沼底にて爪を研ぐ

 自宅の鍵穴にどうしても鍵が入らず、いつもはどうやって開けていたのだろうかと思う。


「くそ――」


 数週間ぶりの定時帰りだというのに、ちっとも心は弾まない。

 キーシリンダー周辺に鍵先を打ち付けながら焦燥に駆られていた。


「くそ、くそ――」


 宵闇の始まりを足早に抜けてきた午後六時過ぎ。


 試行錯誤の末、どうにかこうにか鍵を回す。


 家の中に飛び込むと――コートも脱がず、エアコンも付けず、何はともあれベッド横に積み上げたストレージボックスの一つをリビング中央に引きずり出した。


 段ボール製のシンプルな収納ボックスだ。蓋を開ければ縦に一枚仕切りがあり、カードが合計八〇〇枚入る。とはいえ、ストレージボックス内には、もうあまり隙間はなかった。


「くそっ」


 硬く冷たいフローリングにあぐらをかき、適当にカードを一掴み。

 裏面が恐ろしく真っ黒な紙片――デモンズクラフトのカードたちを手の中で広げた。


 “聖者の雄叫び”を三枚。

 “裏切りの血潮”を二枚。

 “混沌狂い”を三枚。

 “悪夢より生まれしイゴーシュ”を三枚。


 目に止まったカードを次々と床に落としていく。


 カードの束をストレージボックスに戻し、また新しく一〇〇枚近くを取り出した。


 “塵と化す戦意”を三枚。

 “ルインスライム”を三枚。

 “刃蔓の繁茂”を二枚。


 何のことはない。吸血鬼ギルゴートギルバーの捕獲――それを成し得るデッキを一から作り上げようとしているだけだ。俺の一世一代の強がりを嘘にしないデッキを。


 ただ……新デッキ構築作業というカードゲーマーにとっての日常茶飯事に、こんなにも血眼にならなければならない夜が来るなんて、今日まで想像もしなかったが。


「笑えるぜ」

 目当てのカードを探しながら自嘲気味にそう呟いた瞬間だった。


 ――――


 不意に、丸めた背中に感じたずしりとした重み。まるで誰かがいきなりおぶさってきたかのような感覚。予期していなかったせいで、思わず「ぐ」と声が漏れてしまう。


 咄嗟に振り返った俺は見た。

「こんばんは。おにーさん♪」

 俺の背中の上で、小麦色の肌をした美少年が艶やかに笑っているのを。


「…………魔王……」


 可愛らしいおでこが蛍光灯の光を反射している。

 俺は半ば呆然としつつ、その人種すらもわからない美の極致に目を細めるのだ。


 思わず率直な感想が口に出た。

「……随分と、久しぶりな気がするな……」

「そう? 僕はずっと見てたからそうでもないけど」


 少年は長大な一枚布を身体に巻き付けた格好をしており、一見すればハリウッド映画で見た古代ローマの貴族みたいだった。とはいえ、少年の衣装を鮮やかに彩る黄色と橙のグラデーションが蟻の群れみたくうごめいていたのには、さすがに眉をひそめたが。


 俺は背中にまとわりついてくる少年を振り払わない。


 やがて少年は俺の首筋に唇を這わせ、「それよりも大丈夫~? あんな大見得切っちゃってぇ」なんてくすくす笑い始めた。


「今からでもごめんなさいした方が、身のためだよぉ?」


 それで俺は「馬鹿な」と吐き捨てながら、少年の唇を指先で払う。


「子供じゃないんだ。自分の言葉に責任ぐらい持つさ」

「だからそんな青い顔してデッキ組んでるわけ? ほんと可愛いよねえ。食べちゃいたくなるよ」

「やめろ。首を噛むんじゃない」

「いいひゃん。減るもんひゃないんひゃし」


 そして俺の首筋をひとしきり甘噛みした少年は、「でさ、どんなデッキ作ってるわけ?」ずいっと俺の右肩から上半身を乗り出してくる。


 あぐらを組んだ俺の足元に広がるカードを見て、「ふぅん……」すぐさま唇を歪めた。


「ははーん。読めたよ、おにーさんのデッキ」

「そうか」

「本当に、吸血鬼を殺さずに捕まえるつもりなんだ」

「そりゃあそれを約束したからな」


 すると俺の頭の上からカードが三枚落ちてくる。何かと思って取り上げてみれば、それは俺もよく見知ったカード、“冥府喰らいのネビュロス”だった。


「ねえねえ。ネビュロス入れようよ、ネビュロス」

「……ギルゴートギルバーはネビュロスの一撃を耐え抜くか?」

「は? そんなわけないじゃん。取り巻きもろとも蒸発しちゃうって」


 俺は“冥府喰らいのネビュロス”三枚を少年に返しつつ深いため息を吐くのだ。


「なら駄目だろ。攻撃できないデカブツの召喚に手札四枚はキツい。壁役ならレディ・フランメでいいよ。相手の効果も受けないし」

「えー。ネビュロス格好いいのにー」

「邪魔するんならテレビでも見ててくれ」

「ちぇ。おにーさんもかったるい条件引き受けたよねえ。吸血鬼なんて、皆殺しにする方が億倍簡単じゃん」


 そして少年は、俺の背中から俺のベッドへと居場所を変える。

 掛け布団の上にしっとりと横たわると、「まあ……縛りプレイに命を懸けるのも、おにーさんらしくていいか」涅槃仏のごとき穏やかな微笑みで俺を眺めることにしたらしい。


 “燃え盛る聖女レディ・フランメ”を三枚。

 “月夜の鎧剥ぎ”を三枚。


 俺はデッキに投入するカードの選別を進め、やがて「……一つ、いいか?」手元から目を上げることなく少年に声をかけた。


「なに?」

「いや、なに……お前なら、ギルゴートギルバーの力も知ってるかもと思ってな……」

「そんな反則みたいなことを僕が教えると思う?」

「だろうな」


 さすがに魔王は甘くないと苦笑する。


 吸血鬼ギルゴートギルバーのスペックが事前にわかれば、かなり有利な状況に立てると思ったのだ。ギルゴートギルバー用にデッキを調整することだってできる。


 吸血鬼の能力は、怪力、再生、変身、催眠、増殖。

 正直、そんなことはどうでもよかった。


 俺が知りたかったのは――ギルゴートギルバーの攻撃力と防御力をデモンズクラフトの数値に当てはめた場合、何点になるか。再生能力ならば、何点以下のダメージを無効化してくるか。変身したら攻撃力と防御力の数値に変化があるのか――そういうことだった。

 こればっかりはデモンズクラフトの生みの親に直接確かめるしかなかったのである。


 俺だってなんとなくの推測はしているし、ソロモン騎士屈指のカードゲーマー・冴月晶に聞けば納得できる答えが返ってくるかもしれない……だが、それが正解とは限らないのだ。むしろ、変な先入観に囚われてデッキ構築を失敗する可能性すらあった。


「らしくないなぁ」

 少年が不満そうな声をあげる。


「もしかしてガチガチの対策デッキ作りたいの? おにーさんほどのデッキビルダーが」


 俺は苦笑いしたまま「そりゃあ……」と言葉を濁し――しかし結局は『ゲームに誠実なカードゲーマー』で在り続けることを選択するのだった。


「変なことを聞いて悪かったな。今回のデッキも『やりたいこと』があって――あとは臨機応変、できることをできるだけだ」 

「そうそう。それでこそ、だよ」


 まあ……“冥府喰らいのネビュロス”の攻撃でギルゴートギルバーが死んでしまうことが確定しただけでも大収穫だろう。魔王のふとした優しさが身に染みるというものだ。


 ――――――


 それから俺は三〇分もしないうちに五〇枚のデッキを組み上げた。


 攻撃用のマジックカードの選出に手こずり、いまだ何枚か決めあぐねているカードもあるが。

「あとは実際に回して調整ってとこか」

 とりあえず戦える段階までは辿り着いたわけだ。


 それでベッドの上の少年を見やると、案の定というべきか、身体を起こして目を輝かせていた。とっとと戦わせろ――そう今にも飛びかかってきそうだ。


 それは俺にとっても好都合で、「最後まで付き合ってくれるんだろう?」なんて笑いながらカードを切る。


「もちろん。吸血鬼相手の練習台ってのがちょっと不服だけどね」


 そしてフローリングの上で対峙する俺と少年。


 二人してカードをシャッフルしていると、不意に少年が言った。

「晶も呼べばよかったのに」

「ん?」

「正攻法を相手にした方が、デッキの粗が見えるじゃん」

「そういうことか。まあ、今日はいいんだよ」


 魔法少女たちは今頃ライブの準備でバタバタしているだろう。しっかり休んで明日に備えて欲しかったから、冴月晶には今夜は来なくてもいいと言っている。


「大丈夫。お前さんのゴリ押しデッキが相手でも、調整はできるさ」

「へえ、今の台詞はちょっとカチンと来た」


 ゲームの始まりは二人とも笑顔。

 しかしカードの応酬が一五分を経過した頃には――


「いやっ最初っからわかってたけどさあ! そのデッキほんとムカつくねえ!!」


 自慢の大型モンスターを台無しにされた少年が、服のすそから生脚がはみ出るのも構わず床の上を転がり回るのだ。


「アマルゴート召喚すんのにどんだけ苦労したと思ってんだよーっ!!」


 俺はホッと胸を撫で下ろした。


 新しい俺のデッキ……このデッキはきっと、向かうべき方向を間違えていない。

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