ミューズの肖像~楽屋裏~
「よっしゃ! 間に合ったぁ!」
勢いよく扉を開け放って現れたのは、白キャップと伊達メガネで顔を隠した悠木悠里だった。真っ先にキャップを剥ぎ取って頭を振る。
普段、ミーティングルームとしても使われる広い部屋は、今や、鏡とハンガーラックが並ぶアイドルの楽屋と化しており――突然の入室者に女性スタッフ全員の視線が動いた。せわしなく動いていた手が一瞬止まる。
だがそれだけだ。
時間に追われる彼女らは、伊達メガネをダウンジャケットのポケットに突っ込む悠木悠里の姿を確認してから、すぐさま仕事に戻るのだった。
移動式の大きな姿見の前では――
「カナタちゃん、これでどうかな? 動きにくくない?」
「うん。うん、わかったからレオノール。ちょっと落ち着こう。え? おトイレ行きたい?」
「サーシャぁ、寝ないでー。もうちょっとで着付け終わるからー」
熟練のスタイリストたちが、矢神カナタ、レオノール・ミリエマ、アレクサンドラ・ロフスカヤの三人に衣装を着せていて。
「ほんとあなたたちって化粧要らずの化け物よねぇ。少しでも盛っちゃうと不自然になるし、逆に神経使うわー」
妙高院静佳の顔に筆を走らせながら、世界的にも有名なメイクアップアーティストはため息を吐く。
そして、冴月晶の銀髪を整え終えた若いヘアメイクアーティストは。
「晶さん、ココアでも飲みます? 少しは緊張ほぐれますよ」
ライブ前のアイドルがずっと浮かない顔をしていることに困り果てていた。「ボクは大丈夫ですから」と言われても、ついついお節介を焼いてしまう。
スタッフの誰もが己の仕事を精一杯遂行していた。
時刻は午後四時三〇分過ぎ。
あと一時間半もすれば、五万人以上を動員するサウスクイーンアイドルの年末ライブが開演する。日本中を熱狂させる乙女たちが、とうとう大衆の前に現れるのだ。
「ふー。ちょっとだけ焦った」
休憩用のソファに座り込んでから丸テーブルに手を伸ばした悠木悠里。大きなバスケットに満載されていたチョコレートやクッキーをむんずと掴み取ると。
「さてさて。あたしも準備しないとなあ」
ビニール包装を開きながら、そうぼやいた。
「お昼の情報番組? ずいぶん遅かったわね」
チョコレートを頬張る悠木悠里に声をかけたのは、すぐそばのオフィスチェアに腰掛けていた高杉・マリア=マルギッドである。彼女は、長い金髪をヘアメイクアーティストに結い上げられている真っ最中だった。
「年末拡大版だとよ。生放送終わって車に飛び乗ったのにこれだ」
「行列は見えた?」
「おお。外は訳わかんないことになってるぞ。入場と物販を合わせりゃあ、今日やってる冬コミの待機列とタメ張れるかも」
「なにそれ。悠里が好きな漫画の奴?」
「一日目行きたかったんだよなぁ。こはく大福さん、脱稿できたって言ってたし――」
その時、不意に、メイクアップアーティストの一人が悠木悠里の前に立つ。
「悠木さん。時間ないし、このままベースメイクに入っちゃっていいかな?」
すると悠木悠里はハッとしたように立ち上がり、「あっ、ごめんなさい佐々木さん。ちょっとあたし――軽くシャワー浴びてきてもいいです?」と。
草色のダウンジャケットをソファに脱ぎ捨てながら、ばつが悪そうに笑った。
「今日の生放送、スタジオの照明がキツくて」
「ああ。汗かいちゃったのね」
「ちゃちゃっと五分で出てきますから」
「それならクレンジングも持ってって。なんなら化粧落とし、手伝ってあげようか?」
「助かります。シャワールームにタオルって置いてありましたっけ?」
そのまま悠木悠里は馴染みのメイクアップアーティストと楽屋を出て行くのである。
「そういえば私ね、さっきの生放送、携帯で見てたのよ」
「マジです? なんか照れくさいな」
「ううん、すっごく可愛かった。ファッションアドバイスもキレッキレだったし、あれでまたファンが増えたんじゃない?」
「そんな。あたしおだてても何も出ませんよぉ――」
そして悠木悠里と入れ違いに楽屋に入ってきたのは、「すみません!! アンリエッタ見ませんでした!?」ビジネススーツの上からスタッフジャンパーを羽織った水無瀬りんだ。
「いえ。見てないですけどぉ」
高杉・マリア=マルギッドのヘアメイクアーティストがそう言うと。
「そうですか、失礼しました――――あんのっ、自由人! どこほっつき歩いてんのよ!?」
すぐさま慌ただしく走って行ってしまった。
楽屋の外の廊下からは、誰かの会話と足音がひっきりなしに聞こえてくる。
もう時間は少ない。開演準備は着々と進んでいるのだろう。
今や、スタッフ全員がこの一大イベントを成功させようと躍起になっているようだった。
だというのに――
「……和泉様……」
ふと、顔の前で両手を握りしめたのは、ステージに上がる準備をあらかた終えた冴月晶。心ここにあらずといった虚ろな眼で、シンプルな壁掛け時計を見やるのだ。
「……和泉様……」
「晶さん、本当に大丈夫ですか? それに……イズミって――」
大手ヘアメイクプロダクションから派遣されてきただけの若いヘアメイクアーティストが、アイドル事務所の経理担当者の名前など知っているわけがない。
どうしたものかとオロオロし、やがて同僚の一人に「ちょっと集中させてあげましょう」と言われておずおずとうなずくことになる。
「そ、それじゃあ晶さん……落ち着いたらもう一回衣装チェックするから」
そう言って、仮設された鏡台の前でうつむく冴月晶から距離を取った。
しかし冴月晶は一向に立ち上がろうとしない。
そのうち――着替えと化粧を終えた妙高院静佳が、冴月晶の鏡台に無遠慮に腰掛け、薄笑みをつくるのだ。
「そんなに和泉さんのことが気になる?」
冴月晶は顔を上げたが、その目は妙高院静佳を見ていなかった。冴月晶の瞳に映ったのは――露出度高めのフリルドレス姿の妙高院静佳、その豊かな胸元を飾る『ピンクゴールドのネックレス』だ。犬をモチーフにした印象的なペンダントトップが光る。
「当たり前です」
一方、黒と銀のドレスを纏った冴月晶。彼女の胸元にも同じ色のネックレスが揺れていた。こちらのペンダントトップはシンプルな十字架である。
今にも泣き出してしまいそうな美貌を見つめてから、「……ったく……」軽く目を伏せた妙高院静佳。
「それで世界の終わりを見たような顔してるんだ? 騎士たるものが情けないことね」
「……静佳様……ボクは、どうすべきだったのでしょう?」
「何のことよ?」
「どうしてもっと必死に止めなかったのか……例え嫌われてでも――いいえ。いっそのこと、あの人を傷付けてでも、止めた方が良かったんじゃないか……今は、そう思うんです」
そして冴月晶は、まるで敬虔なクリスチャンみたくペンダントトップの十字架を固く握りしめて、震える声を吐き出すのだった。
「ボクは――あの人を、たった一人、奴らの前に立たせてしまったっ……! 今頃どれほど心細いか……っ!」
大好きな男のことを思って自責の念に駆られる乙女。
見ていられないとでも言いたげに楽屋の天井を仰いだ妙高院静佳が口にしたのは、投げやりな一言だ。
「魔王の力があるじゃない」
当然、苛立ちを含んだ反論が飛んでくる。
「デモンズクラフトを差し引けば、ただの人間です」
「そうね。殴れば簡単に死ぬもんね」
「体も、心も……吸血鬼と戦える強い存在ではないのに……和泉様は、どうしてあんなことを――」
そこまで言って言葉に詰まった冴月晶。
妙高院静佳は「あのさあ――」と深いため息の後。
「今さらウジウジ言ってんじゃないわよ。晶が思ってるより、あいつは強いっつーの」
狼のごとく犬歯を剥き出しにして、そう言い放った。
彼女の異名“聖痕の獣”を彷彿とさせる、あまりにも攻撃的に歪んだ美貌。さしもの冴月晶でさえ不安を忘れて一瞬きょとんとしてしまう。
それで妙高院静佳はすぐさま顔を元に戻し、まっすぐに冴月晶を見つめるのだ。
「和泉さんのことを本気で思うなら、せめてステージでは笑顔でいなさい」
「――え?」
「あの人が守ろうとしてるライブを、晶が大事にしてあげなくてどうすんの」
鏡台から尻を下ろすと、冴月晶の耳元に唇を寄せて囁く。
「和泉さんのことが好きなんでしょう?」
すると小さく、しかしはっきりとうなずいた冴月晶。
「好きな男が張った意地ぐらい、信じてやるのが女の度量よ」
妙高院静佳は笑って冴月晶の頭を撫でてやろうとするが、「おっと――」彼女の銀髪が綺麗にセットさせていることに気付き、すんでのところで手を止めた。
「……静佳様は……」
「ん?」
「静佳様も信じているのですか? 和泉様のことを」
「ノーコメント」
「なんですかそれ」
「うっさいなあ。言っとくけど、あたしはあのおじさんに変な気持ちはないからね。吸血鬼なんかに殺されて、勝ち逃げされんのが嫌なだけ」
すると妙高院静佳は肘を抱き、「……だけど、まあ……」と胸を寄せた。ただでさえ立派な胸元に一層深い谷間ができる。
「和泉さんの隣で戦ってた晶は、知らないだろうけどさ――」
そして彼女がかすかに背筋を震わせながら思い出したのは。
「このあたしにボコボコにされて……それでも『あんな眼』をする奴が、そう簡単にくたばるわけないじゃん」
何度打ちのめされても立ち上がり、どんな絶望の中でもひたすらに光明を探し続けた凡人――“瓦解の果て ベルゼブブ”の召喚を成し遂げた男の顔だ。泥水をすすりながらも和泉慎平が魔王の名を呼んだあの瞬間だ。
「どうせまた、ひいひい言いながらでも、なんとかするわよ」
苦々しく思っているような、しかしどこか嬉しそうな、なんとも言えない微妙な顔でそう言った妙高院静佳。
「とはいえ……吸血鬼の大群に、ギルゴートギルバー、そして魔法使いダリア……」
不意にくすりと笑い――つい今しがたフラッと楽屋に現れ、冴月晶との会話を堂々と立ち聞きしていた人物へと顔を向けた。
「いくら和泉さんが望んだこととは言え、こんな戦いの成立に手を貸すなんて、性格悪いんじゃないの? アンリエッタ」
視線の先には、真っ青なフリルドレスに身を包んだアンリエッタ・トリミューンだ。
「――アンリエッタ様……?」
冴月晶の両肩にそっと手を乗せた彼女は、妙高院静佳と目を合わせ「さあ? どうでしょウカ」と花のように微笑む。
「確かに人間には荷が重い戦場だと思いますヨ。魔王の力があるとしてモ、一方的になぶられて終わるかもしれナイ」
そして一瞬考える素振りを見せてから、静かに言った。
「でもだからこそワタシは、あの優しく臆病な羊――水際に追い詰められた羊の行く末を、見届けたいのでしょうネ」
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