雷神の鎚(前)
「絶対におかしいです」
ストーブでしっかり温められた二十畳の和室に冴月晶と二人っきり。いや、くだんの三毛猫もついてきたから、二人と一匹か。
俺は部屋に入るなり、俺の衣服が布団の枕元に畳まれてあるの見つけ、これ幸いと手に取った。浴衣を着たままズボンに足を通し、ベルトをカチャカチャ鳴らす。
部屋の中央に並べて敷かれた二組の布団――布団に横座りして、大きな三毛猫を膝に乗せた冴月晶が俺を見上げて言った。
「どうぞこちらへ。一つずつお話しください、何があったか」
それで俺は、浴衣を脱ぎ捨てて、一気にダウンジャケットまで着込んでしまうのだ。完全に酔いは覚め、得体の知れない不安と焦燥感に駆られていた。
布団の上で正座し、冴月晶と膝を付き合わせる。
「すみません。色々、変なことを言うかもしれませんが……」
「大丈夫。お手洗いに立たれた時、何かあったのですよね?」
「わかりますか?」
「それは、もちろん。ボクが和泉様の異変に気付かないわけがありません。例え、どれだけ和泉様が平静を装おうとも」
「はは……読神さんたちの手前、一応そうした方がいいかと思いまして」
「それで、和泉様は何を見られたのですか?」
冴月晶が俺の膝に手を置いたのを皮切りに――俺は、あの時、廊下で見たすべてを言葉にし始めた。
雪の庭にいた着物姿の子供のこと。
ボール代わりに弄ばれていた生首のこと。
手を振る子供と目が合ったこと。
通りがかった小園が窓の外を見ても、その目には何の異変も映らなかったこと。
そんな小園の後ろ姿が……少し怖かったこと。
「――そうですか……薔薇の使徒が……」
「ええ。あの人たちが何をしているのか、私には見当もつきません。ですが、何か――大変なことが起きているんじゃないかと思いまして」
俺の言葉を受けて、冴月晶が考える素振りを見せた。三毛猫の腹を左手で揉みながらも、右手の中指で自分の下唇を撫でる。桃色の唇がぷるんと震え、妙に色っぽい仕草だった。
「……山のご神体でも盗んだのかな……」
「それで神様が?」
「悪徳コレクター集団ですからね。無茶苦茶はいつものことですし、古い神を叩き起こしたのかもしれません。ボクが動くことになるかどうかは、場合によりけりですが」
「場合、ですか」
「不届き者を始末して古神が満足すればそれで良し。活動が止まらずに山ごと無くなるようであれば……さすがにそれは止めねばなりませんから」
山ごと無くなる――そんな物騒な言葉に俺は「な、なるほど」と唸るしかなかった。ふと一つ思い付いて、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「念のため水無瀬さんに電話しておきましょうか?」
しかし、強がりで笑顔を作った俺に投げかけられた静かな問いかけ。
「繋がりますか? 多分、もう無理かと」
スマートフォンの画面に映る『圏外』という二文字によって、「ほんとだ」俺は異常事態の発生を確信するしかなかった。強がりの笑みが不自然なぐらい顔に張り付くのである。
「古神――土地神は『生きた結界』ですから、動き始めたが最後、地域一帯が異界化するんです」
「ええと。つまりそれは……」
「手持ちの戦力でどうにかしなければならない、ということです」
「は、はあ…………」
思わず言葉を失った俺。
冴月晶の膝の上でくつろいでいた三毛猫が「なあ」と短く鳴いた。
「お任せください。ボクはソロモン騎士ですから」
静かではあるが、力強い言葉。
それに俺が安堵したのを感じ取ったのか、冴月晶が三毛猫の前脚を握って、だらりと弛緩したそれをちょいちょい動かし始める。三毛猫は一切嫌がることもなく、少女の細い指にされるがままであった。顔をマッサージされると気持ちよさそうに目を細めた。
「とはいえ、相手が『神だけ』であれば、ですが」
意味深な呟きの意図を教えてもらおうと「なにか気掛かりでも?」俺はそう首を傾げるが、冴月晶はすぐには答えを返してくれない。
やがて、長い沈黙が部屋中に広がりきった頃、言葉を選ぶように言った。
「いえ――読神様が動いていないのが気になって。あの方はこの山を祀る巫女のようですし、土地神が動き出せば相応の対応を行うはずですが」
「気付いていないと?」
「……もしくは、あえて目をつむっているか」
「こ、怖いことを言わないでください。それじゃあ、読神さんが、盗みに入った薔薇の使徒をこれ幸いと生け贄にしたみたいに――」
声を震わせた俺を冴月晶が見る。アメジストのような瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
それで俺は彼女の言いたい事を察し、生唾を呑むのである。
「どのくらい強いんです?」
「相当低く見積もって、アンリエッタ様以上、といったところでしょうか」
「な、なるほど。それはお強い」
その瞬間、俺の頭に浮かんでいたのは、純白の戦乙女と化した妙高院静佳の姿。そりゃあ、あの人の母君だものな……と、ある意味納得していたのである。
「まあ、きっと大丈夫です」
俺が面白い顔で固まっていたせいだろうか。小さく吹き出してしまった冴月晶。
「あの方と戦うことはないと思いますから。薔薇の使徒たちが神に喰われたとして、それは当然、彼らの自業自得――」
それなのに、いきなり何か大切なことを思い出したようで、「ああ……そうだった。そうでしたね……」とこめかみを押さえてがっくりうなだれるのだ。
いつも涼しげな彼女にしては珍しく、うめくような声を漏らした。
「……そうは言っても、エゼルリードがいましたね……」
聞き覚えのない名前。
俺は「エゼル?」と聞き直し、冴月晶が顔を上げてくれるのを待った。
深いため息があって、それから気を取り直すような声色が流れる。
「イスラ・カミングスと契約している悪魔です。彼女の奥の手なんですが、どうにかするとすれば、まずはエゼルリードからですね」
「はあ。それは、いったい?」
「いくら奥の手といえど、命尽きるその時まで温存していては何の意味もありませんから」
そこまで言ってもらって、俺は初めて小さくうなずくことができた。
「召喚されていると?」
「以前に一度エゼルリードが使われた時は、数百人規模で死者が出たはずです。大味というか、細かい操作のできない悪魔ですので」
「なるほど。それは、村の人が――」
「いくらかは犠牲になるかもしれません」
冴月晶と視線を交わし、それから二人して深いため息を吐く。
「読神様にすべてお任せしてもいずれ解決はするでしょうが、降りかかる火の粉は自ら払うのが手っ取り早いかと」
ため息混じりの冴月晶が布団に手を突いて身体を伸ばし。
「降りかかってきますか、火の粉が」
俺は心臓の嫌な鼓動に耐えながらも、半ば無理矢理、歯を見せて不敵に笑った。
まさか俺がそんな顔をするとは思ってもいなかったのだろう。紫色の双眸が驚愕に見開かれる。そして、俺のことをよく知る少女騎士は、少しだけ寂しそうに微笑むのだ。
「お強くなられた。以前ならもっと及び腰でしたのに」
俺は「いやあ……」と頭を掻く。
「あの子供と目が合った時から、こういうことになるかもとは思ってましたから。幽霊ではなく、悪魔が襲ってくるというのは、だいぶ想定外ですが」
「ふふふ。バーバヤガー、ギルゴートギルバーと、和泉様もだいぶ鍛えられましたね」
「嫌な話です。冴月さんがいてくださるとはいえ、命の危険があるというのは」
そして、また大きなため息を吐いた俺。
穏やかな沈黙が広がる。耳を澄ませば、屋敷の外ではまだまだ強風が吹き続けているようだ。二十畳の和室全体が小刻みに震えている気がした。
新たな話題をつくるためか、「そういえば」と冴月晶が切り出してくる。
「和泉様が今使っていらっしゃるデモンズクラフトのデッキって――」
そう首を傾げられて俺は「ドールデッキです」と苦笑混じりに答えた。
いや――苦笑ではない。照れ笑いだ。デッキに入っているモンスターカードたちを思い出して、『十人十色の愛らしい女の子たち』を照れくさく思ったのである。
「ふふふ。強さはもとよりイラストアドの高いデッキですから、華やかなシモベができるじゃないですか」
「そんな。冴月さんの時ほどじゃあありません」
不注意から口にしてしまった咄嗟の一言。俺はすぐさま――馬鹿野郎め。今のはさすがに失礼が過ぎるぞ――と思い返して頭を下げようとするのだが。
「もう。和泉様ったら」
恥ずかしそうに顔を隠した晶に腕をバシバシ叩かれて――まあ、本人の気に障っていないなら――とも思うのだ。苦笑して済ませた。
それから俺は、これからやってくるであろう『尋常ではない出来事』と『命の危機』を思い浮かべて、力なくうなだれる。
「……嫌な話だ……のんびりできると思ったのに……」
頭の重さに背筋が負けて、正座したまま布団に突っ伏した。どうにも胃が痛い。
やがて頭頂部あたりを何かに触られる感じを覚えたが、多分、三毛猫にでもつつかれているのだろう。三毛猫の爪に引っ掛かり、髪の毛が何本か引き抜かれていった。
そして。
「――気配が、ありましたか?」
衣擦れの音を合図に顔を上げた俺。ソロモン騎士の正装を身に纏って畳に立つ冴月晶を見上げた。
「はい。やはりエゼルリード。まずは小さいのが大挙してきますから、そのつもりで」
まるで手品だ。
ついさっきまで可憐な浴衣姿だったのに、今は『俺と初めて出会った時と同じ姿』。大きく襟の立ったミリタリースタイルの白制服の上に、フード付きの白マントを羽織っている。その上、室内だというのに、足元を固めるのはゴツいミリタリーブーツだ。
いったいいつ着替えたのか。いや、そもそもどこに騎士装束を隠し持っていたのか。
「……いや……手品師どころか、本物の魔法使いだったな……」
思わず呟いてしまった率直な感想。
しかし冴月晶からの反応はなく、静かに閉め切られた窓の方を見つめているだけだった。
「あの、冴月さん。読神さんは?」
「エゼルリードの存在にはすでにお気付きになっているはずですが――ボクが仕留めると思って、村の人たちの守護に回っているのかもしれませんね」
「なるほど。そうですか」
ゆっくり立ち上がった俺は、足元でお腹を見せていた三毛猫を抱き上げ、キョロキョロ室内を見回すのである。どこか安全なところは……などと考えてみるが、これから悪魔が襲ってくるというのに百パーセント安全な場所なんかあるわけがない。
「お前、大人しくできるか?」
「なあ~」
「頼むから暴れないでくれよ」
「なあ~」
散々考えあぐねた結果、俺は大人しい三毛猫をインナーシャツのすそから服の中に入れた。その後、シャツのすそをズボンに突っ込む。ベルトをキツく締めた。
シャツの首元を広げてやると「んなあ」そこから顔を出した三毛猫。
カンガルースタイルというか、懐に入れてやるのが一番安全だと思ったのである。
そんな俺たちを眺めながら優しく微笑んでいた冴月晶が、「……さて、と……」ふと笑みを消して真顔になる。
「少々お下がりください。ボクの後ろに」
片腕を軽く広げ、腰を落とした。
それで俺は、彼女の言葉に従って二歩、三歩とゆっくり後退。右手付近の空間をチラ見するが、「……心臓が重いな……」デモンズクラフトの発動はまだみたいだった。
気付けば、冴月晶の両手で細身の十字剣が光っている。
そして悪魔の姿も見えないうちに放たれた一撃目は――真横への切り払い。
真一文字に空間が切り裂かれ、まるでツバメのように急旋回した銀色の切っ先が真下から天井へと飛んだ。
結果、特大の十文字の軌跡が描かれ。
「来ます」
きっとそれは『剣の神の御業』を再現する魔法だったのだろう。
次の瞬間――俺と冴月晶に向かって吹き飛んできた障子や窓ガラスも、雲霞のごとく束になってきてまっすぐ突っ込んで来た小悪魔の群れも――十文字の軌跡に触れた物体のことごとくが、容易く切り刻まれたのだから。
凄惨すぎる光景だった。
尋常ではない量の血しぶきが天井や壁、畳を濡らし、ほこり一つ無かったはずの和室を真っ黒に染めていく。いくら身長一メートル程度の小悪魔たちといえど、四十も五十もその死骸が積み重なれば、あっという間に二十畳を埋め尽くしてしまった。
こめかみから角の生えた黒い頭部が、俺の隣を抜けて背後のふすまに突き刺さり。
蝙蝠の翼を大きく広げた上半身が、きりもみ回転しながら天井の蛍光灯を粉々に砕く。
頼みの灯りが消えた。
しかし俺は、視界一面から光が失われる直前――ようやく現れてくれた『デモンズクラフトの箱』へと右手を伸ばし、なおかつ手札となった五枚のカードも確認している。
真っ暗闇の中、小悪魔たちの断末魔の叫びを聞きながらカードを切った。
“カレイドドール・愛らしき踊り子リーサ”
『攻撃力二、防御力二。召喚条件・なし。このモンスターが相手モンスターを破壊した時、またはこのモンスターが相手モンスターの攻撃・特殊能力によって破壊された時、あなたはデッキの上から二枚を公開する。その中のカレイドドールを一枚手札に加える』
涼しげな鈴の音が耳に届いた。
そして鬼火だ。
俺の目線の高さに青白い火の玉が四つ現れ、畳の上、『真紅のバレエシューズで踊る小柄な女の子』を照らし出す。
三つ編みを束ねてアップヘアにまとめた綺麗な金髪。
ひたいから赤き一本角を伸ばし、柔らかな微笑みで表情が固まっている幼い美貌。
肩出しの純白コルセットドレスと短いチュチュスカート。
肩、肘、手首、膝、足首と、露出した関節のすべては西洋人形に見られる構造――シンプルながらも妖しい魅力を漂わせる球体関節だった。
十歳かそこらの踊り子を模した等身大の少女人形。
カレイドドールと名付けられた呪いの人形群の一体。
それこそが俺の召喚したモンスターである。
直後、「わ――っ!?」天井で勢いよく跳ね返った悪魔の頭部一つが俺の元へ飛んでくるが。
「和泉様っ! お怪我は!?」
「だ、大丈夫です! リーサが!」
突如として宙を舞い踊った“カレイドドール・愛らしき踊り子リーサ”が蹴り飛ばしてくれた。
どこか、悪魔化した冴月晶を思わせる蹴り技に妙な頼もしさを感じて嬉しくなった俺。しかしすぐさま頭を抱え、身体を丸めて、いつどこから飛来してくるかわからぬ悪魔の肉片に備えるのだ。
怖がる俺を思ってか、「マスター」俺の前に立つ球体関節人形がいきなり声を上げた。
鬼火の青い光を浴びながらその場でくるり一回転を決めると、チュチュスカートのすそをつまんで軽く持ち上げた。
「踊り子リーサ。美しく、お役に立ちますの」
呪いのバレリーナ人形が喋れるとは思っていなかった俺は、目をぱちくりさせてから、「よ、よろしく」と口にするのが精一杯。
「白マントの騎士様についていった方がよろしいですの?」
踊り子リーサのその質問には、コクコクうなずくだけだった。
すると「失礼しますの、マスター」そう言った踊り子リーサが俺の腰へと手を伸ばしてくる。
何をするのかと思ったら、小さな手で軽々俺を持ち上げ、そのまま自分の肩に下ろしたではないか。
肩車。
そう。まぎれもなく肩車の形だ。
とはいえ、十歳かそこらのバレリーナに肩車される成人男性のなんと不格好なことか。なんと気恥ずかしいことか。
「マスター運搬形態ですの」
自信満々にそう言い放った踊り子リーサに俺は苦笑しかできず、『デモンズクラフトの箱』が新たに排出したカード一枚を無言で手札に加えるのである。
「外に出ます。行けますか和泉様?」
茶化すことなく真面目にそう聞いてくれた冴月晶。
俺は、踊り子リーサの肩の上で咳払いを一つ鳴らしてから、「ご覧のとおり。完璧です」と前を向いて言った。懐からすべてを見ていた三毛猫が「なあ」と短く俺に続いた。
黒き怪物の群れはもう途切れている。
死に際も絶叫も消え失せ、部屋を埋め尽くした大量の肉片たちも黒い煙を上げてこの世界から掻き消えようとしていた。
だがしかし、この沈黙もいつまで続くかわからない。そして、たった今冴月晶が皆殺しにしてくれた大量の小悪魔たちが悪魔エゼルリードにどう関係するのかも俺は知らない。
わかっているのは――動くしかない。この部屋にとどまっても事態は好転しない――そんなことだけだ。
「では参りましょう。イスラ・カミングスとエゼルリードを止めに」
そう言い切って畳を蹴った冴月晶。悪魔の群れによって粉砕された南向きの窓と壁を一足飛びに駆け抜ける。
同時――――――俺の視界も一転した。
踊り子リーサが冴月晶を追って躍動したのだろう。
「ちょっと待って! いきなり空ぁ!?」
「んなあ~~~」
「マスター。あんまり騒ぐと舌を噛みますの」
見えたのは、重たい雪雲の切れ間に顔をのぞかせた黄色いお月様。
俺と踊り子リーサの隣で白マントを大きくたなびかせる冴月晶。
それと、遠くにそびえる漆黒色の山並みたち。
おそるおそる視線を下ろしてみれば――黒津根村に集まった家々の瓦屋根が、眼下に広がっていた。
地上五十メートルぐらいはあるだろう。
「私ぃ、高いところ駄目なんですってぇ!」
耳が落ちそうなぐらいの寒風、細切れになった発泡スチロールのような雪の最中を俺たちは飛び抜けていく。
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