老いた彼と
「ふしゅー。ふしゅー。ぶるるるるる――」
何の音だ? と思った。
ゆっくり意識が覚醒していき、やがて――ふさふさで弾力のある何かに、鎖骨辺りを執拗に揉まれていることに気付く。やけに胸が重い。
「……いったいなんだよ……?」
あまり気持ちの良い目覚めではなかった。それで俺は、呻き声のような悪態をついてから、重たい目蓋を上げてみる。
寝起きでかすんだ視界。もう少し眠りたがっている俺の頭。
チラチラと瞳孔を突き刺してくる銀光を嫌って一度目をつむり……しかしこのまま眠ってもいられない。「あー……」右手で両目を強く揉んで、無理矢理視界を取り戻した。
すると。
「おはようございます和泉様。お加減いかがですか?」
耳に優しい声。
少し身を乗り出す形で、冴月晶の幼い美貌が俺を見下ろしていた。小さく細い手が俺の頭をそっと撫でて、これ以上ないぐらい穏やかな寝起きを与えてくれる。とはいえ、彼女の銀髪が天井の電灯から放たれる光を反射し、それだけが少し目に痛かった。
……膝枕されている……。
俺がそのことに気付いたのは、冴月晶の身じろぎに合わせて頭の下の枕が動いたからだ。
どうやら俺は、浴衣姿で正座した彼女の膝に頭を乗せているらしい。水色の生地に薄桃の花柄を散らした浴衣が、細身の少女によく似合っていた。
「冴月さん……?」
「はい、冴月晶です。頭痛はありませんか? 首は痛みませんか? お腹は、空いていませんか?」
まるで子供をあやすみたく、俺の頭を撫でながら微笑んだ冴月晶。
彼女の笑みにつられてこっちの口元もゆるんだ次の瞬間、俺は「あ。すみません――」冴月晶の膝枕なんて畏れ多いと身体を起こそうとするが。
「なぁ~~~ん」
「ひ――」
低い鳴き声とともに無遠慮に顔に乗っかってきた毛玉に驚いて身体を硬直させた。
「あららぁ。和泉さんモテモテやさ」
「んなぁあ~~~」
読神沙也佳の声がするが姿は見えない。全部真っ暗だ。視界全面が『甘みのある獣臭を香らせる毛玉』に覆われている。
猫――猫である。俺の胸の上でくつろいでいた大きな猫が、次は顔面で丸くなったのだ。
猫の腹毛が遠慮無しに鼻や口に入ってくる。
「ちょっと待って。これ、ほんと苦しいから」
俺は両手で猫の腹を掴み、腹筋に力を入れた。そのまま身体を起こすと、腕の中にいたのは長毛の三毛猫。不思議そうな顔で俺を見上げ、「んなぁ?」と首を傾げた。
それにしても大きい。種類ははっきりしないが、ノルウェージャンフォレストキャットやメインクーン、ラグドール、その辺りの血を引いていそうな大型長毛猫である。
「お前さんどこの子だ? ていうか、ここ――」
そう口走った俺がぼんやり視線を回すと……畳敷きの宴会場。
俺が寝かされていたのは、そんな印象を抱かせる大広間の真ん中だった。広さはおそらく四十畳を超えるだろう。部屋の奥には板間の舞台まである。
そして、舞台の前には、一人掛けの座卓が三つ。
「おはようさん。もうお夕飯の時間やから、こっちおいで」
舞台に側面を向ける形で並んだ金箔漆塗りの座卓二つの向かい側に、読神沙也佳が正座していた。
俺は、ずしりと重たい三毛猫を抱えたままなんとなく自分の身なりを確認し――黒地縞模様の浴衣――あれ? 浴衣なんていつ着たっけ? と真っ青になっていくのである。
「あ、あの……読神さん……? ……私、もしかしてお風呂で……」
「うん。裸で湯船に浮かんどったよ」
あっけらかんと笑う読神沙也佳。俺は唇をあわあわ震わせながら、自身の後頭部を軽く叩いた。恥ずかしさと動揺のあまり作り笑いが上手く作れない。
「し――失礼しました。これは、とんだお見苦しいものを」
すると読神沙也佳は一瞬きょとんとして、そのうち口を開けて大笑い。
「あっはははは! そっかそっか! そりゃあそうだねえ!」
「え? え?」
「気にせんでくりょ。裸なんて、老若男女見慣れとるから」
「は、はあ……」
そう言われても俺の恥ずかしさはまったく消えない。それどころか、浴衣の下に下着とステテコまで履かせてもらっていることに気付いて、更に落ち込むのだった。
「あー、面白い。いい歳に見えんのに、ウブなお兄さんやなぁ」
読神沙也佳が人差し指の腹で目元を拭って言った。
「なんなら来年、山の祭りに入ってみるな? 人に裸見られんのが『こわい』とか、そういうの、なくなると思うよ?」
俺は一度冴月晶に視線を振ってから、どうにかこうにか苦笑いをつくる。
「ええと……それは、いわゆる、裸祭とか言う……? ふんどしですか?」
「うんにゃ、その千倍えげつない」
「いや、駄目でしょ」
「せっかくだし、晶ちゃんと一緒に山に上がりぃ。巫女のあたしが見届けてあげるから」
「だっ駄目ですって。なに言ってんですか!?」
この話題は危険だ。確信した俺は、俺の腕の中でずっと大人しくしている三毛猫に目を落とした。大きな後頭部を撫でながら、「人懐っこい子ですね」と笑顔を一つ。
「元野良なんやけどね、いつの間か家に上がり込んでたんやよ」
「へえ」
「和泉さんこそ、抱き方がだいぶ手慣れてるなぁ」
「ああ。これは――大学の時、学内に住み着いた猫と仲良くなりまして。よく抱っこさせてくれる子だったんで」
「ふぅん。でも、あんまりそのジジイばっかり可愛がってると、隣の子が泣くよ?」
「隣?」
そう言われて隣を向いた。浴衣の袖端をうつむいた冴月晶につままれていた。
しまった――と思う。それで俺は即座に、「冴月さんにもとんだご迷惑を。膝枕、重くはなかったですか?」なんて取り繕うのだ。
「見てません」
「……はい?」
「ボクが全部介抱したかったのに、その人の拘束魔法に手間取ってしまって。お風呂に駆けつけた時には、和泉様、もう浴衣だったんです。そのうえ、治癒魔法も」
読神沙也佳が口を挟んだ。
「凄い剣幕だったんやよ、小園が風呂場で何かあったと知らせに来た時。あたしが様子を見に行くからと言っても、聞かんくてね」
「だからといって、結界で縛ることはないと思いますが」
「だって晶ちゃん、あのまんまなら屋敷蹴り抜いて風呂に直行したろ? 手合わせの途中で、悪魔んなっとったし」
「……それは、そうですね」
「ふふふ。あん時はあたしもちぃと慌てた」
苦笑いしかできない俺は三毛猫を畳に放し、浴衣の冴月晶と一緒に立ち上がった。
「あの。そういえばさっき、あの猫のこと、ジジイって」
そう言いつつ奥側の座卓につく。冴月晶は右隣だ。屋敷の主に倣って正座したら、即座に「どうぞ、膝ぁ崩してくりょ」と指摘されてしまった。
「雄なのですか? 三毛猫で?」
「うん。立派なふぐりも付いとるよ。毛ぇでわからんかった?」
三毛猫は俺が横になっていた場所で仰向けになって大あくびを一つ。ふさふさの尻尾を揺らし、長い毛に隠されていた睾丸を俺に見せつけるのだった。
「初めて見ました。雄の三毛猫」
「幸運を招くとも言われるけどね、飼ってしまえばなんも変わらん。所詮、猫は猫やよ」
そう言った読神沙也佳は、続いて「小園ぉ」とお手伝いの女性を呼ぶ。
「おゆうはぁん」
するとすぐさま大部屋の出入口となるふすまが開いた。膝をついた小園が深々と頭を下げてから部屋に入ってくる。その手は大きなおひつを抱えていた。
すり足で大部屋を突っ切って、俺たちの元までやってきた小園。俺と目が合うなり愛想よく笑う。
「ああ、よかった。お目覚めになられたのですね」
「や――この度はとんだ失態を」
「少々お待ちくださいね。すぐにお料理をお持ちしますからね」
丁寧な所作で俺たちの脇におひつを置いた小園。そんな彼女に読神沙也佳が話しかけた。
「あの子は?」
膝立ちの小園が膝を伸ばしながら、ほほほと笑った。
「ちゃんとお手伝いしてくれておりますよ。あれはだいぶ凹んでますね」
そして小園は一度部屋から出て行き――再びふすまが開いた時、俺はちょっとした驚きで声を失うのだった。
盆を手にした女中の行列。
紺色の着物にえんじ色の前掛けを着けた女性たちが十人以上、列を成して入ってくるではないか。二十歳前と思わしき少女から五十すぎの白髪交じりまで年齢はバラバラ。皆、穏やかな笑みを浮かべ、しかし一切の言葉を発さなかった。
「料理が少なくてごめんなぁ。春夏なら、もうちぃとええもん食べさせてやれたんやけど」
そう苦笑する読神沙也佳。しかし、俺と冴月晶の座卓は、あっという間に料理の群れに覆い尽くされるのである。載り切らなくて、座卓と同じ高さの脇机まで出てきた。
山菜のおひたし、がんもどきの煮物、切り干し大根のサラダ、キノコのマリネ、それから種々様々な漬物と十種類を超える小鉢。ヤマメの塩焼き。ミョウガやフキノトウ、花ワサビの天ぷら。茶碗蒸し。辛子酢味噌を添えられて出てきたのは、刺身ではなく鯉の洗いだろうか。
そして、旅館でよく見る一人用の卓上鍋では、牛肉とも豚肉とも違う赤身の肉が花を咲かせていた。猪――ぼたん鍋だ。女中の一人が鉄鍋の下の固形燃料に火を入れてくれる。
「都会さんは、シシとか食べ慣れんかなぁ」
「いえいえ。しかし恐縮してしまいます。泊めてもらう上に、こんなご馳走まで」
「ええよぉ。晶ちゃんもいっぱい食べてくりょな」
「はい。遠慮なくいただきます」
「ふふふ。ソロモン騎士は大体いつも腹ぺこさんやものなぁ」
見れば、小園がおひつから茶碗に白米をよそっているのだが、とんでもない山盛りになっていた。あれが冴月晶の小さい身体に消えていくのだろう。
無言のまま料理を運び終えた女中たち。彼女らが背を向けた瞬間。
「お前」
ふと読神沙也佳が声を上げた。女中一人の肩が跳ねる。
「さっきからこそこそして。なに、しれっと帰ろうとしてるけな?」
それで足を止めた長い黒髪の彼女。読神沙也佳に「ちょっとここんお座りぃ」と促され、硬い動きで振り向いた。
直後、料理に気を取られて女中一人一人の顔まで見ていなかった俺の口から「静佳さ――」と驚きの声が漏れる。
そう。妙高院静佳だ。
気まずそうに前髪をいじりながら視線を逸らす美少女は、俺のよく知るトップアイドル、最強の魔法使いにしか見えなかった。美少女すぎて、地味な女中姿がどうにも似合っていない。
「お座りぃ」
「……はい。母さま」
その瞬間、俺は――母さま!? と耳を疑い、冴月晶に視線を送る。冴月晶も見開いた眼で俺を見ており、きっと同じ事を思ったのだろう。
読神沙也佳の隣に正座した妙高院静佳。ばつが悪そうな、なんとも微妙な顔をしていた。
「いつ部屋に来るんやと思えば……あんたぁ、和泉さんに言うべきことがあんな?」
「…………それは……」
「あたしのお客さんに何やった?」
「……だって、お風呂に『知らない男』がいたから……変態かと思って……」
「たわけ。風呂ぉ覗こう人間が、のんきに湯船に浸かってたまるか」
「……でも……」
「でももだってもないやよ。あんたが足出して、和泉さんが倒れた。それがすべてやさ。ああだこうだと言い訳すんなんて、本当、いかん子やな」
読神沙也佳の静かな口調。しかし横で聞いている俺でさえ背筋が凍る威圧感があった。
こ、怖え~~~……心の中でそう思って。
「はい、和泉さん。しっかり食べてくださいねぇ」
「ど、どうも――」
俺は小園から茶碗を受け取る。
そして、衣擦れの音をなんだと思って視線を送ると――正座した妙高院静佳が、俺に向かって深々と頭を下げているではないか。
「申しわけありませんでした。顔を蹴ってしまって」
艶々とした長い黒髪が畳に落ち広がり、その言葉がどんな表情から発されたか、俺は知らない。とはいえ、だいぶ悪いとは思っているのだろう。なんだか声がしおらしかった。
「あたしからも謝らせてくりょ。本当、すまんかったね」
その上でわざわざ俺の前まで出てきて頭を下げてくれた読神沙也佳。やがて、ずっと頭を下げたままの妙高院静佳をチラリと見やって言う。
「無作法な娘でかんにな。ごめんなさいが遅れたことも含めて、ちゃんと責任取らせっから。今晩は布団の隣を空けといてくりょ」
瞬間――跳ね上がった妙高院静佳が、銀髪から山羊の角が伸びた冴月晶が。
「「はああっ!?」」
と、揃って読神沙也佳に牙を剥いた。
「そ、それっちょっとキツすぎない!?」
「譲りませんからね! そこはボクのです!」
俺は、俺にしがみついてきた冴月晶に「落ち着いて。角、出てますよ」と声をかけ、まずは同行者が落ち着いてくれることを願う。
読神沙也佳が座卓に戻りながら嘆息を一つ。
「なにわがまま言ってんやさ。あんたもちぃと痛い思いをして、それでようやくあいこやろう」
「あいこって言うなら、あたしにも同じ事してくれればいいわよ! なんで一晩――」
妙高院静佳が激しく言い返しそうだったので、「あのぅ……」喧嘩が始まる前に俺は小さく手を上げた。
冴月晶、読神沙也佳、妙高院静佳、そして小園。その場にいた全員の視線が俺に集まって一瞬気圧される。軽く咳払いしてから「大丈夫です」と言った。
「そのお気持ちだけで、結構ですから」
すると読神沙也佳が不思議そうに首を傾げる。
「趣味じゃなかったかね?」
ド直球な質問に俺は言葉を選び、「そういうわけでは……ただ、今回は誤解が原因ですし、そうまでしていただくのは心苦しいと言いますか……」しどろもどろで返した。
「でも和泉さんは痛い思いをしたろ? この子、馬鹿力やし」
「ええ。凄い蹴りだったのは、覚えてます」
「なのに笑って済まそうだなんて、だいぶ奇特やな。菩薩さんか?」
「そりゃあ、障害が残るほど痛めつけられていたら別ですがね。出会い頭に事故みたいな一発だけ。それは、読神さんが魔法で治療してくださったのでしょう?」
「無論やよ」
「でしたらそれで結構です。この話はお仕舞いにしましょう」
俺がそう言った途端、妙高院静佳の顔がほんの少しだけ明るくなった。逆に、読神沙也佳の眉間には疑念のしわが生まれる。
「……解せんね……」
値踏みするような視線。俺は努めて明るく言った。
「臆病なんですよ。他人様からの過度な接待、労働の対価以外の金銭――そういうのが全部、リスクに思えるぐらいには」
「なんやねそれ」
「下手な欲をかいたら、そこから別の厄介事が舞い込んでくるかもしれない。そういうのが怖い人間もいるってことです」
「……厄介なぁ……この子の腹に『ややこ』ができるかもと?」
俺は答えを返さなかった。ただ苦笑いを浮かべただけだ。
ふと小園が笑いながら口を挟む。
「あとは、『夜具の上、鼻で笑われる』というのも、殿方はひどく恐れますわね」
すぐさま読神沙也佳が「小園」と声を低め、それをいさめた。
「あら、わたくしったら。失礼しました」
再び、読神沙也佳からの視線。やがて彼女は鼻息を鳴らし。
「不思議なもんやなぁ。そんな怖がりなんに、一番の面倒事を抱え込んで離さんなんて」
俺にしがみついたままの冴月晶を小さく笑うのだった
「ははは。それは、そのとおりなんですが――」
自嘲した俺が銀髪を見下ろすと、いつの間にか冴月晶の頭から山羊の角が消えている。俺と読神沙也佳が話している間に引っ込んだのだろう。
「人間、なにかしら不条理なところはありますでしょう?」
「……しかしなあ……我が子が客人蹴っ飛ばして、おとがめ無しは、あたしの気が済まんのやけど」
「でしたら――読神さん。一つ、失礼なことを伺っても?」
「ん? 別にいいやよ?」
「ありがとうございます。それが、さっきから気になって、仕方がなかったのですが……」
「うん。なんねぇ?」
「――そちらは、静佳さんなのですよね? 妙高院、静佳さん」
俺がそう言うと、俺の懐で冴月晶もブンブン首を縦に振った。やはり彼女も気になっていたらしい。
なぜ妙高院静佳がここにいるのか、と。
魔王の呪いを受けているはずの妙高院静佳が、どうして俺を傷付けられたのか、と。
さっきからどことなく他人行儀なのはわざとなのか、と。
すると。
「――――?」
「――――?」
顔を合わせた読神沙也佳と妙高院静佳。次の瞬間――呵々大笑――いきなり声を上げて笑った。
「あっはは! さっきからこの子を変な目で見とったのはそれかい」
「そっくりなの、すっかり忘れてた」
俺と冴月晶はまったく意味がわからなくて、ただ事態を見守るしかない。
やがて、妙高院静佳――いや、俺が妙高院静佳だと思い込んでいた少女――が、畳に三つ指を突いてニコリと微笑んだ。しかしその笑顔がまた、妙高院静佳にしか見えないのだ。
「読神舞佳といいます。妙高院静佳じゃあありません」
「……ま、マイカ、さん……?」
「静佳は姉です。双子の。子供の頃、養子にもらわれていった」
愕然とする俺。何度かまばたきして読神舞佳をまじまじ見てみるのだが……やはり顔も声も、妙高院静佳にしか思えなかった。
冴月晶がそっと耳打ちしてくる。
「ひとまず、偉大なる王の鎖が現れないことへの説明はつきますが……」
その時、読神沙也佳がパンッと手を叩いた。
「さあ。一つはっきりしたことやし、いいかげんお夕飯食べよおか? シシが煮える。舞佳。あんた、和泉さんにお酌しぃ」
「え……それは、なんか気まずいんだけど……」
「花散らすん勘弁してもらったんやろう? まだあれこれ言うんなら、本気で怒るよ」
「あっ。私、断酒してて――」
「ん? 和泉さん、何か言ったけな?」
「い、いえ――なんでもないです」
散々に酔っ払って冴月晶を傷付けたあの日以来、俺は酒を断っている。
だというのに、今回は変なところで気弱が出た。泊めてもらう身だし、ここで酒を断るのは無粋だろうか……咄嗟にそう思ったのである。
「あの。お酒強くないので、ほんの少しだけ」
そして、酒のとっくりが運び込まれ、山の幸が存分に並ぶ晩餐が始まった。
「――それじゃあ、静佳さんは、三つの時に妙高院のお家に?」
「ソロモン騎士団が子供よこせって言うから、仕方なしやよ。さすがにあたしも、世界の命運と己のわがままを秤にかける気にはならん」
「京都ですっけ?」
「よお知っとるなぁ」
「騎士をやってた同僚から聞きまして。静佳さんが正月、京都に帰ったと」
「胸くそ悪い家やよ。小賢しい陰陽師どもがエリートを気取ってる……まあ、一族を取り仕切る大ババ様はたいした御方やけどなぁ。元ソロモン騎士だし」
「あの。静佳さん、こちらに帰ってきたりは?」
「せんねぇ。もうあたしの娘じゃないからって送り出したもの」
「……会いたいとは?」
「別に。立派に世界守っとるなら、それでいいやよ」
俺は隣に座った読神舞佳におちょこに注いでもらって、読神沙也佳は手酌で、常温の日本酒を傾けた。濃度のあるねっとりした酒だ。トロピカルフルーツのような強烈な甘みがある。
「晶ちゃん。シシは大丈夫? 若い子はそういうの嫌うやろう?」
「いえ、美味しいです。脂がのってて、牛と豚の中間っていうか」
「ふふふ。ならよかった。たんと食べなや」
そのうち、大広間のふすまが再び開き、正月にテレビで聞くような音色が流れてきた。琵琶と笛、つづみの音だ。
おちょこ片手に出入口を見やると――ひたいから四角い布を垂らしただけの『布作面』で顔を隠した三人の着物女が、廊下に正座しているのが見えた。その後ろでは、同じく布作面を着けた男が十人……琵琶、何種類かの横笛、竹管を十七本連ねた笙、つづみ、拍子木で美しい雅楽を奏でている。
「おしゃべりだけじゃ上手く酔えんやろう思って」
そう笑った読神沙也佳。
彼女が「お入りぃ」と声をかけると、一礼した仮面の一団が畳の上を滑った。ゆっくりと広間を横切り、俺たちの背後を抜け、演者不在の舞台に上がる。
そして始まったのは、優雅な日本舞踊だ。
踊り手三人の指先がしなやかになびき、身体をくねらせ、すり足で動き回り――古来より伝わる雅な音楽がそれに華を添えた。
「……日本酒に、日本舞踊とは……こりゃあすぐに酔いそうだ……」
酒で喉を濡らし、猪肉を噛みしめる。
揚げたての天ぷら、ヤマメの塩焼き、小鉢の数々に箸を伸ばす。
「えっと、和泉さん――? あなたも、魔法使いなのですか?」
とっくりを傾けた読神舞佳にふとそんなことを問われ、俺は苦笑するしかなかった。
「ただの会社員ですよ。アイドル事務所で経理やってます」
「え……あっちの、あたしを睨んでる子、サウスクイーンの冴月晶ですよね? 現役のソロモン騎士が一般人にベタ惚れなんておかしくないです?」
「ま、まあ――ここ何ヶ月か色々ありまして」
「あたしの足にも、一応反応してたし」
「腕ごと吹っ飛ばされて、あんまり意味なかったですが」
「……わっけわかんない人たちだなぁ」
「ははは」
「…………その……お風呂のことは、すみませんでした……それに夜の方も断ってくれて……」
「私こそ。どうにも間の悪い男でして。なにもあんなところで鉢合わせにならなくても――とは思うんですが」
「あ。お酒、注ぎますね」
「あ、あ、それぐらいで。すみません。酔い過ぎるといけないので」
不意に隣を見れば、お酌役を読神舞佳に奪われた冴月晶がストレスを発散するかのごとくドカ食いしている。まるで野生の熊のような凄まじい食いっぷりだった。
それから――俺たちは読神親子と何を話しただろう。
しばらくは他愛もない話題が続いたはずだ。「どうやって東京から来たのや?」とか。「普段は晶ちゃんが料理やってんの? そりゃ通い妻じゃないけな」とか。
雅楽は鳴り止まず、布作面の女たちも踊りを止めなかった。
やがて。
「そういやクリスマスはどうやったなぁ?」
去年のクリスマス、日本のソロモン騎士七人とアンリエッタ・トリミューンが対峙した怪物たちが話題に登った頃、「失礼。私、ちょっとお手洗いに」ゆっくり立ち上がる俺。
「小園。案内」
そうは言われるが、小さく手を上げて制した。
「場所だけ教えていただければ。少し酔いも覚ましたいので」
「大丈夫?」
「ええ。久しぶりに飲んだせいか、よく回ります」
「厠はここを出て右やよ。廊下の突き当たりまで歩いて、また左」
「右、左ですね。わかりました」
部屋を出ようとしたら、「なあぁ~」畳に転がっていたはずの三毛猫が足にまとわりついてくる。構わず一緒に廊下に歩み出た。
「ついてきてくれるのか?」
俺の質問に、三毛猫はふさふさの尻尾を振って答えてくれる。
ふすまを閉めるとこれまで絶え間なく聞こえていた雅楽の音がすっと消えた。
「……ええと……右、左……」
板張りの廊下の天井には埋め込み式の丸電灯が光るのだが、電灯の間隔が広いせいか、光に満ち満ちているわけではなかった。ところどころ真っ黒な影が落ちている。
相当の冷気が漂う廊下を進むと、ギシッギシッと板が鳴り――果たして外はまだ吹雪なのだろうか。寒々とした長い風音が耳に届いた。
「……ポン酒は……やっぱ来るな……」
ほてった頭に冷たい空気がちょうどいい。息を吐けばすぐさま白く濁った。
五十メートルはありそうな長い長い廊下をとぼとぼ歩いて、突き当たりを左に曲がる。
とはいえ、新しく現れた廊下も、先を見通せないぐらいの長さがあった。
人っ子一人もいない。俺と三毛猫だけだ。
強い強い風音。
それで俺は――どれぐらい雪が積もっただろうか――と廊下の障子に指をかけるのである。雪景色が見たくて、ほんのわずか障子を引いた。
「おお」
障子の奥――ガラス窓の向こうの光景に思わず声が漏れた。
読神邸の大庭園が穢れなき新雪に覆われて、一面真っ白だったのだ。立ち並ぶ松の木なんて、そのすべての枝が丸々太った雪玉と化していた。
ちらちらと小雪は舞っているが、やけに明るい。雲が切れて月明かりが降りてきているのだろう。
障子を閉めようとして。
「ん?」
しかし変なものに気付いてしまった俺。
広い庭園の奥の方――松の木の根元で何かがぴょんぴょん跳びはねている。
「…………子供……?」
そう、小さな男の子だ。
格子柄の紺色着物に身を包んだ坊主頭が、ボール遊びに興じていた。
……五、六歳に見えるが……こんな雪の夜に……?
妙だと思って目を凝らした。
すると男の子も、障子の隙間から俺が覗いていることにめざとく気付いたのだろう。雪の上を転がしていた大きなボールを頭に乗せて、俺に手を振るではないか。
「ひっ――!!」
勢いよく障子を閉めた。そして俺は一歩後ずさろうとして、足を滑らせてしまう。氷のような冷たい廊下に派手に尻もちをついた。
「え? え? 首――」
意味がわからなかった。
――生首――
俺に手を振った坊主頭の男の子……しかし俺が初めボールだと思ったのは、成人男性の頭部だったのである。
綺麗に剃り上げたスキンヘッド、彫りの深い顔、口からこぼれた赤い舌と――首から下のない人間の生首を頭に乗せて、男の子は満面の笑みだった。
「……薔薇の、使徒……」
すぐさま思い出したのは、バスの中で出会った三人組の外国人。黒のロングコートをまとった一人があんな感じのスキンヘッド男だったはずだ。
尻餅をついたまま視線を泳がせる俺の足元に三毛猫が寄ってくる。
そして、彼が牙を見せて大きくあくびしたその瞬間――
「和泉さん?」
真横から投げかけられた声に俺は心臓を止めかけた。全身の筋肉という筋肉が一気に収縮する。
小園だ。
空になったとっくり一つを盆に載せた小園が、不思議そうな顔で俺を見下ろしていた。
「大丈夫ですか? どこかお加減が?」
「……い、いえっ。首。あの、それが――庭に、ちょっとですね……っ」
「庭? お庭に何か?」
俺の漏らした震え声を拾って、小園が障子に近づいていく。
「あ。小園さん、ま――」
遅すぎた俺の制止。極々自然に障子が開いた。
しかし――何か異変があるわけではない。
小園はそのまま庭を眺め、「……………………」しばらく沈黙。
やがて俺に後頭部を向けたまま、「雪ぃやめませんねえ」と小さく呟いたのみだった。
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