約束の代償

 念入りに身体を洗ったはずなのに、いまだゴミの臭いが鼻に残る。


 あの戦いの後、駆け寄ってきた社会維持局の武装職員は、真っ先に俺の身体にブランケットを被せてくれた。まるで災害救助の一場面。まともに歩く体力も残っていなかった俺は、屈強な男たちに支えられながら社会維持局の車両まで辿り着いた。


 当然、魔法少女ダリアも一緒だ。


 車で待ち構えていた刀根勇雄と斎藤弥恵子には思いきり苦笑いされたが……俺にはそれが、ゴミまみれの俺の惨状に対する感情なのか、それとも大人しく俺に付き従っているダリアに向けられたものかは判別できなかった。


 二人してワゴン車に乗せられると、社会維持局の息のかかった総合病院――その入浴施設に直行である。


 ――両名とも湯船には浸からず、できるだけ低い温度で徹底的に身体を洗浄せよ――


 俺の意識が明瞭だったせいだろう。今回の作戦に同行してくれた女性医師の指示はあまり優しいものではなかった。とはいえ、ギルゴートギルバーに顔面をしこたま殴られたばかりだし、患部に熱を加えるべきではないのは俺でもわかる。『誰かに手伝わせましょうか?』という刀根勇雄の提案を丁重に断り、ヒーヒー言いながら冷たい水で身体を洗った。


 そして、病院側が用意してくれた水色の患者衣に着替え。

「……痛って……」

 廊下の壁際に並ぶ待合ソファの一つで待ちぼうけ。


 背もたれのない長椅子にただ一人だ。社会維持局の仕業なのか、病院に入ってからというもの、一人だって外部の人間を見ていない。


 俺は固い壁にもたれかかり、あちらこちらが強烈に腫れ上がった顔に氷袋を乗せていた。


 氷袋を差し入れてくれた刀根勇雄によると、どうにもダリアが浴室で暴れているらしい。俺も手伝いに行った方がいいかと尋ねたら、『風呂を嫌がる子猫のようなものです。和泉さんのおかげで我々は敵対視されていないようですし……まあ、斎藤くんとドクターが上手くやってくれますよ』とか笑っていた。


 俺の検査と手当は、ダリアの水浴びが終わってからになるだろう。


 ……耐えられないほどに眠い……。


 昨日は一睡もしていないのだ。そのうえ、長く続いた緊張と戦闘の疲れで、俺の精神力は限界まですり減っている。身体の痛みを無視して、まばたきと同時に気絶しそうだった。


 熱を持ち続ける顔面に冷たい氷袋が心地良い。

 試合終了後のボクサーってこんな感じだろうか、そうこう考えているうちにいよいよ睡魔に抗えなくなってきた。


 氷袋を顔に当てたまま、まどろみの沼に頭を突っ込んで………………なにか、どうでもいい夢を見た気がする。


「――――和泉――――」


 やがて俺の耳に届いた誰かの声。


 ほんの少しだけまぶたを持ち上げると、沢山の『純白』が見えた。


 最初は、なんだろうこれ……と思ったりもしたが、ぼんやりしているうちに、ああ看護師さんか……と納得する。ようやく検査が始まるのだろう。


「……ぅ、ぁ……」


 小さくうめいて顔を動かした。ゆっくりとまぶたを上下させて、ぼやけた視界をいつもの状態に戻していく。


「――は?」

 そしてはっきりとした視界を取り戻した俺は、さっそく自身の目を疑った。


 冴月晶。

 妙高院静佳。

 悠木悠里。 

 高杉・マリア=マルギッド

 レオノール・ミリエマ。 

 アレクサンドラ・ロフスカヤ

 矢神カナタ。


「み――みなさん、どうして――」


 俺の眼前にいたのが白衣の看護師ではなく、純白のドレスを纏ったアイドルたちだったからだ。ただでさえ寝起きで頭が動かないのに、本当に頭が真っ白になった。


 目に飛び込んでくる情報量がとにかく凄い。

 人類の至宝とでも言うべき美少女たちに、細緻な意匠がふんだんに盛り込まれた純白ドレスが合わさり、視神経が焼き切れそうだった。


 呆然とする中、一つだけ思い出したのは、アイドルたちの着る純白ドレスの正体。

 年末ライブのクライマックスを飾るステージドレスである。つい八日前、イベントプロデューサーの谷口公希を連れて実施した予算検査の中で見た。


 氷袋で半分隠れた俺の顔をじっと見下ろす七人のアイドルたち。


 俺が彼女たちの訪問の理由に思い至るよりも早く。

「――和泉様っ!!」

 俺の真正面で『あり得ないもの』でも見るかのように震えていた冴月晶に、氷袋ごと頭を抱き締められた。


「なんでこんな怪我をっ!! いったいどう戦ったのですか!?」


 悲痛な問いかけが静かな廊下に響き渡る。


「馬鹿です! 和泉様は大馬鹿者です!」


 生まれて初めて冴月晶に馬鹿と言われ、俺は力なく苦笑するのだった。申し訳ないと思った。自分自身ではそこまで大きな怪我じゃないと思っていても、青紫色に色付いたボコボコの顔面は、冴月晶にとって看過できぬ一大事だったらしい。


「もう!! なんでっ――どうしてなのですか!?」


 一生懸命に何度も抱き締めてくる冴月晶。今にも泣き出してしまいそうで、こっちの心も痛い。


 細い腕と小さな両手、柔らかい胸にもみくちゃにされながら、俺は改めて問うた。

「あの。皆さん、どうして?」


 すると悠木悠里と高杉・マリア=マルギッドが、俺の両隣に腰を下ろして大きなため息を吐く。


「んなの決まってんだろうが」

「ライブが終わったから、着替えもせずに飛んできたのですよ」

「……はあ」

「気のねえ返事だなぁ。これでもあたしたち、結構心配してたんだぜ?」

「ギルゴートギルバーも無事に生け捕ったと聞きましたし……本当に、すべてやり遂げてしまいましたね」

「正直さ、一晩で五〇も吸血鬼ぶっ殺した人間なんて、ソロモン騎士以外いねえよ?」

「見事です」


 次はレオノール・ミリエマたち三人娘だ。


 レオノール・ミリエマが冴月晶の脇下から「痛い? 超痛い?」と腫れた目尻をつついてきて、アレクサンドラ・ロフスカヤもそれに参加する。

「……せっかく訓練で防御のやり方教えたのに……」


 当然、矢神カナタが黙っていなかった。いたずらっ子二人の髪を思いきり引っ掴んで俺から引き離してくれるのだ。


「なにやってるの!! 今日は和泉さんにイタズラしちゃダメでしょ!」

「痛い痛い痛い痛い! ゴメンって! それマジで痛いから!」

「……ごめんなさいする……ちゃんとごめんなさいするからぁ……」


 ついさっきまでしんと静まり返っていた夜の病院がすっかりにぎやかになってしまった。


 そして冴月晶が、「絶対に許しません……もう二度と、こんなことはさせませんから……」そう呟きながら俺の首筋に顔を埋めると。


「…………………………」

「…………静佳さん……」

「…………………………」


 見上げた俺の視界のど真ん中に、無言の妙高院静佳がいる。真紅の瞳でボロボロの俺を見下ろしていた。


 白のドレスがスタイル抜群の彼女に似合いすぎて、俺は苦笑するしかなかった。

 それで、おもむろに伸びてきた妙高院静佳の右手に何の抵抗もできず、氷袋を取り上げられてしまう。


 妙高院静佳は俺の顔面の惨状にも眉を動かすことなく……やがて真顔で言った。

「ひどい顔」


 俺は何も返さず、弱々しい苦笑を続けただけ。


 そして。

「あたしに勝った人がなんてザマですか」

「…………すみません……」

 突き放したような彼女の言葉にほんの少しだけ気落ちした次の瞬間だった。


 ――妙高院静佳の冷たい左手が、そっと俺の頬に触れる。


 腰をかがめてわざわざ俺に目線を合わせると。

「でも、戦った男の顔です」

 そう言って、俺が初めて見るような優しい微笑みを浮かべた。何の含意も、何の企てもない、ただただ純粋な微笑みで俺を見たのだ。


 ――――――


 唖然とした俺は目を見開いただけ。その直後、ふいっと顔を背けた妙高院静佳によって、顔面に氷袋を押し付けられ――あ。冷たい――と思う。


 氷が溶けてぬるくなり始めていた氷袋の冷気が何故か復活していた。多分、今のやり取りの間に、妙高院静佳の魔法が氷袋を冷やしたのだろう。


「怪我ならあたしが治してあげますよ。和泉さんの命をもらうのはそれからです」

 俺から目をそらしたまま、最強の魔法使いがそんなことを言う。


 瞬間、俺の首筋から顔を上げた冴月晶が牙を剥いた。

「和泉様の手当はボクがやります!」


 しかし、それで妙高院静佳が、はいそうですかと納得するわけがない。

「はあ? 未熟者がなに言ってんの?」

 いつか『ソロモン騎士の聖域』で聞いたようなドスの利いた声が妙高院静佳の唇から漏れ、俺は身がすくむ思いだった。


 悠木悠里と高杉・マリア=マルギッドが横から口を挟む。


「まあまあ。静佳さんがおっさんを治すっつったら、こうなるに決まってんじゃん。実際、おっさんが治った途端、噛み付きそうだし」

「とはいえ、晶は晶で不安が残りますね。和泉さんに情が入りすぎです」

「つまるところ治癒魔法って究極のドーピングだかんな」

「加減を間違えれば、細胞が癌化する恐れもありますし」

「――というわけで、だ」

「ここは、私か悠里が和泉さんを治療するのが、よろしいかと」


 そこまで行くと三人娘も黙っていなかった。


 レオノール・ミリエマが「ずるいー! あたしも和泉っち治したい!」と地団駄を踏み。


 それに続いたアレクサンドラ・ロフスカヤが「……治癒魔法なんてあんまり使わないし……和泉さんで練習しとくのも、ちょうどいいや……」と意味深な笑みを浮かべる。


 最後に矢神カナタが全体的なフォローを入れてくれた。

「ま、まあ、私たちみんな、がんばった和泉さんに優しくしたいわけで。ほら、戦闘訓練で一緒に汗を流した仲ですし!」


 するといきなりブハッと吹き出した悠木悠里。

「その辺、静佳さんは何もしてねえけどな――ぐへっ」

 妙高院静佳の拳が彼女の脳天を叩いた。

「悠里。あなた、痛い目見たいわけ?」

「ちょ――たんこぶできたらどうすんですか!?」


「……しかし、これは困ったわね……誰が和泉さんを治療するか――」

「じゃんけん! じゃんけんが良いと思う!」

「……私たちがじゃんけんしたら……動体視力勝負になると思うよ……?」

「あのですね。もう和泉さんに決めてもらったら――って、それは一番もめちゃうか」


 中年男の処遇を巡って行われる純白ドレスの美少女たちの話し合い。


 俺は、そんな現実離れした光景を眺めつつ。

「和泉様――あの……和泉様……? 右手が……」

 パンパンに腫れ上がった右手に気付いてしまった冴月晶へと言葉を返した。


「……折れてるんでしょうかね、これ……痛くてあんまり動かせないんですよ」

「こ、心当たりが……?」

「多分、ギルゴートギルバーを最初に殴った時……それか、“生き残りの障壁”の後で、もみ合った時かもしれないです」

「……中手骨、骨折……」

「戦ってる最中は気付かなかったんですが、車の中で痛み始めてですね。なんにせよ、打撲と骨折ぐらいで帰って来れて良かったです」


 脳天気な俺の言葉を聞いて、「あまり心配させないでください……」とこめかみを押さえた冴月晶。やがて廊下へと視線を回し、病院裏口の方向からやって来た『車椅子』をキッと睨み付けるのだった。


「……吸血鬼……あなた方の力不足のせいで、和泉様が……」


 そこにいたのは、革張りの車椅子に腰掛けたマリアベーラとスーツ姿の優男たちが五人、そしてペコッと魔法少女たちに会釈した刀根勇雄だ。


 すぐさま、刀根勇雄がアルメイア王国騎士団の生き残りを連れてきたのだとわかった。


 直後、冴月晶が俺から身を離し、「それでは和泉様、ボク、ちょっと戦ってきます」俺の治療権を懸けたじゃんけんバトルに参戦していく。


 残された俺の元に車椅子がゆっくり転がってきた。


「魔王召喚者殿はあの巫女にえらく好かれておるのだな」

「その、まあ、色々ありまして」


 そして車椅子の上で背筋を正したマリアベーラ。車椅子を押していた白人の優男に支えられながら、俺に向かって深く深く頭を下げる。


「ギルゴートギルバーの身柄、確かに受け取った。心から感謝させて欲しい――約束を守ってくれて、本当にありがとう」


 長い低頭の後、顔を上げた吸血鬼の姫君は、憑き物が落ちたような顔をしていた。ゴミの埋立地で俺にすがりついた女吸血鬼と同一人物とは思えないぐらいだ。


 俺も嬉しくなって「私こそ。お役に立ててなによりです」と表情を崩した。


「もう行くのですか?」

「ああ。一刻も早くアルメイアを起こしてやらねばならぬからな」

「アルメイアさんによろしくお伝えください」

「無論だ。魔王召喚者があなたの命を救ったのだと伝えれば、あの小心者のこと、腰を抜かすやもしれぬな」

「ははっ。随分と心易い始祖様なのですね」

「魔王召喚者――いや、和泉慎平よ。これは世辞ではないのだがな――」

「はい?」

「その、いつかわれらの国を訪れて欲しいと言う話だ。国を挙げて精一杯のもてなしをさせてもらう。きっと、アルメイアも会いたいと言うだろうしな」

「そんな、お気になさらず。しかし……はい。機会があれば、必ず」


 と――俺とマリアベーラが話しているうちにじゃんけんの勝者が決まったらしい。


「とーぜんの結果ね」


 そう言って肩に掛かった長い黒髪を払ったのは妙高院静佳だった。彼女の後ろでは、冴月晶がチョキをつくった右手を呆然と見下ろしている。


「右手の骨折は、まあ、後回しです。まずはそのひどい顔を治してあげますよ」


 動く気力のない俺を前にしてニヤニヤ笑う妙高院静佳。まるで手術前の外科医みたいに両手を持ち上げて、一歩一歩俺に迫ってくるのだ。


 そして、首を傾げたマリアベーラが「あのような巫女に任せて大丈夫なのか?」と刀根勇雄に尋ねた瞬間だった。


 ――――――


 俺の視界を切り裂く一閃。

 幼い少女の繰り出した飛び蹴りが、前触れもなく俺と妙高院静佳の間に割って入った。


 ダリアだ。


 バスタオルを身体に巻き付けただけのダリアがどこからともなく現れ、妙高院静佳の前に立ちはだかる。髪や短い手足からボタボタと雫が滴り落ちた。


「ううううー!!」

 威嚇。足を踏ん張って、俺を守るかのごとく妙高院静佳に精一杯牙を剥く。


 廊下を一瞥した俺は、お得意の転移魔法か……とダリアの唐突な出現に納得しつつ、「どうした? 斎藤さんから逃げてきたのか?」長椅子から立ち上がろうと試みるのだった。


 太ももに力が入らずよろけた瞬間。

「和泉様っ」

 冴月晶が慌てて支えに入ってくれる。

 それで俺は、半ば冴月晶にもたれかかりながらダリアの横に立った。


 妙高院静佳が怖い笑顔を浮かべながら言う。

「和泉さん。なにそいつ?」

「ギルゴートギルバーのところにいた女の子ですよ。皆さんもご存じだと思いますが」

「それで? どうしてあたし、威嚇されてるのかしら?」

「そうですね……私が静佳さんに襲われていると勘違いしたのではないかと」


 次の瞬間、俺たちが聞いたのは廊下をバタバタ走る音。


 見れば。

「ダリア! まだ全然拭けてない――」

 両手にバスタオルを握った斎藤弥恵子がこちらに走ってくるではないか。スーツを脱いで、カッターシャツを腕まくりしていた。まるで服の上からシャワーを浴びたのではないかと思ってしまうぐらい、ずぶ濡れだ。


 ダリアは斎藤弥恵子の姿にギョッとしたようだが、俺のことをほっぽり出して逃げるわけにもいかなかったらしい。


「ホントこの子は! 手間が掛かる!」


 結局、斎藤弥恵子に捕まってバスタオルでくるまれてしまう。「やー! やー!」と悲鳴のような鳴き声を上げた。


 俺はその光景を微笑ましく眺めたのだが、不意に患者衣のそでを引っ張られたことに気付く。眉をひそめた冴月晶が俺の顔を見上げていた。


「和泉様? どうしてダリアが、和泉様を――」


 どう答えたものかな……俺はそう思って少し困ってしまうのだが。


「ギルゴートギルバーに勝利した賞品ですヨ。ダリアは今、イズミさんを主人として認識しているのデス」


 斎藤弥恵子が走ってきた方から、微笑み混じりの答えがやって来た。


 純白ドレス姿のアンリエッタ・トリミューンだ。

 華やかすぎるスーパーアイドルの隣には水無瀬りんがいて、美女二人の三歩後ろを影のようにアベル・アジャーニが歩く。


 妙高院静佳がアンリエッタ・トリミューンに問うた。

「どういうことよ、アンリエッタ」

「主を打ち倒した者を次の主とする。強者に這いつくばって命を乞ウ。この幼い奴隷ハ、そうやって浅ましく生きてきたのでしょうネ」


 三人の合流を見届けてから、俺は人知れず口端を持ち上げた。ついさっきまで寒々しかった病院の廊下が急にごった返し始めたのが、なんだか面白かったのである。


 ふと、車椅子の上のマリアベーラが声を上げた。

「ところでな。ソロモンの寺院は、そこの魔法使いをどう取り扱うつもりなのだ?」


 応えたのはアンリエッタ・トリミューンだった。

「どういう意味デショウ?」


「その子供にはわが騎士団も煮え湯を飲まされた。倒れた同胞も一人や二人ではない。何の沙汰もないのであれば、われらの気が済まぬということだ」


 マリアベーラは落ち着いているように見えたが……彼女の後ろに控える優男五人――アルメイアの吸血鬼たちが、憎しみの宿った視線をダリアに向けていた。


「無論、その子供に罪があるとは言わぬ。すべての元凶はギルゴートギルバーだ。お門違いのことを口にしているとは重々承知した上で――われらの無念も、少し汲んでもらえるとありがたいのだがな」


 するとアンリエッタ・トリミューンは一瞬の困り顔。俺の方を向いて、「らしいデスよ。イズミさん」と可愛らしく首を傾げた。


 俺は氷袋を待合ソファに放り投げてから、左手でダリアの頭を撫でた。


「それで、俺はどうしたら……?」


 視線の先にいるのはアンリエッタ・トリミューン。俺の言葉を受けて「では、さっそくビジネスの話をしましょうカ」とソロモン騎士らしく笑った。

 超然としていて、神秘的で、凄く優しげ――それなのに、背筋が凍るような笑みだ。


「ダリアをワタシに譲渡していただきたい」

「……この子は、アンリエッタさんのお眼鏡にかないましたか」

「ええ。死ぬほど鍛え上げれバ、ソロモン騎士になれるでしょウ」

「……断れる話ではないのですよね?」

「そうですネ。ですから、これは対価ではなく、ワタシからのボーナスと思ってください――アベル」


 アンリエッタ・トリミューンの後ろに控えていたアベル・アジャーニが前に出た。

 深くお辞儀してから、タブレット端末を丁寧に差し出してくるのだ。


「三〇〇万ドル程度でしたらすぐにご用意いたします」


 液晶画面に表示されていたのは、俺が見たこともない海外の送金サイトだった。ここに俺の口座番号を入れろということだろう。


 俺は左手で頭を掻きつつ、「まったく――」と苦笑する。


 この場にいる全員の視線が俺に集まっていた。


 下を向けば、ダリアの何もわかっていないような黒い瞳と目が合った。それで俺は「大丈夫」と、できるだけ優しく微笑んでやったつもりだ。


 アベル・アジャーニではなく、アンリエッタ・トリミューンを見た。


「あの、アンリエッタさん」

「はい。足りませんカ?」

「いえ、そうではなくてですね……お金ではなくて。この子を託すことについてお願いが二つだけ。私は、それだけでいいです」

「ほう」

「この子を――ダリアを、尊厳を持った一人の人間として扱ってください。そして、いつか、自分の意志で人生を歩いて行けるよう、この子の心を頼みます」

「心を育てろとハ。ふふふ――なかなか難しいことを言うのですネ」

「そりゃあ、戦いとは無縁の場所で、平和に生きてもらいたいとは思います」

「それはできませン」

「……わかりますよ。わかります。この子の才能が、人類に有用だとは理解しています。私のような門外漢が口を挟める問題じゃないってことも」


 そこまで言って俺はもう一度ダリアへと目を移す。

 その痩せた頬に左手で触れ、また頭をくしゃくしゃと撫でてやった。するとダリアは気持ちよさそうに目を細めるのだ。


「だから、ダリアが自分の人生を誇りに思えるように……いつか今まで殺めてきた命の重さを知った時、それでも前に進めるよう――」


 アンリエッタ・トリミューンだけではない。この場にいる全員を見回してから。

「お願いします」

 俺は深く頭を下げた。まともに立っていられない身体を冴月晶が隣で支えてくれた。


「あの。静佳さん」

「な、なんです?」


 顔を上げた俺に声をかけられて、少しだけ身構えた妙高院静佳である。


「飴、持ってませんか?」

「はあ?」

「いつも囓ってる棒付きの奴です」

「…………持ってますけど……」

「一本いただけませんか?」


 それで俺の意図に気付いたのだろう。ため息を吐いた妙高院静佳が、「メロン味しかありませんよ」露わになった胸の谷間に指を入れた。まさかそんなところに隠し持っているとは思っていなくて、俺は必死にポーカーフェイスを気取るのだった。


 そして人肌の棒付きキャンディを受け取った俺は、その場に膝を付き――ダリアと目線を合わせて言う。


「ここでお別れだ」


 すると、「――――――」アベル・アジャーニが俺の言葉をダリアの理解できる言語に翻訳してくれた。聞いたことのない音色の言葉だった。


「君はアンリエッタさんと一緒に行きなさい。あの人から、生き方と、君が成すべきことを学びなさい」


 きょとんと首を傾げるダリア。


 俺が棒付きキャンディを差し出すと、彼女はそれをおそるおそる受け取った。


「大丈夫。ダリアは、俺の――魔王召喚者のライフを一つ削っただろう? ちゃんと強いから。今度こそきっと、自分の人生を歩いていける」


 歯を出して笑った俺は、折れた右手も使って、両手でダリアの頬を思いきり撫で回す。


 最後にはその小さな身体をギュッと抱き締めて。

「また会おうな。次は敵同士でも、主従関係でもなく――友達として」

 なんて言うのである。


「……ますたー……」

 ダリアが短い腕で抱き締め返してくれた。


 マリアベーラのため息が聞こえる。

「……ソロモン騎士か……人類の守り手という深いイバラを思えば、われらの無念など塵芥のごとくだな」


 そして俺は。

「誇りなさい和泉慎平。我々ソロモン騎士団は、清貧なるアナタの選択と、小さな騎士の誕生を歓迎します」

 アンリエッタ・トリミューンのそんな言葉をクソ食らえと思って、どうかダリアの未来が幸せでありますように――と願うのだ。

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