黒津根村、人影

 まいったな――そう頭を軽く掻きながら、俺は天を仰ぐ。


「さて。どう、しましょうかね」


 つい十分前まではあれほど綺麗に晴れ渡っていた青空。しかし今は、鉛色の雪雲に覆われ、不気味に波打ち、その内部では無数の雪結晶が順調に育っているのだろう。あと幾らもしないうちにちらちらと白いものが落ちてくるはずだ。


 山の天気は変わりやすい。

 それは重々承知しているはずだった。だから空模様がマシなうちに『高杉・アリス・マルギッドからの頼まれ事』を終わらせようとしたのだが。

「……まったく……どうにもツイてないな……」

 まさか数十分の間にこれほど天気が急変するとは思っていなかった。


 俺は再び曇天を睨み、そして深いため息を吐いた。


 俺と冴月晶の視線の先には坂道の終わりがあり、枯れ木が立ち並ぶ向こうに民家らしき影が見えている。俺たちは黒津根村の入り口まで辿り着いていたのだ。


 これが道半ばであれば、天候悪化を理由に迷わず引き返しただろう。


 だが山道をここまで登ってきて、ようやく黒津根村に辿り着いて、このまま逃げ帰るというのも納得できない。

 せめて――読神沙也佳の在住を村人に尋ねてみることぐらい――それぐらいの成果は手に入れておきたかった。


「すみません冴月さん。私ちょっと、人に道を聞いてきます」

 隣の美少女にそう言って、積雪の残る地面を蹴った。ほとんど氷と化した雪に足を滑らせないよう小さな歩幅で走る。


 すると何の労苦もなく俺についてきた冴月晶。

 人間離れした身体能力と神々にも等しい異能を有するソロモン騎士だ。俺に焦燥感を抱かせた空模様なんぞ、彼女にとっては本当に些末な事柄なのだろう。鉛色の空を見上げる美しい横顔はどこまでもいつもどおりで、その眉を動かすことすらなかった。


 坂を登り切った場所に立つ大きな民家。

 築百年近くはありそうな木造平屋建ての玄関前に立った俺は、「……岩畑さん……か……」表札を小声で読み上げ、インターホンを探した。


 とはいえ、ボタンらしきものがどうにも見当たらず、仕方なく磨りガラスのはまった格子戸を軽く叩く。

「ごめんください」

 ガシャガシャと音がして、家の中の物音に耳を澄ました。


 しかし変化無しだ。屋内から人気を感じることはできなかった。


 もう一度、格子戸をノックしつつ、腹から声を出した。

「ごめんください。少し、道をお尋ねしたいのですが――ごめんください」


 すると俺たちの背後から「あんたら外のもんか。悪ぃけどな、ここにゃあ観光で見るもんは何もねえぞ」と低い声が。ハッとして振り返れば、作業服・長靴姿の初老男性が雪かきスコップを肩に、庭の奥にある納屋から歩いてきていた。


 俺は会釈してから、腰を低くして問いかける。

「お仕事中すみません。読神さんのお宅がどちらか、お伺いしたくて」


 次の瞬間、小じわの多い男性の顔に新たなしわが生まれた。日に焼けた眉間に、深い深いしわが刻まれたのだ。


「あんたら、読神さんのとこに何の用だ?」


 その言葉に明らかな敵意と疑念を感じ、俺は慌てて弁明する。

「読神沙也佳さん宛のお手紙をお持ちしたんです。沙也佳さんの古いご友人から。ただ正確な住所がわからなくて。それで、この村にお住まいの方なら知っておられるかと――」


 男性の反応はある程度予想していた通り。黒津根村は古い農村だ。多くの田舎同様、閉鎖的というか、排他的というか、そういう性質が色濃く残っているのだろう。


 男性が俺と冴月晶をジッと見据える。


 刺すような視線に俺は愛想笑いを浮かべ、冴月晶の盾となるべく一歩前に出た。

 信用金庫職員時代は飛び込み営業もしょっちゅうだったし、こういう反応にはある程度慣れているのだ。


「いやはや。温泉旅行がてら手紙を届けるとは約束したものの、ここまでなかなか大変な道のりでした。除雪がしてあったとはいえ、私、雪国育ちじゃないものですから」


「……あんたら、ほんとに、手紙届けに来ただけか……?」


「ええ。私、沙也佳さんのご友人とは仕事で面識がございまして」

「…………そこの通りを行ったらな、いくつか『別れ』があっから、三つ目の別れを左だ。馬鹿でけぇ屋敷だから、見ればすぐにわかるよ」

「ありがとうございます。さっそく伺ってみます」


 俺が頭を下げたのを見て、冴月晶も「ありがとうございます」ぺこりと頭を下げた。


 男性は相変わらず怪訝な表情のまま。もう用は無いだろうとでも言いたげに、雪の地面を蹴散らしながら納屋に戻っていく。


「よかったですね。道を教えていただけて」

「ええ。助かりました」


 再び道路に立った俺は、いつまでも雪を降らせない曇天をもどかしく思いながら、「なんだかんだ雪も大丈夫そうですし、このまま行ってみましょうか?」なんて苦笑いだ。


 村の中を進むにつれ、古びた日本家屋も幾らか密集してきた。黒津根村のことを山奥の寒村だと思い込んでいた俺は、次々と現れる家々の様相に目を奪われ――どうやら俺が想像していたよりもだいぶ裕福な村だったらしい。家の多くが蔵付きの立派な造りなのだ。


 ふと、「あの――」と冴月晶が珍しいことを聞いてくる。


「和泉様のふるさとは、どんな所なのですか?」


 俺が普段、父親や母親、昔のことを話さないせいか、彼女なりに気を遣ってきたのだろう。毎日のように一緒にいながら故郷のことを聞かれたのはこれが初めてだった。多分、黒津根村という田舎の風景、それを目にして興味を抑えられなくなったのかもしれない。


「海沿いの町でして。町のどこからでも製紙工場の高い煙突が見えるんです。何も無いとは言いませんけど、話して面白いような場所も思い付かない――そんな場所ですかね。最近、私立大学の新校舎が建ったとかで、若い人も少し増えたみたいですが」

「しばらく帰っていないのですよね? 今年のお正月だって、ずっと東京にいらっしゃいましたし……」

「三十前まではちょくちょく帰っていたんですがね。それでも、年を追うごとに祖父母が死んで。おととしには母親もいなくなって――私の父親、無口な人なんです。親子仲が悪いわけではないんですが、どうにも間が保たなくてですね。私が気を遣うほど、向こうも居心地悪そうになっちゃって」

「そうですか……でも、真面目なお父様だというのは、和泉様を見ていればわかります」

「はははっ。真面目も真面目。市役所の福祉畑を四十年近く勤め上げて、今はようやく一段落着いたというか。図書館通いの日々みたいですよ?」

「……いつか行ってみたいです」

「え?」

「和泉様の故郷」

「い、いやあ――そりゃあ、別にいいですが。あの町、たいしたカードショップもないですよ? それに、冴月さんを父に紹介したら、さすがにあの人もひっくり返りそうですね。下手したら勘当されるかも」

「『ボク、和泉様のシモベなんです』って自己紹介します」

「それだけは勘弁してください。勘当どころか通報ものだ」


 笑えない冗談に苦笑いしながら一つ目の十字路を抜けた。


 先ほどの初老男性の言葉によれば、目的の『読神宅』へ行くには三つ目の交差点を左に曲がればいいらしい。


 俺たち以外に人気の無い道路。歩道といえばほとんどすべて除雪後の雪溜まりで潰れ、俺の背丈ほども雪が積み上がっている。家々の玄関先だけ雪がどけられている状況だ。


 どこまでも寒々しく、色の無い世界。

 そのせいか、俺を見上げてくる冴月晶の紫色の瞳がいつも以上に鮮やかに見えた。


「アルバムも見せてもらってもいいですか?」

「アルバム? 実家に帰った時です?」

「はい」

「そりゃあ、父もまだ捨ててないとは思いますが……でも、なんで?」

「ボクと同年代の和泉様を見てみたいです」

「ああ――な、なるほど。びっくりしますよ。あんまりにも普通すぎて」

「それがいいのではないですか。和泉様の若い頃に『やんちゃな男の子』は期待していません。そもそもボク、そういう同級生、すっごく苦手ですし」

「ははっ。いますか、冴月さんのクラスにも。やんちゃな男子が」

「落ち着きが無いというか。絶望的にデリカシーが無いというか。この前なんか、『冴月晶でどんなエッチな妄想をしたか』を教室で話していたのですよ? それも、廊下に届くような大声で」

「そりゃあ、ちょっと痛い」

「アイドルですし、性の対象にされるのは慣れっこですが。それでも時と場合は考えて欲しいです。正直、そういう猥談は校舎裏でやってろ――そう思います」

「いつの時代も、そういうのは変わらないのかもしれませんね。私が子供の時だって、クラスの奴らが似たような話をしてましたし」

「和泉様は?」

「はい?」

「和泉様はアイドルとか、クラスの女の子で、エッチな妄想をしていましたか?」

「さ――さあ。どう、でしたかね。生身の女子と付き合うなんて考えもしない、ただのカードゲーム馬鹿でしたから。……露出度の高いイラストのカードは、こっそり集めてましたけど」

「ふふふ。可愛いです♪」


「そ、それはそうと、冴月さんもそろそろ中学卒業ですね」

「はい。認識阻害と偽名で、何とか三年やり過ごせました」

「高校にも行かれるのですよね? 悠木さんたちも通ってる私立の名門。聞くところによれば、ソロモン騎士団がバックにいる学校とか」

「アイドルと人類守護、そして一番重要な和泉様のお世話――正直、学校に行っている暇などないのですが、師匠からも高校は出ておくように言われていますし」

「あの。私の世話は、別に――」

「嫌です」

「ま、まあ、無理のない範囲で大丈夫ですから」


 雪を踏み砕く小気味よい足音がしばらく続いて――――二つ目の十字路も通り過ぎた。


 そして――その時だった。

 俺が、俺と冴月晶以外の足音を、背後に聞いた気がしたのは。


「ん?」

 何とはなしに振り返る。


 ――黒――

 『柔らかい黒曜石』としか表現できないような美しい黒髪が北風にひるがえるのを見た。


 ――赤――

 ルビーをはめ込んだかのごとき鮮やかな色の瞳に目を奪われた。


「………………んん?」


 『とあるスーパーアイドル』のような絶世の美貌が、俺たちの通り過ぎた交差点を横切って行った。俺が見たのは、『彼女』が十字路の影に消える最後の一瞬だったのだ。


「和泉様?」


 思わず足が止まる。今すぐにでもきびすを返して、いったい彼女が誰であったのか確かめたいと思った。


「あの、冴月さん」

「はい」

「……静佳さんって今日、騎士団の仕事です?」

 驚きと疑心がこもった声で隣の美少女にそう問いかけてから、俺は十字路の中心地点まで駆け戻る。


 しかし――いない。


 確か、橙色の菊柄着物に小豆色の羽織を重ねた派手な格好だったはずだ。そんな人物の後ろ姿など、そうそう見失うはずがないのだが……俺の両目が捉えたのは、結局、大量の雪に埋まりかけた無人の通り道だけであった。


 首を傾げつつ冴月晶の元に戻った俺。そんな俺を見上げて、さっきの人影を見ていない冴月晶が不思議そうに言う。

「静佳様なら、四日前から熊本の魔竜討伐に出かけておりますが」


 そして再び歩き出した俺と冴月晶。


「魔竜?」

「ええ。あの辺は今、熊本地震の影響を受けて時空が不安定なんです。そのせいでこれまでに四度、時空をこじ開けて『悪しき竜』が現れています。去年のはボクと悠里様で倒しましたので、今年は静佳様が」

「……なるほど……彼女、熊本に……」

「静佳様がどうかされました?」

「いや、それがですね。なんだか今、静佳さんを見たような気がしまして――」


 と、そこまで言って俺は――あ、やばっ――咄嗟に口をつぐんだ。


 しかしもう遅い。


 案の定と言うべきだろう。冴月晶が俺から目を逸らし、「そうですか。静佳様がいましたか」なんて不機嫌そうに頬を膨らませたのである。


 あちゃあと思った。頭を抱えたくなった。


 好意を向ける相手との二人旅の最中に別の女の名前を聞きたい女子などいないだろう。しかも、その女の幻を見たとまで男が言い出したのだ。怒らない方がおかしい。


「さ、冴月さん? ち、違うんですよ? 他意は無くてですね……」

「ええ、ええ。わかっておりますよ。和泉様が、静佳様を意識していたわけではないことぐらい。無意識のうちにあの人の幻を見てしまったのですよね?」

「より一層悪いじゃないですか。違うんです。ほんと今、静佳さんにそっくりな人がいたんです。少なくとも、誰かが通り過ぎていったことは間違いなくて……」

「人の気配はありませんでしたが」

「冴月さんは気付かなかったと?」

「はい。ソロモン騎士に存在を気取らせないなんて、和泉様がご覧になった人物はとてつもない凄腕だったようでございますね」

「……馬鹿な。あんな、はっきりとした幻……」


 大きな違和感に俺の足が鈍り、反対に冴月晶の歩足は少しも変わらなかった。


 少しだけ距離が開いてしまって、俺は慌てて彼女に追いつくのだ。


「言っておきますが――私の『推し』は、最初からずっと、冴月さんですからね。それだけは、どうか思い違いしないで」

 少しだけ語気が強くなってしまった言葉。


 すると、冴月晶がようやく俺の顔を見てくれて。

「本当ですか?」

 不安そうな表情で目を合わせてくる。


 俺はふっと笑って、彼女の頭を軽くなでた。いわゆる頭ポンポンという行動。

「そんなの、私の部屋を見ていればわかるでしょう?」


「………………っ」


 そっと身を寄せてきた冴月晶。

 服の腕がこすれ合うほどの距離だ。俺は、歩きにくさを感じながらも、しかし彼女から一センチだって離れなかった。とはいえ、手を繋いだりするのは、まだちょっと無理だ。


「……押し入れの中に、また、ボクのグッズが増えていました……」

「ははっ。等身大タペストリー、ビッグタオルだって、もう何枚買ったことか。タオルとか、もったいなくて絶対使えないんですけどね」

「……っ」


 それから、俺たちは無言で三つ目の交差点まで歩いた。

 雪を踏む音を何度も聞いて、これまでで一番大きな十字路に出る。


「それで――この別れを、左に曲がる、と」

「すぐにわかるとおっしゃっていましたね」


 そして俺と冴月晶の視界に入ってきたもの――――それは、ことさら念入りに除雪された大きな通りと、通りの奥までずっと続く白壁だった。


 巨大も巨大、大名屋敷かと思うほどの大きな屋敷が右手に見えた。


「まさか、これです? 読神さんのお宅」

 想像以上の大豪邸に俺は言葉を失い。


「門までがずいぶん遠いですね」

 冴月晶も苦笑いだった。


 長々と続く白壁を横目に、やがて屋敷の門の前に立つ。


「……これ……どうやって家の人を呼べば良いんでしょう……?」


 俺が途方に暮れたのも当然のこと。

 だって、目の前にあるのは、時代劇だと確実に門番が立っているはずの巨大な長屋門だ。巨大な屋根付き門扉の両側に使用人用の家屋が併設された、『長屋門』の名前どおり立派な長屋の中央をくりぬいて門にしたような巨大構造物。分厚い正面大扉の両脇には人一人が通れるほどの通用口――潜り戸――が設けられていて、当然インターホンなんて現代的な代物はどこにもなかった。


「ノックするにしても、相当強めに叩かねばなりませんね」

「ですよねぇ。とはいえ、気付いてもらえるかな……こんな大きなお屋敷……」


 そうは言っても、ここで門を見上げていてもどうにもならない。さっそく扉に取り付いた俺は、拳を握りしめ、腕を軽く振り上げた。


「あのう! すみませーん!」

 そう声を張り上げてから拳を振り下ろそうとしたら――「はい。何かご用でしょうか?」いきなり右側の潜り戸が開き、白髪の女性が顔を見せた。


 まったく予想していなかった展開。驚愕に両肩を跳ね上げた俺は、拳を開くことも忘れて、無意識的に身体を縮こまらせるのだ。


 心臓の鼓動をうるさいと思いながら、潜り戸の白髪女性にぎこちなく会釈した。

「あ、あの。こちら、読神さんのお宅でしょうか?」


 鼻は低めで、だいぶ丸顔。

 深いほうれい線と目尻のしわに感じたのは、長い――六十年以上の年月だ。

 特別、美人ではないが、品の良さそうな女性だった。ツヤを失ったグレーヘアーをベリーショートにまとめ、動きやすいようにたすき掛けをした草色の着物に身を包んでいる。


 白髪女性は、「そうですが。あなた方は?」と眉をひそめながら俺の質問に答えた。


「和泉と申します。こちらの読神沙也佳さん宛てのお手紙を預かっておりまして」

「手紙? お嬢様にですか?」

「はい。高杉・アリス・マルギッドさんから」

「アリスさん? ああ――ああ。お嬢様と仲の良かったお嬢さんですね。綺麗な、金髪の。よく覚えておりますよ。懐かしいですねえ」

「よかった、ご存じでしたか。私、彼女と少し付き合いがございまして――こちらの正確な住所がわからないということでしたので、直接持参させていただいた次第です」

「そうですか、そうですか。こんな田舎まで大変ご苦労なことでございましたねえ。雪で転んだりしませんでしたか?」


 彼女の表情に柔らかなしわが増えたのを見て、「ええ。なんとか。あの、それでですね――」俺はダウンジャケットのチャック付きポケットを開ける。


 水色の横封筒を取り出した。


「この手紙を、沙也佳さんにお渡し願えませんか?」


 しかし次の瞬間、俺のお願いは、柔和な笑みにやんわり拒否されてしまう。

「いえいえ。せっかくここまで来ていただいたのですから、是非ともお嬢様にも会っていってください。年寄りばかりの村ですから、若いお客様が来たと知ればお喜びになると思います」

 そして、そう言った白髪女性が潜り戸の向こうに隠れると同時。


 ――――――


 巨大な門がゆっくり開き始めるのだ。


 年代物の木材が奏でたのは、かすかな軋みだけ。

 思った以上に軽やかに門が開くものだから、冴月晶と目を合わせた俺は「電子制御でしょうか?」と一言。冴月晶は何も言わず、不思議そうに首を傾げただけだった。


「失礼します」

 小声でそう言って門をくぐった俺の目に飛び込んできたのは。

「さあ、どうぞどうぞ。こちらでございます」

 どこか嬉しそうに案内を始める白髪女性の背後に広がった、個人宅の規模を遙かに超える日本庭園だ。


 数々の奇岩が点在する庭の中央は、大きな池が占める。しかし驚くべきは、その池に石造りの反り橋が架かっていることだろう。

 それから、重たい雪をかぶった松、梅、楓、柳、銀杏、名前も知らない木々たち。庭木の配置だけでなく、その枝ぶりまでが計算され尽くされ、完璧な調和を生み出していた。


 東京の六義園、京都の天竜寺、島根の足立美術館――名だたる名庭園にも劣らない風格を漂わせる、間違いなく入園料を取れる庭だと思った。


「ごめんなさい。お二人のお名前、なんとおっしゃいましたでしょう?」

「あ。和泉です。和泉慎平と申します。こっちの子は、さ――いや、ええと……」

「冴月です」

「和泉さんに、冴月ちゃんですね。わたくし、こちらのお家でお手伝いをさせてもらっている小園です」


 隅から隅まで徹底的に美しい日本庭園に圧倒されながら、雪景色の中を進む。


 小園と名乗った白髪女性は、ぴんと背筋を伸ばして、俺たちの二歩前をしずしず歩いていた。和装特有の綺麗な歩き姿。門構えや庭造りだけでなく、使用人だって一流の人材なのだろう。


 言葉少なく庭を眺めていると、やがて前方にぼんやりとした灯りの列が見えた。

 視界に入りきらないほどの横幅を持つ二階建ての大邸宅が、その内部に大量の光を抱え、一部をガラス窓や雨戸の隙間から漏らしているのだ。


 まだ二時過ぎだと言うのに、太陽を遮る厚い雪雲のせいで、辺り一面、夕暮れのような暗さである。そのせいか、つい、人工の光の存在に思わずホッとしてしまった。


 そして。

「こちらでお待ちください。すぐにお嬢様を呼んでまいりますので」

 三十人は楽に入れる広い玄関に立ち入った俺と冴月晶。


「――凄いお家……なんだか、旅館みたいですね」

「ええ。盆栽はまだしも、金屏風が飾ってある個人宅なんて、私も初めてです」


 豪華絢爛ではあるが、悪趣味ではない調度品のあれこれを眺めて、『読神沙也佳の登場』を待つ。


 こんな大きな屋敷を居宅とする人物と対面するのかと思ったら、なにか……思った以上に緊張してしまって、「――ははっ」ちょっと笑えた。右手が少しだけむずむずする。


 そんな俺の緊張を知ってか知らずか。

「和泉様」

 俺のそばに一歩近寄って、正面の空間を小さく指差した冴月晶。


 俺は何のことかと思って『何もないその場所』に目を凝らし、しかし何も見えなくて……仕方なくまばたきをした次の瞬間だった。


「――――っ!?」

 視界の中に、いきなり異物が現れる。


 まるでホラー映画のワンシーンみたく、唐突に、何の脈絡もなく――いつの間にか黒い着物姿の女性が、俺と冴月晶の眼前に立っていたのだ。

 少し驚いたが、それだけだ。『魔法使い』が神出鬼没なのはいつものことだし、それに今回は、冴月晶が事前に予告していてくれた。


 一拍遅れて、なんとも言えない甘い香りが鼻を刺激してくる。石鹸のような、薔薇のような……しかし少しも嫌な匂いではなかった。むしろ、どこか懐かしく、どこまでも心安らぐ匂いだと思う。


 とはいえ、甘いのは匂いだけではない。

「アリスが面倒かけてごめんやよ。手紙、持ってきてくれたんやって? こんな山奥まで申し訳なかったね」

 声もだ。わずかに鼻にかかったような、それでいて絶妙にかすれの残る……それが耳に入ってくる度に背筋がゾクゾクするぐらい艶っぽい美声。


「そっちの子はソロモン騎士やな。お兄さんは…………何だろうね。魔法使いやないし。悪魔使い? 少し違うけな?」


 だが。


「……あの。和泉様……?」

「……ええ、冴月さん……」


 俺と冴月晶が、屋敷の主を前に会釈すらできなくなっていた理由――

 驚愕に固まっていた理由――それは彼女の容姿がすべてだった。


 墨を流したかのように真っ黒な長髪。

 ありとあらゆる男の煩悩を刺激するかのごとく、官能的にふくらんだ桃色の唇。

 十代の少女では決して到達できない色気を漂わせた白い肌。

 現代にあってもなお、本気を出せば国の三つ四つは滅ぼせそうな傾国の美貌である。


 そして、俺たちは、この女性の顔を知っていた。


 いや……この女性にそっくりな超絶美少女を知っている。


 ――妙高院静佳――


 そうだ。

 今、俺と冴月晶の前に現れた妙齢の女性は、どう考えても、どう疑ってかかっても――あの日本一のアイドル、最強のソロモン騎士の一角に瓜二つだった。


 というか……妙高院静佳がこのまま歳を重ねていけば、この女性とまったく同じ顔になるのだろう。そんな確信がある。


 唯一決定的な違いといえば、『紅い瞳』の有無だけだ。

 女性の瞳は、グリーンガーネットのごとき深い緑であった。


 手にした手紙も渡さずに冴月晶とチラチラ視線を交わすだけの俺をいぶかしんで、あまりにも美しい女性――読神沙也佳が小首を傾げた。


「なんやね二人とも。鳩が豆鉄砲喰らったような顔して。あたしの顔に何か付いとる?」


 その顔がまた妙高院静佳そっくりで、俺は奇妙な恐ろしさすら感じてしまう。

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