伸ばしてみた。這ってでもここから逃げなければ、本当に殺されてしまう。


 ――カードに触れた。


 わけがわからない。本当にわけがわからないが、俺の右手は、確かに、五枚のカードの感触をはっきりと感じていた。

 この大きさ、この重さ、この手触り……間違いない。これは俺が半生を費やしてきた遊戯で使うカードだ。クレジットカードやポイントカードの類じゃない。どうしてこんな所に……?


 何のカードだろうかと目をこらすが、よく見えなかった。アルコールで目が死んでいる。


「助けて」

 果たしてそれは俺の声だったのだろうか。


 ぼやけた視界に人の影が映る。

 すでに耳もまともに聞こえない。ユラユラと揺れる人影が、何か怒鳴っている気がした。


 もう嫌だ。もうここにはいたくない。


 思考も、視力も、聴力も、身体感覚も――アルコールによってすべてがあいまいと化した世界で、手にした五枚のカードだけが、やけにはっきりとしていた。


 我々こそが救い主だ。

 そう自己主張しているかのように、俺の手の中で輝いていた。


 ――助けて――


 いつの間にか手にしていた五枚のカード。そのうちの一枚を適当に引き抜き、適当にその辺に叩き付けた。


 カードを切ったのだ、俺は。


 俺の身体を叩いたり、さんざん怒鳴りつけてくるこの人影をどうにかしてくれと願いながら、俺は、カードを切った。


 ――――――――――――――――――


 すぐさま現れたのは黒いモヤ。

 色彩ぐらいしか認識できなくなった俺の視界で、黒いモヤが人影に触れた気がした。


 課長と思われる乱暴な人影は黒いモヤに気付いていない。

 人間よりもずっと大きく、得体の知れない黒い何かが、背後に立っているのに――

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