化け物

 放物線を描くこともなく五メートル先のゴミ山に突っ込んだ俺は、すぐさま命と意識を取り戻して――まずった。気ぃ抜いた――何はともあれ、とにかく動き出すのである。


 後悔も反省も後回しで良い。

 今は「しぶてえクソ虫がぁあ!!」飛びかかってきたギルゴートギルバーをどうにかする方が先決だ。


 ライフを失ったことで、折れた右腕も、潰れた内臓も、砕けた顔も元に戻っている。 


 不燃ゴミを撒き散らしながら立ち上がると、速すぎてほとんど見えない拳を横っ飛びのオーバーアクションでかわした。


「待てやコラぁあ!!」


 追撃はもうかわせない。かわさない。

 ギルゴートギルバーの拳の風圧を顔面に感じながらカードを切った。


 二枚目の“塵と化す戦意”――成功。


 吸血鬼の拳は止まらない。再び俺の顔を捉え、「オラァ!!」思いきり振り抜いた。


「ぐっ――」

 瞬間、俺はよろけ、一歩、二歩と後退。


 ………………………………。


 だがそれだけ……本当にそれだけだった。


 そうだ――ギルゴートギルバーの一撃をまともに食らって、俺はよろけただけだった。まだ生きている。まだ立っている。まだギルゴートギルバーを見据えている。


「な――」


 ギルゴートギルバーが目を見開いた。そして叫んだ。


「何をやった貴様あああああああああああああああああああああああ!!」


 しかし俺は唇を軽く舐めただけ。口の中を少し切ったなと思った。


 マジックカード“塵と化す戦意”。

『成功判定:二・三・四・五・六。相手モンスターの攻撃力をマイナス三する』


 このカードを二枚使われて、ギルゴートギルバー……この吸血鬼の王様には、もう、人間を殺せるほどの攻撃力は残っていない。


「オレのッ! オレの身体に何をしたああああああああああああああ!?」


 速度もその辺の人間とほとんど同じ。たった二、三メートルの距離を二秒以上かけて潰すと拳を振り回すのだ。


 一発は右腕で受けたが、一発はよけられなかった。

 力任せの右ストレートを左眉に入れられて視界に火花が飛んだ


 それでも俺は倒れない。


 左フックと右フックを両頬に叩き込まれ――しかし俺は倒れない。一瞬クラッとしたが踏みとどまった。


「言ぇええっ!! カードゲーマぁああああああああああああああああああああ――!!」


 ギルゴートギルバーが叫んでいる。

 俺は何度も顔を叩かれながら、どこか遠くに聞こえる悲鳴のような叫びを聞いていた。


 攻撃力を〇にしたぐらいで終わらないのは承知の上だ。


 ここからが始まりなのだ。

 ここからが、和泉慎平という男の正念場なのだ。


「言えやああああああああああっ!!」


 ギルゴートギルバーの左拳が下がった。左のボディブローが来ると思ったから、自然と右肘を落としてガードした。


 デモンズクラフトのカードをその手に握ったまま左腕を持ち上げる。飛んできた右ストレートに左前腕の骨が少し軋んだ。


『和泉様。まずはブロッキングのやり方を覚えましょう。基本はこう、顎の上まで拳を持ち上げて――』

『だからさぁ、相手がこう殴ってくんじゃん? そうしたらこう受けるじゃん?』

『防御が間に合わなかった時? そんなの腹筋鍛えておけばいいじゃないですか』

『じゃああたしパンチするから和泉っち受けてみてよ』

『……違う。そうじゃない……こうやるの……』

『和泉さん才能ないんだから反復あるのみです! ほらっ、ファイトー!』


 少しだけ朦朧とする意識――少女たちの声が耳奥に反響する。


 冴月晶。

 悠木悠里。

 高杉・マリア=マルギッド。

 レオノール・ミリエマ。

 アレクサンドラ・ロフスカヤ。

 矢神カナタ。


 俺みたいな中年男の戦闘訓練に毎日付き合ってくれたソロモン騎士の少女たち……彼女らと過ごした時間は決して無駄ではなかった。


 上出来だ。ギルゴートギルバーの拳を少しでも防げたのだから、上出来だ。


「にんげぇえええええ――!!」

 ギルゴートギルバーが空振りした瞬間、俺は手札のカードを二枚切った。


 マジックカード“月夜の鎧剥ぎ”――失敗。

 マジックカード“月夜の鎧剥ぎ”――成功。 


『成功判定:二・三・四・五。相手モンスターの防御力をマイナス三する。ただしこの効果で相手モンスターの防御力は〇にならない』


 そして右拳を握る。

 右足のかかとを外側に切って、腰を回した。


『和泉様。右ストレートは下半身でつくった回転運動を身体の中心線に集めるイメージです。左の股関節が流れないように。背中の筋肉を意識して――』


 脇は開かない。

 ギルゴートギルバーの顔面めがけて、まっすぐ右拳をぶん投げた。


 ――パキャッ――


 激突の瞬間に俺が聞いたのは、笑ってしまうぐらい軽い音。

 固く握った拳に残る感触もわずかだった。


 だが、それでもだ――――それでも、地面を見れば、ゴミの上にギルゴートギルバーが尻もちを付いている。幽鬼のように力なく立つ俺を見上げてきょとんとしていた。


 さんざん殴られた俺は、顎から滴るほどの鼻血を手のひらでぬぐい、静かに言った。

「さっきから、いちいちうるせえ」


 今の一発でギルゴートギルバーも口から血が溢れている。牙が片方抜けたみたいだ。


 いつまで経っても傷の修復が始まらないことに気付いて、ギルゴートギルバーの顔色が変わった。言葉を失い、震える両手を見つめ出す。


「治らないのが不思議か?」

「…………お、オレの……オレの、アルメイアの、力……」

「イゴーシュがお前の能力をすべて消した。再生能力も、他のも全部だ。吸血鬼の始祖だとか、アルメイアの血だとか――そんなもの、もう何の意味もない」


 俺がさっき自壊させた“悪夢より生まれしイゴーシュ”。あのモンスターカードに書かれていたのは、こんな文章だ。

『あなたは“悪夢より生まれしイゴーシュ”を任意のタイミングで破壊することができる。その時、相手モンスターはすべての特殊能力を失う』


 だから――戦いの中、ギルゴートギルバーは気付かなかったようだが……こいつはとっくの昔に特別な存在ではなくなっていたのである。攻撃力と防御力が残っていただけ。


 そして、その攻撃力と防御力だって……マジックカード“塵と化す戦意”、“月夜の鎧剥ぎ”で台無しにしてやった。


「ぺっ――」


 血と痰が絡まった赤黒い塊を足元に吐き捨ててから、俺は顔を歪めてギルゴートギルバーに告げた。


「調子に乗るなよ。攻撃力〇、防御力一のバニラが」


「…………バニラ……」


 シンプルなバニラアイスのごとき、何一つ能力を持たないモンスターカードのことを『バニラ』と呼ぶ。ギルゴートギルバーが知るはずのないカードゲーム用語だ。とはいえ、その意味を教えてやるつもりは毛頭なかった。


 そうだ……俺は引きずり下ろしたのである。吸血鬼の王という恐るべき怪物を、俺と同じ非力な人間の領域まで引きずり下ろしたのだ。


 取り巻きはもういない。吸血鬼の群れも、魔法少女ダリアも……ギルゴートギルバーを守る存在は、この地のどこにもいない。一人っきりだ。


「………………」

 俺は無言でカードを切った。


 マジックカード“生き残りの障壁”――成功。


 直後、大きく息を吸ってから動き出す。


 ――――――


 一分間の無敵時間――神すらもが俺を傷付けることのできぬ六〇秒間を盾に、ギルゴートギルバーに猛然と飛びかかった。


 逃げようとしたギルゴートギルバーの腕を引っ掴み、その顔面に左の肘打ちを叩き込む。


「あべぃッ」

 吸血鬼が鳴いた。だが倒れない。


 反撃が来た。俺の鼻を狙ってギルゴートギルバーの拳が振るわれるが、当然、無敵の障壁に阻まれる。何一つとて俺にダメージを与えることはできなかった。


 もみくちゃになっている最中、俺が繰り出したのは悠木悠里に教わった金的膝蹴りだ。


「――ぉう――っ」

 運良くモロに入った。ギルゴートギルバーの動きが、一瞬だけ完全に止まった。


 その隙――ピアスだらけの顔面を右手で掴んだ俺は、「だりゃあっ!!」そのまま、ギルゴートギルバーのピアスをまとめて引き千切るのである。


 肉と皮膚が破れる音。


 俺の手の中にはいくつかピアスが残り、それを握り込んだまま血だらけの顔面を叩いた。

 ギルゴートギルバーはまだ倒れない。


 なにがなんでもここで決める!! そう思って俺は必死だった。呼吸も忘れて動き続けた。


「あ゛あ゛ぁっ!!」

 そしてまたギルゴートギルバーの顔面を殴りつけた。


 きっと……きっと、この吸血鬼の王様は、始祖アルメイアの血にずっとかまけてきたのだろう。何かの拍子に手に入れた大いなる力にうぬぼれて、何の研鑽もしてこなかったのだろう。他人様の力をあたかも自分のものであるかのように振りかざして、絶対的支配者を気取ってきたのだろう。


 だから、それをすべて失った今、付け焼き刃的な戦闘訓練を受けただけの中年男に追い詰められる。俺のようなただの人間と汚く殴り合っている。


 こんな――こんなつまらない奴が、ソロモン騎士を狙ったのか!?


 ふとした瞬間、壮絶な怒りが噴き上がった。


 多くの人間を無惨に殺し、いまだ幼いダリアを奴隷のごとく扱い、サウスクイーンアイドルの年末ライブをめちゃくちゃにしようとした怪物が――――『この程度』


 殴られるのを嫌ったギルゴートギルバーが、せめて距離を潰そうと抱き付いてくる。


「オぁぁぁぁぁぁ――っ!!」

 構わず俺は入れ墨の走るその首筋に噛み付いた。

 一切の加減なく肉を喰い千切ろうとする。


「――――――――――――――――――――――――――――――――」


 声にならぬ悲鳴を上げたギルゴートギルバーが、子供の喧嘩みたく俺の頭を叩く。しかし俺は決して顎を弛めなかった。


 “生き残りの障壁”の効果はもう切れている。頭に衝撃を受けながらも俺は、ギルゴートギルバーの首筋を離さない。そのまま、痛みによって踏ん張りを忘れた足を払った。


 それでようやく仰向けに倒れたギルゴートギルバー。


 俺はその腹にまたがってマウントポジションを取る。


 カードを切った。

 ダメージを三分間無効化にできるマジックカード、“聖者の驕り”――失敗。


 次の瞬間、「おぶ――っ」俺の顎が跳ね上がった。


 下になったギルゴートギルバーが身体を起こしながら拳を放ったのだ。

 火事場の馬鹿力――その一撃は間違いなく俺の戦意を奪うのに十分なクリーンヒットで。


「――――――――――ッ!!」


 しかし俺は歯を食い縛って、ギルゴートギルバーの顔面に頭突きを叩き込んだ。


 こんなもの、妙高院静佳や悠木悠里の打撃に比べれば何のことはない。俺は――あのアンリエッタ・トリミューンにだって殴られた男だ。痛みには慣れている。


 ――無駄ではない――


 そう。無駄ではないのだ。


 俺がここまで生きてきたすべては――今日、この時、この瞬間まで俺が戦ってきたすべては、何一つだって無駄ではない!!


「う゛う゛う゛――!!」

 残りの手札すべてを歯で噛んで、ジャージのポケットから金属片を取り出した。


 マリアベーラから託されたギルゴートギルバー用の拘束具だ。

 馬乗りになったまま、金属片をギルゴートギルバーの首に押し付けようとする。


 しかし拘束具のことを知っていた吸血鬼の最後の抵抗。

「やめ――!! やめろっやめろおおお!! それだけはああああああ――ッ!!」

 俺の手首を両手で掴んで、必死に押し返そうとしてきた。


「んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんっ!!」

 俺は更に力を振り絞った。真上から体重をかけてギルゴートギルバーの喉へと金属片を近づけていくのである。


 やがて、ギルゴートギルバーのグチャグチャになった顔面、その目に涙が浮かび――


「――化け物――」


 俺を見つめる吸血鬼の言葉は、それが最後だった。


 金属片がギルゴートギルバーの首に触れた瞬間、その全身に赤い模様が浮かび上がる。金属片に刻まれていた文字のような模様だと気付いた。


 以降、ギルゴートギルバーは一切動かなくなる。

 絶望に歪んだ顔のまま、完全に硬直してしまった。俺の手首も掴んだままだ。


「ふぅーっ、ふー、ふーぅ、ぁ、はあ、はあ、はあ――っ」


 力任せに手首を引き抜いた俺は、あえぎながら歩き出す。喉を引きつらせながら、ひどい臭いの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 よろよろと足を進めた先にあるのは――ダリアを取り込んだままのルインスライム。


 正直に言うと……ここから先は何も考えていない。


 ブラッドストローを一掃し、ダリアをルインスライムに閉じ込め、ギルゴートギルバーを封印するという今夜のプラン。これには、すべてが終わった後、ルインスライムに閉じ込めたダリアをどうするかということがまったく考慮されていないのだった。


「はあ、はあ――」


 そびえ立つオレンジ色の立方体。


 俺は腰に手を当てて途方に暮れた。

 ダリアを殺すわけにはいかないが、ルインスライムの外に出すのも恐ろしい……。


「はあ、はあ――どうした、もんかな――」


 しかしである。

 ふとした瞬間――俺が見上げていたルインスライムの姿が薄れ、その巨体が陽炎のように消えて行くではないか。


 何事かと手元を見れば『デモンズクラフトの箱』もいなくなっていた。


「く――っ」

 その時、俺はデモンズクラフトが終わったことを悟り――しかし、何故とは考えない。そんなことを考える時間なんかない。丸腰のまま身構えた。


 ルインスライムから解放されたダリアが地面に降り立つ。


 その小さな手はダガーナイフを握ったままで……今の俺なんて三秒あれば簡単に殺されてしまうだろう。万事休すかと思った。


 まるで野生のライオンと対峙したかのような緊張感に、背筋が冷たくなる。


 やがて――ダリアが動いた。

 ダガーナイフを捨てると、その場にひざまずいて深く頭を下げたのだ。


 いわゆる『土下座』という行動。


 そしてか細い声で言う。

「……まい……ますたー……」


 俺はその場に突っ立ったまま、ダリアのことを一つ思い出していた。彼女は元々、中東の武装組織に飼われていた奴隷で、そこからブラッドストローに移ったということを。


 ……まさか……元の飼い主を倒した相手を、主人と認識しているのか……?


 そう考えるが、今ここでは答えを出す手段がない。ダリアに攻撃されないだけで良しとすることにした。


 土下座したまま動かないダリアから少し距離を取って、手頃なゴミの山に腰掛ける。


「――終わったぁ――」

 疲労と安堵に染まった深い吐息が漏れた。


 不意に視線を回せば、幾筋もの懐中電灯の光が遠くに見える。完全武装した部下たちを引き連れた刀根勇雄が、こちらに向かってきているのだ。


 ――――――


 強い夜風にあおられたお菓子の包装ビニールが、裸の上半身に貼り付いた。


 しかし俺はそれを剥がすこともなく…………風に押されてあちらこちらを転がり回るゴミの音を聞いている。

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