雪の最中に

「――それじゃあ私たちはこれで」


 こういうところで『俺も大人になったな』としみじみ思うことがある。


 不思議なぐらい妙高院静佳と似ている読神沙也佳――しかし俺は、興味深いその事実から丸ごと目を背けて、愛想笑いと共に手紙を手渡しただけだ。『妙高院静佳というソロモン騎士をご存じありませんか?』という質問を飲み込んで、小さく頭を下げた。


 読神沙也佳は、横封筒の表裏を確認しつつ。

「お兄さん、和泉さんって言ったけな? 危ないから今日はうちに泊まっといで」

 唐突にそんなことを言う。


 俺は一瞬何のことかとわからず首を傾げたが、ハッと思い付いて後ろを振り返った。


 そこには当然、立派な格子戸があり……しかし格子の隙間を埋める磨りガラスが真っ黒に染まっているのだ。夜を映したようなガラスの中に、小さな白点が現れては消える。


「すみませんっ、ちょっと――」

 そう口走って玄関戸に駆け寄った俺。動揺しながら三十センチほど戸を開けると。


「…………あちゃー……」

 途端、視界に入ってきた壮絶な光景に、頭を抱えるしかなかった。


 白き嵐。


 横殴りの吹雪。


 粉雪ではない。かき氷機で削られた氷のごとき大きな雪片が、曇天極まって光のなくなった景色を埋め尽くして乱舞していたのである。

 風が轟々と音を立てて渦を巻き、一度は地面に落ちたはずの雪が再び巻き上がり、ほんの一メートル先だって見通すことができない。


 飛騨地方の山奥――特別豪雪地帯でしか遭遇しないような、本物の猛吹雪だった。


 格子戸に風がぶち当たりガタガタと鳴ったところで、俺はそっと玄関を閉める。そばに来ていた冴月晶に一度困り顔を向けてから、金屏風を背負うように立つ読神沙也佳を見た。


 すると読神沙也佳は「ね? とてもとても帰れんやろう?」と、引きつった顔の俺をくすくす笑い――そのどこか意味深な笑い方が、これまた妙高院静佳とそっくりなのである。


「二人はどこに泊まっとるんけ? ふもとの東雲旅館さん?」

「え、ええ……しかしまいりました。こんなすぐに吹雪いてくるなんて……」

「ふふふ。都会さんは山の天気には慣れてないしな。まあ、東雲旅館さんには一本電話入れとけばええよぉ。読神の家に泊まるって言やぁ、心配はせんやろう」


 そう言って玄関奥の戸棚から高級そうなレザースリッパを二足取りだした読神沙也佳。綺麗な仕草で正座すると、スリッパを俺と冴月晶の前に並べた。


「さあさあ、上がりぃ。身体冷えとるやろう。お風呂、用意させるから」


 正直、初対面の人の家に泊まらせてもらうなんて、もの凄く気が引ける。

 とはいえ、あの吹きすさぶ雪嵐を見てしまった今となっては、彼女の申し出を断ることなんてできるはずがなかった。心の底からありがたいと思いつつ、「本当によろしいのですか?」と、おそるおそる確認した。


「遠慮なんてせんでいいやよ。ちょうど退屈もしとったし、話し相手ができてちょうどいいもの」

「すみません。助かります」

「ふふふ。うちに来てくれたのがそっちの騎士ちゃん一人なら、茶の一杯でも飲んでもらって送り出すんやけどねえ。こんな嵐、ものの数にも入らんやろうし」


 読神沙也佳の思いがけない言葉。

 俺は冴月晶に視線を送って、「そうなんですか?」と。


 冴月晶は涼しい顔で俺を見つめ返し、何でもないことのように答えた。

「もちろん。山越えして長野方面にだって降りられます」

「えぇぇ……」

 この悪天候でも北アルプスを越えられると断言した華奢な美少女に俺は苦笑いだ。


 またくすくす笑った読神沙也佳。

「ソロモン騎士を舐めちゃあいかんでな。野生のヒグマと同じようなもんなんやし」

 着物の帯下を片手で押さえながら立ち上がる。


「さぶい玄関にさしことおったら風邪引くやよ。はよぅ上がりぃ」


 俺は――『さしこと』って何だ――なんてことを思いつつも、読神沙也佳に促されてスリッパに足を差し入れた。俺が家に上がると、一拍遅れて冴月晶もついてくる。


 それから不意に、読神沙也佳が「小園ぉ」と軽く声を上げた。

 次の瞬間、玄関を出た廊下の方から聞こえたのは、「はぁい」という女性の声だ。さっき俺たちをここまで案内してくれた白髪女性のものだろう。


「お風呂ぉ」

「はぁい。すぐにでもお入りになれますよぉ」


 俺は、豪華な調度品や立派な家の造りにキョロキョロしてしまわないよう、気を張ろうと試みる。尋常ではない大豪邸にそわそわしながらも、読神沙也佳が歩き出すのを静かに待った。


 そして。

「ささ、お客様がた。こちらへどうぞぉ」

 家主の後ろを歩いて、玄関から廊下に入り――正直、絶句。


「東雲旅館さんとこの温泉に入れんで残念やったなあ。でもまあ、うちのお風呂も温泉引いてるから。冷えた身体には染みるよぉ」


 板間の廊下が、明るい屋敷をぶち抜いてずっと奥まで続いていたのだ。奥行き五十メートル以上はありそうで、廊下の両側には長大なる龍を描いたふすま絵が並んでいた。


 目を見張ほどに立派な水墨画である。眼光鋭い頭部から始まり、廊下を歩くにつれて雲を纏った胴体が次々現れていくのだった。


「着替えはあたしの旦那の浴衣を貸したげる。ちょっと大きいかもしれんけどねえ」


 右と左、二匹の龍の間を読神沙也佳の歩みに合わせながら進む。


 ふと冴月晶が俺を見上げて言った。

「和泉様。お背中流しますね」


 すると読神沙也佳が俺たちを振り返って、着物の袖で口元を押さえながら心底おかしそうに笑う。

「あらまあ。あんたら二人、そんな仲良しだったんやなぁ。お兄さん、あたしと同じくらいのお歳に見えるのに。祝言は騎士ちゃんがもう少し歳行ってから?」


 いよいよやって来た『冴月晶との温泉タイム』に俺は困ってしまって、「さ、冴月さん? 今日はお風呂を貸していただくわけですし、別々に入りません?」なんて口に出してしまうのだが、読神沙也佳には鼻で笑われてしまった。


「あら。意気地のない」


 そして読神沙也佳が何気なく足を止め――その瞬間、俺の視界が大きく揺れ動く。


 何が起こったのかまったくわからなかった。

 いきなり目の前の着物美女の姿が遠くなったと思ったら、俺と彼女を分断するかのごとく廊下いっぱいに『三百を超える銀剣の群れ』が広がったのである。


 ギョッとして首を回すと。

「冴月さん!?」

 銀髪の最中にゴツゴツした山羊の角が見えた。干からびた蝙蝠の翼、つま先から太ももまでを覆った剣のように鋭い黒脚甲もだ。


 瞬間的に悪魔化した冴月晶。

 そんな彼女が俺を抱きかかえ、大きくバックステップを踏んだのだろう。


 ――読神沙也佳に何かの脅威を感じたから――


「な……っ」

 見れば、俺の右手付近にも『箱』が浮かんでいた。


 デモンズクラフトの発動。


 人間の左手を組み合わせて造られた箱は、すでに五枚のカードを排出しており――しかし俺がカードに手を伸ばしたと同時、箱の姿はあっけなく掻き消えてしまう。


 空を切った指先。

 どうしてだ? これは俺に訪れた危機が去ったということなのか? と拳を握った。


「へえ。ソロモン騎士と悪魔のハイブリッドなんやぁ」

 銀剣の壁の向こうから聞こえたのは、読神沙也佳の甘い声。


「ま、上の下ってとこかなぁ。騎士としての力だけなら、まだまだ未熟。中の下なんやろうけど――そのおそねぇ足で、床ぁ踏み砕かんといてくれなぁ」


 すると、切っ先を読神沙也佳に向けて空中に浮かんでいた冴月晶の銀剣群が、端の方から順々に姿を消していき。

「騎士ちゃんはあたしについといで。軽く稽古つけたげる」

 現れた読神沙也佳は、こちらへの敵意など一切ないような微笑を浮かべていた。


 いったい――冴月晶も、デモンズクラフトも、この優しげな美女の内側にどんな恐ろしいモノを見たのだろう。そして……今や彼女からまるっきり脅威が感じられなくなったために、デモンズクラフトの箱が消え、冴月晶が魔法を解除したのだろうか。


 やがて静かな声で冴月晶が言った。

「いきなり冗談が過ぎます……翼まで出したから、服が破れてしまったではないですか」


 返す読神沙也佳は「ごめんやよ。まさか変身するとは思わんくてぇ」と、顔の近くで手をひらひらさせながら、深緑色の目を細めて笑った。


「それじゃあ騎士ちゃん、道場行こまいか」


 冴月晶は一度俺の顔を見上げ。

「では和泉様。またあとで」

 歩き出した読神沙也佳に迷いなくついていくのである。


「魔法の使用に耐える施設があるのですか?」

「まあなぁ。あたしが暇潰しと運動不足解消用に造ったもんで、“ジャガーノート”、“クラウソラス”並みの魔法でもビクともせんよぉ」


 廊下に残された俺は、半ば呆然としながら二人を見送った。


「…………え……っと…………」


 俺と冴月晶と読神沙也佳……唐突すぎる今のやり取りが何だったのか思考を巡らせてみれば――そうか。俺は、読神さんに助け船を出されたのか――そう理解して、視線を下げる。

 彼女が冴月晶を焚き付けて道場に連れて行かなければ、冴月晶はもう一度俺に『それでも一緒にお風呂に入りたい』と願い、そして俺はやはりそれを拒絶していたことだろう。


 なんとも情けない話だ。

 大の大人が、年端もいかない少女の可愛いわがままにうろたえて……初対面の女性の優しさに助けられて……。

 許容できない不甲斐なさに胃が痛くなる思いだった。


「……本当……意気地のない……」


 それから俺は、冴月晶との入浴を拒んだ己を振り返ってしばし唇を噛むのだが。

「和泉さんはお風呂でよろしいですね?」

 いきなり廊下のふすまを開けて廊下に出てきた白髪女性――小園の姿にビクリとする。


「え、ええ……お、お願いします」

「こちらです。どうぞどうぞ、こちらです。この家のお風呂はねえ、本当にあったまりますからねえ」


 廊下の突き当たりを――読神沙也佳たちとは逆方向――左に曲がって、まるで迷路のような日本家屋の廊下を歩くこと三分。


「中に浴衣を用意していますから、湯上がりはそれを使ってくださいな」


 辿り着いた先でヒノキの引き戸を開けると、まずは広く明るい脱衣所があった。

 壁際の棚には竹カゴが並び、中央には大人四人が楽に座れる縁台、それから古ぼけた扇風機。まるで温泉旅館の脱衣所みたいだと思った。


「……マジかよ……これが自家用の風呂って……」


 竹カゴの一つを覗き込むと、黒地縞模様の浴衣とバスタオルが畳まれて入っている。

 俺は、その隣の竹カゴに服や下着をまとめて放り込んで丸裸になると、脱衣所奥のガラス戸を引き開けた。


「……すご……」

 そう漏らしたきり続く言葉が出てこない。

 想像していたよりも遙かに凄い浴室が目の前に広がっていた。


 使い込まれたヒノキの板壁に周囲を囲われた広すぎる浴室。何とも天井が高く、その割に照明は柔らかい光の壁掛け間接照明が三つだけ。

 そして、そんな浴室の半分以上を占めるのが、子供が数人泳ぎ回れるほどに大きな岩風呂だ。

 かけ湯用の浴槽は別にあって、壁から湧き流れるお湯を小さめのヒノキ風呂が受けている。右手に見えるもう一つの浴槽は……湯気が立ちのぼっていないし、水風呂だろうか。


「……はえ~……この風呂なら、全然お金取れるなあ」


 視線を回しながら、かけ湯で軽く全身を洗い。

「どっこらしょ」

 深さ六十センチ程度の岩風呂に身を沈めた。お湯の温度は四十度ぐらいか。


 二月の寒空を一時間以上歩いてここまでやってきた身だ。知らず知らずのうちに身体の芯から冷え切っており、「うぅ――」ついつい呻き声が出た。


「はあ」

 大きなため息を一つ。


 両手ですくったお湯を顔面にぶつけ、「……はあ」ゴツゴツした岩を背もたれに天井を見上げる。天井を覆った湯気と深い影を見つめ、俺はこれからどうすべきか考えていた。


 ――冴月晶との関係を――


 このままでは良くない。このままで良いわけがない。彼女はいつだって俺を全力で慕ってくれているのに、この期に及んでも俺ははぐらかしてばかりなのだ。


 世間的に見て絶対にまずい年齢差、人気絶頂のアイドルという彼女の身分、俺自身の女性経験の無さ……強気に出られない理由は幾つもあった。


 とはいえ、そういった理由を盾に決心を先延ばしにしていることこそが、俺の悪徳だ。結論が出てしまうのが怖くて、人から後ろ指を指されるのが怖くて、冴月晶がいなくなってしまうことが怖くて、ついつい彼女の優しさと現状に甘えてしまっている。


 いくらデモンズクラフトを手に入れたからって、何でもありの異世界転生をしたわけではない。俺は現代の日本に生きているのだ。人生を歩むうちに知らず知らず身に付いた常識、良心、欲望――そういったものを秤にかけて判断するしかなかった。


「……どうにかしないとなあ……」


 答えはまだない。


 一朝一夕で心が決まれば苦労はしない。


 あらゆる可能性を考え抜いて、そのせいで身動きできなくなって、それでもなお無理矢理進むしかないのだろう。


 転職してからずっと、このことについて心のどこかで考え続けてきた。だから、もう頃合いだ。少なくとも、この旅行の間には答えを出そうと思っている。


 ……別れを告げることになるかもな……。


 そう考えると急に心臓が重くなった気がしたが、「ふぅー」ため息を吐いてごまかした。


「……………………」


 耳を澄ませば、かけ湯用のお湯が落ちる音の他に、外では大層な風が吹いているらしい。


「……そういえば……バスで会った大学生たち……」

 彼らは大丈夫だろうか。一時間前の晴天を当てにして野湯探しに出ていなければいいが。


 ………………。


 ………………。


 ………………。


 白く濁った温泉に肩まで浸かっていったいどれくらいの時が経っただろう。日頃の仕事疲れが出たのか、ついウトウトしてしまったらしい。


「――ぶはっ!?」


 背もたれにしていた岩からずり落ちてしまって、顔がお湯に突っ込んだ瞬間、気が付いた。鼻からお湯を吸ってしまったらしく、「あっぶな――」咳き込みながら立ち上がる。

 自業自得とはいえ、鼻の奥の痛みにげんなりした。


 頭を掻いて、そのまま何も考えずに振り返ったら。

「へ?」

 俺の目の前――岩風呂のそばに、なぜか『全裸の妙高院静佳』が立っている。絶対零度のごとき心底冷たい美貌で、湯船の中の俺を見下ろしていた。


 俺と妙高院静佳の距離は五十センチもない。


 真っ白な肩に引っかかり胸の先を隠した長い黒髪、はっきりとした重さを想像させる豊かな乳房、ゆるやかな曲線を描いた下腹部、立ち昇る湯気で一部分よく見えなかった太もも周り。


 なんで?

 そう思う暇もなく、俺は反射的に両腕を顔まで引き上げた。


 自然体で突っ立っていた妙高院静佳が動き出しそうな気がしたからだ。日々の戦闘訓練でようやくマシになってきた格闘技術――ブロッキングを発揮する。


 ――――――


 案の定、もの凄い回し蹴りが顔面に来た。

 別段、彼女が足を高く上げなくとも、湯船という低い位置に立っている俺の頭部には届くのだ。


 前腕に力を込めて耐えようとするが。

「ぐ、う――っ」

 構わず腕ごと蹴り込まれて衝撃に脳が揺れた。


 妙高院静佳に掛けられた魔王の呪い――『漆黒の鎖』が発現しなかった理由を考える余裕なんてまったくない。


 視界が一気に黒に染まった。


 トップアイドル・妙高院静佳の真っ裸。そんなとんでもない光景を最後に、俺の意識はあっけなく途絶えてしまう。

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