終章~ナイトダンサー~

「――そうですか。それじゃあ、ライブは大成功だったわけですね」


「ええ。興奮しすぎた観客が何人か医務室に担ぎ込まれた以外は、特段の混乱もなく終わってくれました」


 耳元に届く谷口公希の声。

 スマートフォンを左耳に当てた俺は、雲の晴れた夜空を見上げ、白い息を吐いて笑った。


「SNS見ましたよ。凄い評判だ」

「日本全国の映画館でライブビューイングですから。それも合わせたら、相当数のファンが彼女らを見たことになりますし」

「特別、ブレイブラインが凄かったと」

「アンリエッタ・トリミューンも含めての全員集合――伝説になるでしょうね、あの五分間は」


 総合病院の広い屋上に俺一人だ。

 患者衣の上に防寒用のベンチコートを重ね、屋上の手すりに背中を預けていた。


「いつもの七人でも凄いのに、そこにアンリエッタ・トリミューンですもんねぇ」

「ええ。アンリエッタ・トリミューンですしね」


 あの後――アンリエッタ・トリミューンにダリアを引き渡した後、妙高院静佳が治癒魔法を使ってくれたが……『ったく。どうやったらこんなに殴られるんですか?』と文句を言われ、俺は『すみません』と苦笑するしかなかった。


 それで、最強の魔法少女に頭部打撲を治療してもらって、右手の骨折はまた後日となった。なんでも、治癒魔法の使いすぎは細胞の癌化を促進するらしく、魔法少女たちの合議で『疲弊した身体にこれ以上の治癒魔法使用は危険だろう。開放骨折でもないし、右手は後回し』という結論が出たのだ。反論はなかった。


「まあ――ライブのことはだいたいわかりました。詳細は、映像化を心待ちにしましょう」

「任せてください。撮れ高は十分ですし、そっちも必ず良いものにしますから」


 その後、念のためにと行われたCT検査でも右手中手骨の単純骨折以外の異常は見られず、骨折は凄腕の女性医師にその場で処置してもらった。俺の肉体が再度の治癒魔法に耐えられるようになるまでは、しばらくギプス生活らしい。 


「あの。ライブDVDは完成次第すぐにお持ちさせてもらうとして……和泉さん。そちらは大丈夫なのですか? その、お身体とか。お怪我は?」

「ああ。それなりには、元気にしてますよ」


 経過観察の入院は今夜一晩。


 冴月晶を除くアイドルたち、マリアベーラ一行が病院を出て行った後――夜風に当たりたいと願い出た俺のために、刀根勇雄がわざわざ屋上を開けてくれた。


 そして俺は寒空の下、しばらく見ていなかったスマートフォンの画面にギョッとすることになる。


 一二件にも及ぶ谷口公希からの着信……慌てて折り返したら、なんのことはない。ライブの大成功を告げる電話だった。


 しかし俺は、そんな谷口公希の気遣いを心底ありがたいと思うのだ。


「というか、谷口さんこそ、私と話してて大丈夫なんですか? お忙しいでしょうに」

「馬鹿なことを。和泉さんへの報告が、他の仕事より優先順位低いわけないじゃないですか」


 ライブ会場の片付けやほうぼうへの挨拶。

 大規模ライブを取り仕切るイベントプロデューサーとして夜を徹して多忙なはずなのに、俺のことを思って連絡をくれる。


 ふと、電話の向こうで谷口公希が深いため息を吐いた。

「……和泉さん……今回の件、僕はあなたにどうお礼を言ったらいいか――」


 俺は何も言わず小さく笑っただけだ。


「……あまり詳しく聞かない方が良いのですよね?」

「え?」

「その……和泉さんの、力のこととか……」

「……そうですね。できれば、そうしていただけるとありがたい」

「……わかりました……」


 それから長い沈黙。


 俺は身を切るような冷たい風に吹かれながら、谷口公希の次の言葉を待つ。


 やがてはっきりとした口調で谷口公希が言った。

「正直、悔しいと思います」


「何がでしょう?」


「和泉さんはあのライブを守った。日本中のファンが何よりも望んだサウスクイーンのライブを、たった一人で守り切ったんです。命を懸けて、自分はライブへの参加を諦めてまで……それなのに、誰もそのことを知らないのですから……」


 言葉の端々に無念が滲む。

 そして彼が最後に吐き出したのは――悲憤、悔恨、諦観――そんな感情が渦巻く一言だ。


「和泉さんは、もっと褒め称えられるべきなのに」


 苦笑した俺は、南の空にオリオン座を探す。

 アルニタク、アルニラム、ミンタカ。

 オリオンのベルト――特徴的な三つ星を見つけ出し、白い息を吐いた。


「いいんですよ、それで」


 果たして俺の言葉は谷口公希の胸中にどんな思いを抱かせるのだろう。


「人様の見えないところで踏ん張ってる奴もいる」


 単なる諦めの言葉として聞こえていなければいいなと思った。


「仕事なんてそんなものです」


 すると一拍ほどの間があり、電話の向こうから俺に届いたのは力の抜けた笑いである。

「つまらないものですね。大人になるというのも」


 俺も谷口公希と同じように笑った。


 しかし次の瞬間、ハッとしたように笑いを消した谷口公希。

「それで、報われるんですか? 和泉さんは」


 そんなことを言われ、俺は本気で困ってしまう。


 年末ライブの成功。

 始祖アルメイアの復活。

 ダリアの保護。

 魔法少女たちとマリアベーラから贈られた言葉。


 それでも、心の底から胸を張って『俺は十二分に報われた』とも言えない気がして。

「さあ。どうでしょう」

 そう苦笑するしかなかった。


 答えにくいことを問うた自覚はあったのだろう。谷口公希がすぐさま「とはいえ――」と話題を変える。


「普段接していた経理さんがただ者でないとわかると、次から無理を言いにくくなりますね」


 なに言ってんだこの人……と思った。


 それから俺は谷口公希といくつか言葉を交わし。

「今度一杯おごらせてください。魚の美味しい店があるんですよ」

「期待しています」

 そんな他愛もない話題で通話を終えた。


 スマートフォンをベンチコートの左ポケットに入れた俺は、ヘリポートすらも設置された広い屋上をため息混じりに見渡し。

「……もう、行かれるんですか?」

 俺のもたれかかっていた手すり――そこに腰掛けた人物へと声をかける。


「ええ。もっとゆっくりしていきたかったのデスが」


 アンリエッタ・トリミューン。


 隣を見上げれば、流れ星のようにも見えるプラチナブロンドが夜風に舞い踊っていた。


 青色のダッフルコートに、タイトスカートと黒タイツ。そんな格好の世界的セレブが突然現れたことにも俺はたいして驚かない。ただ、ちょうど目の前にあった太ももから視線を逸らしただけだ。


「ダリアの様子はどうです?」

「落ち着いていますヨ。イズミさんのおかげで、ワタシにもなついてくれそうデスし」

「……それで、次はどちらへ?」

「北アメリカ――アメリカとカナダですネ」

「そうですか……さすが、ソロモン騎士団は容赦がない」

「仕方がありまセン。バカンス返上で働いてヤルと言ったのはワタシですから」


 なんでもないことのように明るく笑ったアンリエッタ・トリミューン。


 手すりから背中を離した俺は。

「――イズミさん?」

 彼女の正面に回ってから――心からの謝意と共に、深く頭を下げる。


「ありがとうございました。あの時、アンリエッタさんがシルバージャックスを説得してくれなければ、私は戦えなかった」


 そして顔を上げた俺が見たのは、街明かりに浮かぶ嘘偽りのない微笑みだった。


「いいのデスよ。あなたは、ワタシが期待した以上のものを見せてくれましタ」


 いったいなんのことだろうと俺が思った隙に、手すりから屋上に降り立ったアンリエッタ・トリミューン。俺の左頬に指を伸ばし、こんなことを言うのだ。


「本当に、『羊』だったのですネ」

「――?」

「最初は、『羊の皮を被った狼』だと思っていたのデス。弱者として生まれ落ちた者がシズカに勝てるわけがナイと。きっと正体を隠し、狡猾な策を弄したのだと――」

「はあ」

「さかしい英雄にアキラを奪われたと思ったら、なんだか悔しくテ……あの時は叩いてしまってごめんなさい」


 いつかアンリエッタ・トリミューンに殴られた左頬を、彼女自身に優しくさすられる。

 彼女は綺麗な眉を下げて、申し訳なさそうな顔をしていた。


 そして。

「とんだ見込み違いでしたネ」

 そう苦笑したアンリエッタ・トリミューンが、俺の腰と背中に両腕を回してくる。


 完全に身体を密着させて、そのまま俺の首筋で言葉をつくるのだ。


「あなたは、戦うために生まれてきた狼でも、王者として立つ獅子でもナイ。ただ――」

 そこでふと、くすりと笑う。


「最後まで諦めない羊だった」


 敬意と親愛が込められた声色である。


「例え、ハラワタを食い破られても諦めることができない羊……」


 そんな怖いことをささやかれても、恐怖を感じることはなく――俺は、大人しくアンリエッタ・トリミューンに抱かれていた。羊飼いに毛刈りされる羊みたいに、だ。


「アキラがあなたに陶酔するのもわかる気がしマス」

「………………」

「あなたの生き方は、あの子の父親によく似ている」


 感慨深げにそう言って、俺から離れたアンリエッタ・トリミューン。

 俺は、彼女の言葉を追求することもなく、ただ静かに次の言葉を待つのだった。


「ワタシにこんなことを言われてモ、嬉しくないかもしれませんガ――」


 その時不意に、真横から風が吹く。

 強い強い風が吹き付ける。


「魔王に選ばれたのがイズミさんでよかった」


 俺のベンチコートが、アンリエッタ・トリミューンのダッフルコートが、風にあおられてバタバタと音を立てた。


「心からそう思いマス」


 突然の強風に目を開けていられない。

 思わずまぶたを下ろした俺は、ギプスに包まれた右手をかばいながら、「それじゃあ、もう行きます。またどこかでお会いしましょウ」という別れの言葉を聞くのである。


 そして――唇に人肌の感触を覚えた。


「アキラやシズカには悪いですが、ワタシもあなたに興味が出てきました」


 風が止む。


 左手で目をこすった俺は、照れ隠しにそのまま頭を掻いた。フランスの挨拶――ラ・ビズって頬にキスじゃなかったか? と、アンリエッタ・トリミューンのいなくなった屋上をゆっくり見回すのだ。


 ――――――――


 やがてガチャリと音がして、通用口の重たい扉が開いた。


 現れたのは――純白ドレスの上にモッズコートを羽織っただけの冴月晶。


「アンリエッタ様が来ていたのですか?」

「――ええ。もう行ってしまいましたけど」


 彼女は湯気が立ちのぼる紙コップを手にしており、まっすぐそれを渡しに来てくれる。


 薄闇の中、俺の顔を見た冴月晶が一瞬眉をひそめたが。

「ココアです。どうぞ」

 特に何も聞かれなかった。


 それで俺は、どうにも間が悪いな……と思う。唇にアンリエッタ・トリミューンの口紅でも付いていたか。


 再び手すりにもたれかかってココアを一口含んだ。冷えた身体に熱と甘さが染み渡る。


 俺と同じように手すりに背中を預けた冴月晶が憮然としたように言った。

「あまり身体を冷やさぬうちにお部屋にお戻りください。今夜はボクがおそばに控えさせていただきますので」

「いや――さすがにそこまでしていただくわけには……」

「いいえ。和泉様は怪我人なのです。就寝中、何が起きるかわかりません」

「なにかあったらナースコール押しますし。冴月さんもライブで疲れているでしょう?」

「大丈夫です。ソロモン騎士の体力を舐めないでください」

「ほら、寝言とか言ってうるさいかもしれませんし――」

「ボクがそんなこと気にするわけないじゃないですか。愛しいと思うだけです」

「しかし……」


 言い淀みながら隣に目を移したら、そこにいたのは不安げに俺を見上げる美少女だ。まるで涙をこらえる幼子のような、胸が締め付けられる表情をしていた。


「ボクはただ、和泉様のお役に立ちたいんです」


 それで俺は何も言えなくなって、「……わかりました……部屋にいてもらうだけなら……」と小さくうなずくのである。


 ココアを飲んで、一際真っ白な息を吐いた。


 ……………………。


 無言で冴月晶と並び合って、夜の東京の音に耳を澄ました。


 ……………………。


 やがて俺は一つの決心を固めて、「あの。冴月さん」と言葉をつくる。


「はい? なんでしょうか?」

「ええと、その……一つお願いしたいことが、あったり、なかったりするんですが……」

「ぅん――? 和泉様の願いであればボクが断ることはありませんが、しかしなんとも不思議な言い回しですね」

「これ、ある意味反則なんで、こんなこと頼むべきじゃないんでしょうが――」

「はい。なんなりと」

「………………その、一曲、踊ってもらえませんか……?」

「――踊る?」

「いや、さっき谷口さんと話してたら、ライブ見れなかったの悔しくなってきちゃって。本当……大人げないんですが……」

「……和泉様……」

「あ――嫌だったらいいんです! 大人なんだから我慢しろって話ですし!」


 大人げないお願いを後悔してわたわたと慌て始めた俺。


 しかし、そんな俺に脱ぎたてのモッズコートが差し出される。


「これは?」

「少し、持っていていただけると」

「……踊ってくれるんですか?」

「遠慮する必要なんかありません。和泉様は、命を懸けてライブを守った。これぐらいの役得、あってしかるべきだと思います」


 そして。

「それにしても、五万人の東京ドーム以上に――気合いが入りますね」

 純白のドレス姿になった冴月晶が俺の前に出る。


 わずか三メートル……呼吸も届きそうな距離で、カツンとハイヒールを鳴らした。


 俺は冴月晶のモッズコートを抱きかかえたまま、手すりに沿ってしゃがみ込む。

 しゃがんだままの姿勢でココアを一口。


「見ててください。これがボク――アイドル、冴月晶です」


 マイクはない。

 伴奏もない。

 照明だって弱い月明かりと街の光だけだ。


 それでも、純白のスーパーアイドルはステップを踏み始め――たった一曲だけ、俺と冴月晶の秘密のライブが始まった。



                          【水際の羊 了】

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