雪道の悪魔

「どうぞどうぞ。お部屋こちらでございます」

 作務衣に腰巻きエプロンを着けた中年女性がそう言って障子を開けると、驚くほど明るい和室が目に飛び込んできた。雪景色に反射した陽光が南向きの大きな窓から差し込み、十畳の畳敷きを照らしているのだ。


 隅々まで掃除の行き届いた清潔感のある部屋。


 旅館ならではというべきか、窓際のスペースには小机と椅子が設けられており――そうそう。旅館って、何かこんな感じ――と、つい懐かしく思ってしまう。信用金庫時代の職員旅行以来だ。上役連中が大暴れしたせいで平職員全員のトラウマとなった最悪の旅行。


「和泉様、見てください。窓の外、山が凄いです」

「ははあ。こりゃ見事ですね。部屋からこんな雪景色が見えるなんて――」


 だがそれも過ぎ去った過去のことだ。最近はあの頃の辛い記憶がフラッシュバックすることもだいぶ少なくなった気がする。今の仕事が忙しすぎて、思い出している暇もないというだけなのだろうが。


 俺は、右肩に引っかけていたリュックサックを和室の端に置いてから。

「どうぞごゆっくりお過ごしください。お食事は五時半頃でよろしいです?」

 いかにもベテランの仲居さんといった風体の中年女性の呼びかけに視線を回した。


「ええ。大丈夫です」

 彼女の言葉にそう返してから、こんなことを聞いてみる。

「それであの、つかぬ事をおうかがいするんですが――“黒津根村”って、ここから道が続いてますよね? 歩いたらどれくらいかかるかわかります?」


 すると中年女性は「ええと、“黒津根”ですか?」と首を傾げ、「あの、お客さん? あそこはもう――」そう言い淀んでほんの一瞬眉間にしわを寄せた。


 ほんの少しの驚きと戸惑いが入り混じった表情。


 それで俺は、なにか変なことを聞いたかな……と自問するのだが――次の瞬間、中年女性はパッと表情を戻して、温和そうな顔でこう答えてくれるのである。


「一時間も見ておけば十分だと思いますよ。ほら、この旅館の少し奥の方から山に向かって道が出ていましたでしょ? 舗装された、一本道。ちゃんと除雪が入ってますから、あの道を登って一時間。そんなにはかからないかしら」


 それはほんの小さな違和感。しかし何故か気になってしまう確かな違和感。

 俺が咄嗟に冴月晶の方を向くと、彼女も中年女性の表情の変化を見ていたようだ。わざわざ俺と目を合わせて小さくうなずいた。


 中年女性が苦笑しながら言った。

「でもお客さん。“黒津根”は、本当、何もない小さな集落ですよ? 見て面白いものがあるわけでなし、あんまりおすすめはしませんけど」

 しかし、その顔や仕草に怪しい素振りはなく……むしろこの女性からすれば、俺たちの方が怪しい二人組なのかもしれない。いきなり観光地でもない村への道を聞いたりして。


 愛想笑いを浮かべながら言葉を濁した俺。

「はは――知人からちょっとした届け物を預かってまして。すみません、助かります」

 それ以上“黒津根村”の情報を求めることもなく、早々に話を切り上げた。


「それじゃあ、ごゆるりと」


 中年女性が頭を下げて部屋から出て行くのを待って、「……なんかさっき、ちょっと変な感じでしたね……」ため息混じりに腕を組む。


 冴月晶がソロモン騎士っぽい凛々しい顔付きで部屋を見渡していた。


「同感です。ただ……『古神の類』の気配は感じませんでしたし、それほど心配することもないと思いますが――」

「古神?」

「土地神といった方がわかりやすいでしょうか。こういう田舎だと時々あるんです。力を持った強力な自然霊が、地元の方に影響を及ぼしていることが」


 しかし、目の届く範囲に特別な危険を見いださなかった歴戦の魔法少女。いきなり俺を見ると、「ところで和泉様?」目を輝かせて言った。


「ここ、混浴のお風呂があるんですね!」


 知っている。この部屋に案内される前、さっきの中年女性が、旅館の施設説明をしてくれたからだ。男女別の一階大浴場とは別に、旅館を出た離れに混浴の露天風呂があるとのこと。しかも、あらかじめ申し出れば、貸し切りにだってしてくれるらしい。


「今すぐ入りましょう! ボク、電車とバスで肩が凝りました」


 そう言って俺の右手首を取った冴月晶が、「一緒に温泉入って、そのあとは夜通しワイズマンズクラフトと参りましょう。今日は寝かしませんよ、和泉様」およそ少女とは思えない怪力で和室の出入口へと向かう。


「ちょっ――ちょっと冴月さん!? 待ってください! 待って! 温泉はまだ――」


 単純な腕力でソロモン騎士に勝てるわけがない。小柄な少女に引きずられながら俺は悲鳴交じりの声を上げた。旅行で浮かれた魔法少女にまだ理性が残っていることを祈りながら、「待ってください冴月さん!! 先に仕事終わらせないとっ、私、温泉って気分にはなれないんですって! 高杉さんの手紙が!」なんて声を裏返らせるのだ。


 すると。


「……確かに……それもそうですね」

 そう呟いてはたと動きを止めた冴月晶。


 そして俺は深い吐息を一つ。ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認する。午後一時十五分。


「さっきの仲居さんの話だと、黒津根村はここから一時間弱。往復で二時間です。今すぐ宿を出れば明るいうちに帰ってこれるでしょうし、ささっと済ませてきますよ。幸い、天気もいいですしね」

「でしたらボクもご一緒します」

「そんな。冴月さんだって最近働き詰めでしょう? ゆっくりしててください。先に温泉入ってもらってても構いませんし……」

「いえ、ボクも行きます。イスラ・カミングスがいることですし……あれが変なことをしでかさないという保証はありませんから」

「……イスラ……“薔薇の使徒”とか言ってましたね」

「呪物蒐集を教義とする魔術結社です。コレクター気質というか、危険度関係なくやたらめったら集めるせいで、ソロモン騎士団と揉め事が絶えなくて……」

「すると、この辺にも何かそういうものが?」

「わかりません。ただ、彼ら、何の使い道もない骨董品を血眼になって探していることも結構ありますし。まあ、油断さえしなければ大丈夫かと」

「はは……ほんと、何もないことを祈ります」


 それから俺は、リュックサックから水色の横封筒――高杉・アリス・マルギッドから預かった手紙を取り出し、日本語で書かれた宛名を見る。


 ――読神沙也佳――


 見たことない名字だった。高杉・アリス・マルギッドが言うには、『読神』と書いて『よみがみ』と読むらしい。直に黒津根村に行って村人に尋ねれば、家はすぐわかるとも。


「……黒津根村に着けばすぐに終わるだろう」

 俺はそう独りごち、ダウンジャケットのチャック付きポケットに手紙を入れた。

 ほとんど無意識に反対側のポケットに触れると――固い膨らみがある。デモンズクラフトのデッキが入っているのだ。昨日の夕食後、魔王と激闘を繰り広げた新デッキである。


「それじゃあ冴月さん、行きましょう」


 そして俺と冴月晶は旅館を出て、白銀を踏んだ。


 東雲旅館は深い山間にひっそりとたたずむ五階建ての温泉旅館だ。北アルプスの山々へと向かう登山口のすぐそば。南には割と大きな川が流れているが、冬期で水量が少ないせいか黒々とした大岩が目立つ。

 辺り一面木々は枯れ落ち、雪に覆われているため、空の青さがより一層鮮やかだった。


「旅館の奥にある道……ああ、あれか」


 お目当ての黒津根村へと続く道は、旅館の敷地を出るとすぐに見つけることができた。

 路線バスの終点“下黒津根”停留所からさらに五十メートル進んだ場所、二車線道路のどん詰まり――車一台がやっと通れるような横道が、枯れ木の間に隠れている。


「和泉様、お気を付けください。少し滑ります」

「え、ええ。除雪されてるって言っても、完全に雪がなくなってるわけじゃないし――これは案外、大変な道のりかもしれませんっ、ね」

「大丈夫ですか? おんぶしましょうか?」

「いや、それは流石に……それに最近、皆さんにしっかり鍛えてもらってますし、体力の方は大丈夫だと」


 除雪された雪が積み上げられていて、道路の路肩を歩ける状況ではない。俺と冴月晶は、背後から車が来ないことを確認しつつ二車線道路を歩き、横道に入った。


 すると俺の目に入ってきた結構な勾配。割と本格的な上り坂。


「……うわっ……」


 思わずそんな声が漏れるが、今さら高杉・アリス・マルギッドの依頼を請け負ったことを後悔しても仕方がない。除雪された道路に薄く残った雪に足跡を残しながら、白い吐息を何度も空に吐き出しながら、黒津根村へと続く一本道を進んでいった。


 サク、サク、サク――という軽い足音は冴月晶だ。


 雪よりも明るく太陽を映した銀髪を揺らし、短いプリーツスカートを揺らし。

「なんだか、ピクニックデート気分です♪」

 その軽やかな足取りはまるで雪の妖精みたいだった。黒タイツに包まれた長い脚にドキッとしそうになる。


 そして、登坂中の話題は、これから手紙を届けに行く“読神沙也佳”のこと。


「――アンリエッタ様すらも足元に及ばない魔法使い――ボクの師匠が言っていたのですが、昔そんな方が日本にいたそうです。その名前が、確か、ヨミガミ」

「え? ちょっと待ってください。アンリエッタさん以上って……それ、とんでもないんじゃ……?」

「もちろん。百年や千年に一人の天才じゃききません」

「ええぇ……そりゃあ、あの高杉さんのご友人って話ですから、ただ者じゃないとは思ってましたけども……」

「なにしろ“雷雲に座す者”をほとんど一人で征伐したのですから」

「雷雲に座す?」

「竜です。彼方の時空を喰い尽くした、古く、邪悪で、尊大な――人類史において一番の大事件だったと言う人もいるぐらいの。……危うく南極大陸の半分がなくなるところだったそうです。全長十キロを超える巨竜に喰われて」

「いやいや。十キロって――冗談でしょう? そんなのが地球に来ていたんですか?」

「運が良かったんです。出現が南極点でなければ、隠匿は不可能でした。それで確か……当時のソロモン騎士五十人がかりで広域結界を展開、ヨミガミ様の“アイオーク”で結界ごと焼き尽くしたとか。ほら、和泉様が静佳様に使われかけた極大魔法――」

「ああ。もしかして、私が魔王の能力で打ち消した、あの凄そうな魔法です? 尋常じゃなく巨大な魔方陣の?」

「はい」

「ふへぇ……今から、そんな凄いソロモン騎士だった人に会いに行くんですね……」

「いえ、騎士ではありません」

「あれ? そうなんですか? 私てっきり――」

「騎士団の協力者ではあったようですが」


 その時、不意に――冴月晶が後ろを振り返ったから、「冴月さん?」俺もそれに続いた。


 すると視界に入ってきたのは、宙に浮かんだ奇妙な人影。俺と冴月晶の足跡だけが残る雪道の五メートル上空を、巨翼を羽ばたかせた何かが飛んでいる。


「悪魔だ」

 思わずそう口にした俺。


 そうだ。それは、見間違えるはずもないほどに典型的な悪魔だった。

 禍々しい角の生えた頭、黒い肌、コウモリの翼、二メートルを超える体躯。

 世界中の人が悪魔と聞けば、大抵の人が同じ想像をするような……そんな、どこか安っぽい悪魔がゆっくりこちらに向かってくるのである。


 そして俺たちの真上までやってきた悪魔の筋肉質な腕には、チェスターコートの美女が抱きかかえられており。

「あらあら。殿方とお散歩だなんて優雅なことですわね」

 冴月晶を見下ろして鼻で笑った。


 だが、その直後――――まるで一筋の流星がごとく大空の彼方から落ちてきた一振りの銀剣。典型的悪魔を脳天からぶち抜き、その股間を飛び出し、冴月晶のすぐそばのアスファルトに深々と突き刺さった。


 当然それは絶命に至る一撃であり、哀れ、悪魔はイスラ・カミングスを抱いた格好のまま地面に堕ちるのである。


「ぶひゃ――」

短い悲鳴が雪景色に響いた。いくら悪魔の巨体がクッションになったからといって、五メートルの高さからの落下衝撃はかなりのものだ。悪魔の上で跳ね上がったイスラ・カミングスは、そのまま地面に投げ出され、路肩の雪溜まりへと転がっていった。


 呆れたように冴月晶が言う。

「ソロモン騎士の前で堂々と悪魔を使役するなんて……あなた、バカですか?」


 次の瞬間、強く冷たい北風が吹いた。

 それと同時に、この世ならざる悪魔の死体も、アスファルトに突き刺さっていた銀剣も、ただの塵芥へと還る。それはまるで雪煙のようで、やがて完全に世界に溶け込んでしまった。


 俺は足を止め、うつ伏せで雪に埋もれたイスラ・カミングスを眺める。怒り狂って襲いかかってこなければいいが……と、少し身構えた。


「行きましょう和泉様」


 そんな俺の手を取って歩き始める冴月晶。

「えっと……あの人は放っておいても……?」

 そう困惑する俺を満開の笑みで見上げて言った。


「はい。あのような輩にいちいち構っていたら日が暮れてしまいます。どうせゴキブリみたいにまた出てきますから」


 後ろ髪を引かれる思いだが、冴月晶に引っ張られるように走り出す。


 そのうち。

「冴月晶ぁあああああああああ!! よくもやってくれましたわねえええええええ!!」

 そんな怒声に振り返ったら、「お待ちなさぁああい!! こぉらあああああああ!!」シモベを倒されてカンカンになったイスラ・カミングスが雪の上で地団駄を踏んでいた。

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